これはびっくり、ダイユウサク 作:匿名希望ウマ娘1号
天皇賞(秋)に出ると、トレーナーは言った。
相談ではなかった。決定事項だった。
理由は分かっている。
ここまで来たなら、一度はG1に立たせたい。
そういう、まっすぐで、愚直な思いだ。
でも、私の胸に最初に湧いたのは、期待でも高揚でもなかった。
嫌悪に近い感覚だった。
――あそこに、立つのか。
G1。
かつて平成三強が争い、歴史が作られた場所。
タマモクロスは、もういない。
イナリワンも、もういない。
スーパークリークも、ターフを去った。
それででも、私の考えは変わらなかった。
G1など、私のような存在が、踏み込んでいい場所ではない。
そして、そこには必ずいる。
オグリキャップ。
同期。
同じ時代を走りながら、最初から住む世界が違った怪物。
地方から来た、才能の塊。
努力や環境や理屈を、すべて踏み潰して勝ち続けた存在。
テレビの中のオグリキャップは、いつも遠かった。
雲の上の存在だった。
だからこそ、私は目を逸らすことができた。
でも、今回は違う。
同じレース。
同じパドック。
同じスタートゲート。
「同じ」という言葉が、ひどく居心地が悪かった。
そんなはずはないのに、並べられてしまった感じがした。
私は、生き残っただけの存在だ。
走れなくて、見放されて、それでも運よく続けられているだけ。
一方で、オグリキャップは、時代そのものだった。
なのに、同じ舞台に立っている。
それが、怖かった。
そして、腹立たしかった。
オグリキャップを見ていると、胸の奥が粘つく。
憧れとも、尊敬とも、純粋な敗北感とも違う。
もっと汚い感情。
――どうして、あなたなんだ。
努力してきたのは、私だけじゃない。
そんなことは分かっている、それでも。
最初から全部を持っている存在がいる。
それを証明し続けてきた存在が、目の前にいる。
それなのに。
レースは、私の想像していた形では進まなかった。
オグリキャップは、勝負に絡めなかった。
かつてのような圧倒的な伸びはない。
前にいる馬たちを、ねじ伏せることもできない。
六着。
その数字を見た瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
安堵だった。
最低な感情だと、すぐに分かった。
でも、止められなかった。
――ああ、勝てないんだ。
才能の象徴。
怪物。
時代を代表する存在。
そのオグリキャップでさえ、勝てなくなっている。
私の結果は、七着だった。
当然、勝負には絡めない。
評価される内容でもない。
それでも、数字は並んでいた。
六と七。
一つ違い。
たったそれだけで、心が軽くなってしまった。
私は、オグリキャップに勝ちたいわけじゃない。
追いつきたいわけでもない。
そんなこと、最初から無理だと分かっている。
ただ――
才能というものが、永遠に勝ち続ける存在ではないと、
証明された気がした。
これでいい。
これで、いいのだ。
私たちは、ここまでなのだと。
オグリキャップが勝てないなら、
私が勝てなくても、仕方がない。
そう思える理由が、できてしまった。
その考えが、どれほど卑怯で、
どれほどオグリキャップに失礼かも、分かっている。
それでも。
才能が衰え、
怪物がただのウマ娘に戻り、
そして新たな才能にボロボロにされていく姿を見て、
私は、どこかで救われてしまった。
同時に、胸の奥に、
拭いきれない粘ついた感情が残った。
――それでも、あなたは、走るのか。
勝てなくなっても、
時代の中心から外れても、
なおG1に立ち続けるオグリキャップ。
その背中が、
安堵と一緒に、
私の中に重く沈んでいった。
◆◆◆◆◆
オグリキャップは、負けた。
天皇賞(秋)で、勝てなかった。
それなのに――
走ることを、やめなかった。
レースが終わっても、
次の予定が語られ、
調整が組まれ、
名前は変わらず話題に上がり続ける。
「衰えた」
「もうピークは過ぎた」
そんな言葉を浴びながら、
それでも彼女は、次のレースに向かっていた。
私は、その姿を、まともに見られなかった。
勝てないなら、やめればいい。
才能が尽きたなら、退けばいい。
そう思っていたはずだった。
父の言葉が、ずっと正しいと思ってきた。
才能があるから走る。
なければ、走る意味はない。
それが世界の仕組みだと、信じていた。
なのに。
才能の象徴だったオグリキャップが、
勝てなくなった今も、
なお走る理由を失っていないように見える。
それが、理解できなかった。
――どうして、走るの?
勝てない。
頂点に立てない。
拍手も、称賛も、減っていく。
それでも、
トレーニングをして、
ゲートに入り、
全力で走る。
意味が分からない。
分からないはずなのに、
目を逸らせなかった。
胸の奥が、ぐちゃぐちゃになる。
安堵したはずだった。
才能が永遠ではないと分かって、
救われたはずだった。
それなのに、
オグリキャップが走り続ける姿を見るたび、
その安堵が、腐っていく。
父の思想は、こう言う。
「才能がないなら、走る意味はない」
でも、現実のオグリキャップは、
才能が衰えても、
それでも走っている。
その二つが、噛み合わない。
私は、才能がない。
だから、勝てない。
だから、ここにいるだけでいい。
そうやって、
自分の居場所を、必死に納得させてきた。
なのに。
才能を持っていた存在が、
それを失いかけても、
なお走る姿を見せられると、
私の立っている場所が、揺らぎ始める。
――じゃあ、私は何なんだ。
才能がないから、走る意味がない。
そう思って、ここまで来た。
そこそこのレースで勝ち負けできれば、それで。
でも、
才能があっても、
勝てなくなっても、
それでも走る存在がいるなら。
私が走っている理由は、
どこに置けばいい?
羨ましい。
妬ましい。
腹立たしい。
全部、違う。
全部、同じ。
オグリキャップの背中は、
希望でも、絶望でもなかった。
ただ、
「走る」ということ、そのものだった。
勝つためでもなく、
己の才能を証明するためでもなく、
言い訳を作るためでもない。
それが、
私を一番、追い詰めた。
届かない場所だと、分かっている。
見上げるだけで、触れられない場所。
それでも、
目を離せない。
見てしまう。
見上げてしまう。
胸の奥に、
小さな、形のない違和感が生まれる。
それは、まだ言葉にならない。
怒りでも、希望でも、決意でもない。
ただ、
無視できない感覚。
――それでも、走るのか。
その問いが、
自分自身に向いていることに、
私はまだ、気づこうとしなかった。
この感情が、
いつか爆発するものだとも、
まだ知らなかった。
ただ、
オグリキャップの背中を見続けていた。
届かないと分かっている場所を、
それでも、
見上げ続けてしまう理由が、
そこにある気がして。