これはびっくり、ダイユウサク 作:匿名希望ウマ娘1号
ゲートが開いた瞬間、私ははっきりと理解してしまった。
――もう、違う。
オグリキャップのスタートは、鈍かった。
かつてのような、世界をねじ伏せる一完歩目ではない。
反応が遅れ、脚が噛み合わず、流れに乗るまでに時間がかかる。
周囲のウマ娘たちは、迷いなく前へ出る。
勢いがあり、若く、これからの時代を背負う脚だ。
その中で、オグリキャップだけが、ひとつテンポの遅れを抱えて走り出す。
ああ、と思ってしまう。
全盛期を知っているからこそ、分かってしまう。
これはもう、奇跡を起こす走りではない。
直線に入る前から、脚色は重い。
加速しない。
伸びない。
かつて当たり前だったことが、何ひとつ起きない。
そこには、天才の余裕はなかった。
相手を見下ろすような、怪物の暴力的な走りもない。
あるのは、限界を迎えた身体を、無理やり前に運ばせる、不格好な動きだけだ。
見ているのが、つらい。
そう思った瞬間、私は気づく。
それでも――
彼女は、下がらない。
抜かれても、譲らない。
押し出されても、踏みとどまる。
流れに置いていかれそうになっても、位置を手放さない。
勝つための脚ではない。
見せ場を作るための動きでもない。
ただ、「ここにいる」という事実を、必死に守り続けている走り。
才能に支えられていた頃なら、こんな走りはしなかったはずだ。
もっと軽く、もっと無慈悲に、前を奪い取っていた。
今のそれは、まるで別物だった。
それなのに。
それだからこそ。
私は、目を逸らせなくなる。
これは、才能の走りじゃない。
奇跡でも、覚醒でもない。
ただ、走り続けるという行為そのものだ。
前に出られなくても、
勝ち筋が見えなくても、
それでも脚を止めない。
その姿は、
私がずっと言い訳にしてきたものを、
静かに、しかし容赦なく照らし出していた。
――才能がないから、走らない。
――勝てないから、意味がない。
そんな言葉が、
あの背中の前では、ひどく薄っぺらく見えてしまう。
オグリキャップは、もう天才じゃない。
怪物でもない。
それでも、今この瞬間、確かに走っている。
その事実が、
私の中の何かを、じわじわと削り始めていた。
◆◆◆◆◆
直線に向いた瞬間、場の空気が変わったのが分かった。
誰もが、もう終わりだと思ったのだ。
前を行く馬群は、そのまま流れるように伸びていく。
脚は軽く、迷いがなく、勝負としては正しい。
一方で、オグリキャップの動きだけが、明らかに重い。
――残っていない。
それは感情ではなく、理屈として理解できた。
あれだけのローテーション。
削られ続けた身体。
全盛期なら余力として残っていたはずのものは、もうどこにもない。
もう、加速できるはずがない。
伸びるはずがない。
ここから前に出る理由が、どこにも存在しない。
だから、私は思ってしまう。
ああ、これで終わりだ、と。
その瞬間だった。
オグリキャップが、もう一段、脚を出した。
速くなったわけじゃない。
鋭くなったわけでもない。
それでも、確かに――前へ進んだ。
あり得ない。
そんなはずはない。
残っている脚など、どこにもないはずだ。
なのに。
彼女は、使った。
「残っていないはずの脚」を。
それは反射でも、本能でもなかった。
身体が勝手に動いたわけでもない。
あれは――選んだのだ。
ここで止まらない、と。
ここで終わらせない、と。
勝つためじゃない。
誰かを抜くためでもない。
拍手を浴びるためですらない。
ただ、
止まらないために走る。
前が遠くても、
差が埋まらなくても、
それでも脚を出す。
一完歩ごとに、身体が悲鳴を上げているのが分かる。
理屈も、計算も、未来も、全部無視して、
それでも前へ進むという、狂気じみた選択。
地獄だ。
これは、地獄の直線だ。
才能がある者の走りじゃない。
希望に支えられた走りでもない。
これは、何も持っていない者が、それでも走る姿だ。
その背中を見ながら、
私は初めて、恐ろしくなる。
才能がないから走れない、という言葉が。
勝てないから意味がない、という逃げ道が。
オグリキャップは、
勝てるかどうかなんて、とっくに分かっているはずだ。
それでも、ここで脚を止めなかった。
――走る、ということは。
――それでも走る、という選択は。
才能とは、まったく別の場所にあるのではないか。
直線の向こうで、
彼女はまだ、走っている。
その事実が、
私の中で、静かに、しかし決定的に、
何かを壊し始めていた。