これはびっくり、ダイユウサク 作:匿名希望ウマ娘1号
ゴール前で、何が起きているのか、最初は理解できなかった。
歓声が、悲鳴みたいな音に変わる。
期待でも、興奮でもない。
あれは――理解不能なものを前にした、人間の声だ。
前を行っていたはずの背中が、ひとつ、またひとつ、ずれていく。
抜かれたのではない。
置いていかれたのだ。
オグリキャップは、速くなっていない。
相変わらず、重い。
相変わらず、痛々しい。
それでも、前にいる。
必死で、
無様で、
脚の運びは乱れ、首の振りも揃わない。
美しさなんて、どこにもない。
あれは勝者の姿じゃない。
英雄の走りでもない。
ましてや、天才の輝きなんて、影も形もない。
――なのに。
「オグリ一着! オグリ一着! オグリ一着!
右手を上げた、オグリキャップ!
オグリ1着! オグリ1着! 見事に引退レース、引退の花道を飾りました。
」
一着だった。
掲示板に表示された数字が、現実を突きつける。
偶然じゃない。
奇跡でもない。
これは、
才能を失った者が、それでも勝ちに行った結果だ。
世界が一拍、沈黙した。
実況が言葉を失い、
解説が追いつかず、
観客席が、何を称えればいいのか分からなくなる。
才能じゃない。
強さでもない。
未来でもない。
今、この瞬間、走ることを選び続けた者が、そこに立っている。
――やめてくれ。
私は、心の中で叫んでいた。
それ以上、見せないでくれ。
それ以上、証明しないでくれ。
才能がないから無理だ。
勝てないから意味がない。
努力では届かない。
私は、そうやって生き延びてきた。
そうやって、自分を守ってきた。
なのに。
あの背中は、
その全部を、泥だらけのまま、踏み潰していく。
才能がなかったら、走れない?
違う。
才能を失ったら、終わり?
違う。
才能があるから走るんじゃない。
勝てるから走るんじゃない。
――走ると決めたから、走っている。
その事実が、
私の中で、音を立てて崩れ落ちる。
父の声が、割れる。
「無理だ」という言葉が、形を失う。
才能という概念が、ぐちゃぐちゃに潰される。
代わりに残ったのは、
説明のつかない、吐き気みたいな感情だった。
羨望。
嫉妬。
恐怖。
尊敬。
憧れ。
否定。
全部が絡み合って、
胸の奥で、ひとつの塊になる。
――私は、何を言い訳に、走っていなかったんだ。
勝ったオグリキャップは、
誇らしげでも、晴れやかでもない。
ただ、
やり切った者の顔をしていた。
その表情を見た瞬間、
私は完全に、壊れた。
才能がないから、じゃない。
勝てないから、でもない。
私は、
走る覚悟を持っていなかっただけだ。
熱狂の絶叫が、中山に響き渡る。
泥にまみれたその一着は、
世界の価値観をひっくり返したのではない。
私の中の、
「才能に依存して逃げる自分」を、
完膚なきまでに、叩き潰したのだ。
息ができない。
涙も出ない。
声も出ない。
ただ、心の奥で、
何かが、確かに、生まれていた。
逃げ場のない、
もう戻れない、
それでも前に進むしかない――
走る者としての、意志が。
◆◆◆◆◆
私は、座り込んだまま、何もできなかった。
目の前の光景――泥まみれで、ありえない速度で、止まらずにゴールを駆け抜けたオグリキャップ――
その一瞬の意味を、理解することができなかった。
胸の奥が、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられる。
心臓が焼けるように痛み、呼吸は浅く、汗が全身を覆い尽くす。
頭の中で、父の言葉が繰り返される。
「無理だ」「才能がない」「今さら、何をやっても変わらない」
その言葉は、もう効かない。
破裂した膜のように、効力を失っていた。
才能がないから、走れない。
勝てないから、やめていい。
それが、あの背中の前では、ただの嘘に思えた。
私は息を荒げ、両手で頭を抱える。
体が震え、涙も笑いも、恐怖も歓喜も、すべてが混ざり合い、制御できない。
脳の中で、何かが爆発する。
「安全地帯」が消えた。
逃げる場所は、もはやどこにもない。
そして、口が勝手に動く。
言葉が、魂の奥底から、毒のように湧き上がる。
「……私も、G1を、勝ちたい……」
呪文のように、繰り返す。
意味も理屈もない。
希望でも願いでもない。
ただ、逃げられないから、言わずにはいられない。
足が勝手に動き、心が勝手に燃え上がる。
狂気じみた、病的な衝動――
オグリキャップの背中が私に植え付けた、新しい呪いだ。
私には、選択肢がない。
才能がなくても、勝てなくても、
前に進むしかない――
その事実だけが、明確に迫る。
全身に熱が走り、頭の芯が沸騰するようだ。
体は弱い。脚はまだ満足に出せない。
でも、意志が先に動く。
もう、止まれない。
走るしかない。
そうして、私は決めた。
世界の中心には立てないかもしれない。
輝くこともできないかもしれない。
だが、ここから逃げない。
それは希望ではない。
それは意志でも、勇気でもない。
これは、逃げ場の消失としての覚醒だ。
才能を失った者が、勝利を掴むために走る。
私は、まだ才能のないまま、
それでもG1を目指すことになった。
――走り続けてきた者の、最後の狂気の物語が、今、幕を開ける。