これはびっくり、ダイユウサク 作:匿名希望ウマ娘1号
オグリキャップが引退してから、後すこしで一年になる。
マイルCSで五着に終わったとき、私は身体の奥から突き上げる虚無を感じた。
努力も、調整も、すべて無駄だった。心も筋肉も、すべて、空っぽになった。
父の声が頭をよぎる――「無理だ」
その言葉は、これまでの言い訳を支えていた。しかし、今はもう頼ることは許されなかった。
現実を見れば、スプリンターズステークスが、私に残された最も現実的な舞台だった。
短距離なら、マイラーの私でもぎりぎり勝ち目がある。
だが、トレーナーが告げた作戦は、現実を超えた狂気だった。
「有馬記念にいこう」
口調こそ冷静だったものの、その言葉は狂気に満ちていた。
私の本領はマイルだ。
そんな私が有馬記念に、芝2500mに挑むなんて、無謀にも程があった。
それに、そもそも根本的な問題がある。
有馬記念は世界でも珍しいファン投票で出走が決まるレースだ。たかが重賞一勝、それもG1の私が選ばれるはずもない。
「阪神レース場の改装を祝って、今年限りで阪神改装記念というレースが開かれる。勝てば、一か八か推薦枠が狙える」
推薦枠、それはファン投票以外で唯一出走が可能な道。阪神快走記念を勝ち、その走りが認められれば、私でも有馬にでられる。
「はは……」
私は、笑った。
こんなもの、作戦ですらない。ボタン一つかけ違えばそれだけで出走への道が閉ざされる、狂気の綱渡りだ。
もしも、私が改装記念で負けたら? もしも、推薦委員会が私の成績を咎めたら?
私はシニア級を3年も走っている。引退の足音が迫っているなかで、出られるレースの数など限られている。
だというのに、こんな博打をしろと?
成功すれば、夢のG1舞台への扉が開く。
失敗すれば、もう取り返しがつかなくなる。
後戻りはできない。現実的な勝算は、ほとんどない。
それでももう私の頭には、最も過酷で、最も危険な舞台しか残されていなかった。
有馬記念――その名を聞くだけで胸の奥がざわめく。
あそこは、かつてオグリキャップが勝利した舞台だ。
泥まみれ、限界に達した身体で、執念の勝利をもぎ取ったあの背中は、今も私の脳裏に焼き付いている。
あの光景を目にした日から、私は逃げられない狂気に囚われていた。
「才能がなければ勝てない」
「努力しても意味はない」
そう思っていた私の心を、あのレースは完膚なきまでに破壊した。
才能がすべてという父の言葉を、あの背中は否定した。
そして、私の中に、後戻りできない欲望の種を植えつけた。
「有馬がいいです。いいえ、有馬じゃなきゃ、嫌です。」
私は、笑った。
父なら、決して許さなかっただろう。才能のない私に、無謀だと笑い、止めろと叫ぶだろう。
しかし、私はそれらすべてを振り切った。自分の意思で、後戻りできない道を選んだ。
狂気が、血の奥でざわめいた。
後がない、逃げ場はない、勝てる保証もない。
絶望のすべてが、私を前へ押し出す燃料になった。
マイルCS五着も、限界を超えた挑戦の痛みも、すべて――有馬記念に突き進む理由になった。
トレーナーは微かに笑ったように見えた。
その目に映るのは、狂気に取り憑かれたウマ娘と、それに共鳴するトレーナーの影。
私たちは常識という檻を蹴破り、後戻りできない舞台に足を踏み入れる――泥まみれ、血まみれの有馬記念という地獄へ。
胸の奥が、熱で煮えたぎる。
震え、痛み、恐怖、焦燥、希望――すべてが絡み合い、渦を巻き、私を前へ押し出す。
「走るしかない……ここで止まれば、すべて終わる……」
誰も私を止められない。
父も、世間も、歴史も、この狂気を止めることはできない。
私は後戻りできない道を、恐怖と歓喜と狂気が交錯するままに駆け出した。
◆◆◆◆◆
ターフに、長距離の天才が現れた。
メジロマックイーン――その名前が口に上るたび、空気の密度が変わるのが分かった。
走りは無駄がなく、最初から最後まで合理的で美しい。
前に出すぎず、後ろに下がらず、距離を味方につけ、最後の直線では脚が弾ける。
歓声は自然に湧き上がり、誰もが納得する勝ち方だ。
疑いも、違和感も、無理もない。完璧な才能の証明。
今年の秋、京都大賞典で私は完膚なきまでに敗北した。
2400mでメジロマックイーンに勝つのは不可能だと、そう思ってしまうほど強かった。
私は遠くから眺めるしかなかった。
マイルでぎりぎりの身体を誤魔化しながら勝利を拾いに行く自分。
その隣で、長距離の神髄を体現し、正攻法で未来を切り拓くマックイーン。
その差は大きすぎる。
努力と執念で泥を掻き分ける私と、生まれながらに距離を支配する彼女。
比べること自体が、間違っているように思えた。
しかし、不思議な感覚が胸の奥に残った。
マックイーンの光に圧倒され、打ちのめされ、それでも完全には折れなかった自分がいた。
彼女の才能の強さが、逆に私の中にあるものを浮かび上がらせたのだ。
私は輝いていない。
壊れかけの、ツギハギだらけのガラクタだ。
限界を越える前提で身体を使い潰し、精神を削り、理屈を無視して走る。
美しくも正しくもない、泥まみれで痛みと恐怖で形を変えた走り。
だが、その走りには確かに、天才とは別の力が宿る。
マックイーンが神様に愛されたウマ娘なら、
私は神様の足にしがみついて醜くあがくウマ娘だ。
才能の光の前では私は影に過ぎない。しかし、影は時に光をも塗りつぶす。
泥の中でしか立てない私には、泥の中でしか出せない力がある。
胸の奥で、またひとつ何かが壊れた。
これは希望でも自信でもない。ただの、狂気だ。
それでも私は目を逸らさなかった。
マックイーンという完成形を前にして、なお、自分の壊れた走りを信じようとした。
――この時点で、私はすでに、まともではなかった。