これはびっくり、ダイユウサク 作:匿名希望ウマ娘1号
まだ「一度目」だった。
初出走という理由で、規定上の処分は免れた。
紙の上では、私はまだ走る資格を失っていないことになっている。猶予は与えられた。もう一度だけ、機会は残されている。
けれど、周囲の視線は違った。
あの着差は、単なる不調では説明できない。調子が悪かった、展開が向かなかった、そんな言い訳が通じる範囲を、はるかに超えている。
――競走能力そのものが足りていない。
誰も口にはしない。
でも、そう判断されていることは、痛いほど分かった。
二戦目は芝だった。
条件が変われば、何かが変わるかもしれない。そう考える人もいたのかもしれない。でも、私自身はほとんど期待していなかった。
ただ、走れと言われたから走る。
それだけだった。
結果は、一戦目よりもさらに重かった。
スタートして、前に出ようとする。
でも、体がついてこない。脚は動いているのに、距離が縮まらない。直線に入る頃には、すでに勝負は終わっていた。
ゴールしたとき、私はほとんど最後尾だった。
勝ちウマ娘から七秒以上。ブービーの子からすら、四秒以上遅れていると後で聞いた。
今度こそ、言い逃れはできなかった。
タイムオーバーによる出走停止処分。公式に、「走る場」を奪われた。
学園の掲示板に貼り出された結果を見て、誰も驚かなかった。
「ああ、やっぱり」
誰かのその一言で、すべてが片付けられる。
説明も、議論も、必要なかった。最初から、そうなると分かっていた――そんな空気だった。
私は、自分がどこで間違えたのかを考えることすらできなかった。
努力が足りなかったのか。
体が弱いからなのか。
それとも、最初から、ここに来るべき存在ではなかったのか。
考えれば考えるほど、答えは同じ場所に行き着く。
――才能がない。
それだけだった。
芝では通用しない。
ダートに回しても才能はない。障害に挑戦できるほど身体が強くない。
実績がなさすぎて、地方への転入すら許されなかった。
可能性を探る、という言葉が、ひどく空虚に聞こえた。
選択肢があるのは、選べるだけの力がある者だけだ。私には、残されている道そのものがなかった。
トレーナーは、次々と替わっていった。
誰も私を責めない。誰も怒らない。
でも、それは信頼ではなかった。
関心を失っているだけだった。
「様子を見よう」
「別の可能性を考えよう」
そう言われるたび、距離だけが広がっていく。
その言葉の裏に、「今は使えない」という判断があることを、私はもう理解していた。
やがて、学園の中で、私の名前は口に出されなくなった。
話題にもならない。期待もされない。
まるで、最初からいなかったかのように。
◆◆◆◆◆
私が才能を諦めてしまったのには、理由があった。
それは成績でも、体の弱さでもない。もっと根の深いところにあるもの――父の存在だった。
父は、かつて伝説の三冠ウマ娘・シンザンのトレーナーだった。
もっとも、父自身はその肩書きを誇ったことはない。誇る必要がなかったのだと思う。
シンザンは、特別なトレーニングを必要としなかった。工夫も、苦心も、試行錯誤もない。ただ走らせれば勝つ。そういう存在だった。
つまり、父のことなど初めから必要としていなかったのだ。
五冠。
誰もが語り、誰もが畏れる数字。
父は、そのすべてをすぐそばで見ていた。
奇跡の瞬間も、歓声も、伝説になる過程も、全部だ。
だからこそ、父は知ってしまったのだと思う。
努力では覆せない差があることを。
才能の前では、どれほどの情熱も、工夫も、根性も、等しく無力であることを。
その考えは、いつの間にか、私に向けられるようになった。
病弱で、走れず、結果も出せない娘。
父は、私に対して最初から何も期待していなかった。
叱られることもなかった。
励まされることもなかった。
ただ、淡々と、感情のない声で言われる。
「無理だ」
それは忠告でも、拒絶でもなかった。
父の顔は、事実を述べているだけだという表情をしていた。
レースに出たいと告げたときも、同じだった。
父は少しも考え込まずに言った。
「才能があるなら、もう結果が出ている」
「今さら何をしても、変わらない」
その言葉を、私は否定できなかった。
デビュー戦の惨敗も、二戦目の出走停止も、そのすべてが父の言葉を裏付けているように思えたからだ。
そして、オグリキャップの存在が、父の思想をさらに裏打ちしていた。
地方から現れた怪物。
努力や環境を軽々と飛び越えて、ただ勝ち続ける存在。
彼女は、まるでシンザンのようだった。
才能がすべてだという考えを、これ以上なく分かりやすく証明する存在。
学園でオグリキャップが走るたび、私は父の顔を思い出す。
――ほら、見ろ。
――才能のある者は、最初から違う。
そんな声が、どこからともなく聞こえてくる気がした。
私は、何も言い返せなかった。
否定できる材料が、どこにもなかったからだ。
だから私は、走る前から負けていたのだと思う。
才能がないと理解し、受け入れ、それでもここにいる理由を見失ったまま。
それでも、なぜか、学園を去る決断だけはできずにいた。
◆◆◆◆◆
そうして私は、最後の居場所に辿り着いた。
新人で、実績もなく、学園の中でもほとんど名前を知られていないトレーナー。
廊下ですれ違っても、誰かが声をかけることはない。会話の中心にいるのを、私は一度も見たことがなかった。
それは「選ばれた」という言葉から、いちばん遠い出会いだった。
余った者同士が、行き場のなさの果てに組み合わされた。そう言われた方が、ずっとしっくりくる。
周囲からの期待は、ほとんどなかった。
「どうせ長くは続かない」
そんな声が、かつては聞こえていた気もする。けれどその頃には、私はもう学園の片隅に追いやられていて、誰かの評価が耳に届く距離にすらいなかった。
トレーナーは、私の過去を知っていた。
二戦続けての惨敗。
出走停止。
競走能力への疑問。
資料をめくる指は止まらず、表情も変わらない。
同情も、失望も、そこにはなかった。
それでも彼は、私を「走れない娘」とは呼ばなかった。
結果を責めることもなければ、才能という言葉を持ち出すこともない。
ただ、私の脚や呼吸、体調の記録を見て、静かに言った。
「まだ、終わってはいない」
その言葉に、私は頷くことができなかった。
終わっている。
誰よりも、私自身がそう思っていたからだ。
勝利というものを、私はほとんど諦めていた。
G1なんて、最初から考えたこともない。
レースで誰かを抜く未来すら、うまく想像できなかった。
それでも、なぜか、学園を去ろうとは思えなかった。
テレビでは、オグリキャップが勝ち続けている。
理屈を置き去りにするような走りで、当然のように一着を重ねていく。
学園の中心では、同期たちが輝き続けている。
サクラチヨノオーの名前が語られ、
ヤエノムテキが称えられ、
スーパークリークやメジロアルダンが、期待される。
私は、そのすべての外側に立っている。
走る理由は、見つからない。
勝つ理由も、ない。
才能がないことだけは、はっきりしている。
それでも、胸の奥に、言葉にならない何かが残っていた。
せめて一度くらい、振り向かせたい。
それが勝利なのか、完走なのか、ただの意地なのか。
自分でも、よく分からない。
ただ、走ることだけは、やめていなかった。
それが、才能をかけらも持たないダイユウサクというウマ娘の――
私の物語の、始まりだった。