これはびっくり、ダイユウサク   作:匿名希望ウマ娘1号

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08 予定調和は崩される

オグリキャップが引退してから、後すこしで一年になる。

 

マイルCSで五着に終わったとき、私は身体の奥から突き上げる虚無を感じた。

 

努力も、調整も、すべて無駄だった。心も筋肉も、すべて、空っぽになった。

 

父の声が頭をよぎる――「無理だ」

 

その言葉は、これまでの言い訳を支えていた。しかし、今はもう頼ることは許されなかった。

 

現実を見れば、スプリンターズステークスが、私に残された最も現実的な舞台だった。

短距離なら、マイラーの私でもぎりぎり勝ち目がある。

 

だが、トレーナーが告げた作戦は、現実を超えた狂気だった。

 

「有馬記念にいこう」

 

口調こそ冷静だったものの、その言葉は狂気に満ちていた。

 

私の本領はマイルだ。

 

そんな私が有馬記念に、芝2500mに挑むなんて、無謀にも程があった。

 

それに、そもそも根本的な問題がある。

 

有馬記念は世界でも珍しいファン投票で出走が決まるレースだ。たかが重賞一勝、それもG1の私が選ばれるはずもない。

 

「阪神レース場の改装を祝って、今年限りで阪神改装記念というレースが開かれる。勝てば、一か八か推薦枠が狙える」

 

 

推薦枠、それはファン投票以外で唯一出走が可能な道。阪神快走記念を勝ち、その走りが認められれば、私でも有馬にでられる。

 

「はは……」

 

私は、笑った。

 

こんなもの、作戦ですらない。ボタン一つかけ違えばそれだけで出走への道が閉ざされる、狂気の綱渡りだ。

 

もしも、私が改装記念で負けたら? もしも、推薦委員会が私の成績を咎めたら?

 

私はシニア級を3年も走っている。引退の足音が迫っているなかで、出られるレースの数など限られている。

 

だというのに、こんな博打をしろと?

 

成功すれば、夢のG1舞台への扉が開く。

失敗すれば、もう取り返しがつかなくなる。

 

後戻りはできない。現実的な勝算は、ほとんどない。

 

それでももう私の頭には、最も過酷で、最も危険な舞台しか残されていなかった。

 

有馬記念――その名を聞くだけで胸の奥がざわめく。

 

あそこは、かつてオグリキャップが勝利した舞台だ。

泥まみれ、限界に達した身体で、執念の勝利をもぎ取ったあの背中は、今も私の脳裏に焼き付いている。

 

あの光景を目にした日から、私は逃げられない狂気に囚われていた。

 

「才能がなければ勝てない」

「努力しても意味はない」

そう思っていた私の心を、あのレースは完膚なきまでに破壊した。

才能がすべてという父の言葉を、あの背中は否定した。

 

そして、私の中に、後戻りできない欲望の種を植えつけた。

 

「有馬がいいです。いいえ、有馬じゃなきゃ、嫌です。」

 

私は、笑った。

 

父なら、決して許さなかっただろう。才能のない私に、無謀だと笑い、止めろと叫ぶだろう。

 

しかし、私はそれらすべてを振り切った。自分の意思で、後戻りできない道を選んだ。

 

狂気が、血の奥でざわめいた。

後がない、逃げ場はない、勝てる保証もない。

 

絶望のすべてが、私を前へ押し出す燃料になった。

マイルCS五着も、限界を超えた挑戦の痛みも、すべて――有馬記念に突き進む理由になった。

 

トレーナーは微かに笑ったように見えた。

その目に映るのは、狂気に取り憑かれたウマ娘と、それに共鳴するトレーナーの影。

 

私たちは常識という檻を蹴破り、後戻りできない舞台に足を踏み入れる――泥まみれ、血まみれの有馬記念という地獄へ。

 

胸の奥が、熱で煮えたぎる。

震え、痛み、恐怖、焦燥、希望――すべてが絡み合い、渦を巻き、私を前へ押し出す。

 

「走るしかない……ここで止まれば、すべて終わる……」

 

誰も私を止められない。

 

父も、世間も、歴史も、この狂気を止めることはできない。

 

私は後戻りできない道を、恐怖と歓喜と狂気が交錯するままに駆け出した。

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

ターフに、長距離の天才が現れた。

メジロマックイーン――その名前が口に上るたび、空気の密度が変わるのが分かった。

 

走りは無駄がなく、最初から最後まで合理的で美しい。

前に出すぎず、後ろに下がらず、距離を味方につけ、最後の直線では脚が弾ける。

 

歓声は自然に湧き上がり、誰もが納得する勝ち方だ。

疑いも、違和感も、無理もない。完璧な才能の証明。

 

今年の秋、京都大賞典で私は完膚なきまでに敗北した。

2400mでメジロマックイーンに勝つのは不可能だと、そう思ってしまうほど強かった。

 

私は遠くから眺めるしかなかった。

マイルでぎりぎりの身体を誤魔化しながら勝利を拾いに行く自分。

その隣で、長距離の神髄を体現し、正攻法で未来を切り拓くマックイーン。

 

その差は大きすぎる。

努力と執念で泥を掻き分ける私と、生まれながらに距離を支配する彼女。

比べること自体が、間違っているように思えた。

 

しかし、不思議な感覚が胸の奥に残った。

マックイーンの光に圧倒され、打ちのめされ、それでも完全には折れなかった自分がいた。

 

彼女の才能の強さが、逆に私の中にあるものを浮かび上がらせたのだ。

 

私は輝いていない。

壊れかけの、ツギハギだらけのガラクタだ。

 

限界を越える前提で身体を使い潰し、精神を削り、理屈を無視して走る。

美しくも正しくもない、泥まみれで痛みと恐怖で形を変えた走り。

 

だが、その走りには確かに、天才とは別の力が宿る。

 

マックイーンが神様に愛されたウマ娘なら、

私は神様の足にしがみついて醜くあがくウマ娘だ。

 

才能の光の前では私は影に過ぎない。しかし、影は時に光をも塗りつぶす。

 

泥の中でしか立てない私には、泥の中でしか出せない力がある。

 

胸の奥で、またひとつ何かが壊れた。

これは希望でも自信でもない。ただの、狂気だ。

 

それでも私は目を逸らさなかった。

マックイーンという完成形を前にして、なお、自分の壊れた走りを信じようとした。

 

――この時点で、私はすでに、まともではなかった。

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