これはびっくり、ダイユウサク 作:匿名希望ウマ娘1号
走ることは、いつの間にか「特別な挑戦」ではなくなっていた。
勝つためでも、期待に応えるためでもない。ただ、生き残るために走る。そんな日常が、私には残っていた。
新人トレーナーのもとで、私は競走生活を続けている。
身体は相変わらず弱い。少し無理をすれば息は上がり、胸は苦しくなり、脚の感覚も曖昧になる。かつてのように「限界まで追い込む」調教はできない。今もそれは変わらなかった。
けれど、変わったこともある。
無理をしないこと。壊れないこと。走れる状態を保つこと。
トレーナーは、それだけを徹底した。勝ちを急がず、結果を欲張らず、私の体と相談しながら、出られるレースを選んでいく。
ダートを走り、芝を走り、距離も短かったり、少し長かったりする。
一貫性のないローテーションだと、周囲には言われた。
でも私には分かっていた。これは迷いではない。探しているのだ。私が、まともに走れる場所を。
ある日、初めて先頭でゴールを越えた。
条件戦。名前も知られていないレース。歓声もまばらで、誰かが時代の転換を語ることもない。
それでも、私は確かに勝った。
胸が高鳴ることはなかった。涙も出なかった。
ただ、「最後まで走り切った」という事実だけが、静かに残った。
私はもう、「走れない娘」ではない。
誰にも誇れないかもしれない。誰の記憶にも残らないかもしれない。
それでも、私は今日もトレセン学園にいて、次のレースの準備をしている。
生き残った。
それだけが、今の私に許された立ち位置だった。
◆◆◆◆◆
勝てるようになった、と言われるようになった。
条件戦をいくつか抜け、準オープンでも掲示板に載る。ときには一番人気の名前が、私の横に添えられることもあった。
周囲の言葉が、少しだけ変わる。
「力はあるよな」
「体さえ持てば、もっと上に行ける」
「使いどころ次第だ」
評価だと分かっている。否定ではない。
それでも、その言葉は、どこか遠かった。
勝っても、胸は騒がない。
ゴールの先で、息を整えながら思うのは、喜びではなく確認だった。――今回は、たまたま噛み合った。それだけだ、と。
私が勝っているのは、G1ではない。
重賞ですらない。
名前のないレースで、条件が揃ったときに、前に出ているだけだ。
同じ頃、同期たちは、もっと眩しい場所にいる。
テレビの向こうで、ヤエノムテキが語られ、
スーパークリークが距離適性を称えられ、
イナリワンやオグリキャップが、G1で名を刻んでいる。
そこは、私の立っている場所とは、あまりにも違う。
勝てば勝つほど、はっきりしていく。
私は、時代の中心にいない。
この流れの中で、語られる側ではなく、数字として消えていく側だ。
評価されているはずなのに、実感がない。
前に進んでいるはずなのに、距離は縮まらない。
「そこそこのレースなら結果は残せるんじゃないか」
その言葉が、胸の奥に沈殿していく。
私は勝っている。でも、届いてはいない。
その事実だけが、くっきりと形を持ち始めていた。
◆◆◆◆◆
テレビをつけると、いつも同じ名前が流れてくる。
スーパークリーク。
イナリワン。
オグリキャップ。
平成三強。
いつの間にか、そう呼ばれるようになっていた。
画面の中で、彼女たちは同じ場所を走っている。
G1。
一番強い者だけが立つとされる舞台で、勝つか、負けるかを問われている。
実況は言う。
「誰が勝つのか」
「三強の序列はどうなるのか」
「時代を代表する一頭は誰か」
そこに、「出られるかどうか」という前提はない。
彼女たちは、出て当然なのだ。
私は、同じ学園にいた。
同じ空気を吸い、同じトレセンで走っていたはずの存在だ。
それなのに、彼女たちが語られる言葉と、私に向けられる言葉は、まるで別の世界のものだった。
「次はどこを使うんだ?」
「条件が合えば、重賞も考えられるかもしれない」
――かもしれない。
その言葉が、いつも最後につく。
私は、「勝つかどうか」ではなく、
「出られるかどうか」を語られる側だった。
重賞すら、まだ勝っていない。
名前のあるレースで、一度も主役になったことがない。
私の成績は、紙の上では整ってきているはずなのに、語られるときには、必ず前置きがつく。
「地味だが」
「堅実ではあるが」
「爆発力はないが」
その“が”の向こう側に、G1はない。
平成三強の走りは、別次元だった。
スーパークリークは、長距離にて無敵の実力を誇り、
イナリワンは、重いバ場を力でねじ伏せ、
オグリキャップは、どれほど強大なウマ娘相手でも食らいついた。
努力しているかどうか、などという次元ではない。
あそこにあるのは、才能と才能がぶつかり合う場所だ。
私は、分かってしまった。
G1という場所は、努力の延長線上にある舞台ではない。
努力を前提に、それでもなお選ばれた者だけが立つ場所だ。
父の声が、頭の奥で蘇る。
「才能があるなら、もう結果が出ている」
否定できない。
平成三強を前にすると、その言葉はあまりにも正確だった。
私が積み重ねてきたものは、間違いではない。
走れるようになった。
勝てるようにもなった。
それでも、あそこには届かない。
同じ時代を走っているはずなのに、
私は、時代を象徴する存在ではない。
時代の傍らで、静かに生き残っているだけだ。
テレビを消しても、映像は消えない。
あの光景が、G1という場所が、
私と世界を、はっきりと隔てている。
努力しても、辿り着けない場所がある。
そう思ってしまうほどに、平成三強という現実は、重く、眩しかった。