ワンピース最終話   作:小田桐5854


原作:ONE PIECE
タグ:アンチ・ヘイト
ワンピース最終話です。

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終わる世界

 黄猿は欠伸をした。

 

 シャボンディ諸島の沖合、海軍の巡視艇が捕捉した海賊船は見るからに粗末な造りをしていた。帆は破れ、船底には既に海水が染み込んでいるのだろう、傾いだまま波間を漂っている。懸賞金総額にして三百万ベリーにも満たぬ連中だと、事前の報告で聞かされていた。わざわざ大将が出向く案件ではない。それは本人が誰よりもよく理解している。

 

 だがボルサリーノという男は退屈を嫌った。

 

 海軍本部の執務室で書類と睨み合うよりはたとえ取るに足らぬ仕事であっても身体を動かしたほうがまだましである。そう考えて志願したのが今朝のことだ。赤犬は呆れた顔をしていたし、青雉に至っては「暇なんだねェ」と皮肉めいた言葉を投げてきたがどちらも意に介さなかった。光の速度で移動できる人間にとって、移動時間など存在しないに等しい。往復したところで瞬きひとつ分の時間も消費しない。

 

 巡視艇の甲板から海賊船を見下ろしながら、黄猿は人差し指を額に当てた。考えるふりをしているだけで実際には何も考えていない。海賊たちが慌てふためき、逃げ惑う様を観察しているのである。小さな蟻の巣に水を流し込んだときのような、そういう類の光景だ。

 

「大将、いかがなさいますか」

 

 傍らに控えた中佐が緊張した声で尋ねる。黄猿は返事をせず、ゆっくりと靴紐を結び直した。別に緩んでいたわけではない。ただの暇潰しである。

 

「ボルサリーノ大将」

 

「ん〜、聞こえてるよォ」

 

 間延びした声で応じながら、ようやく立ち上がる。大将の軍服が海風に靡いた。

 

「あの程度の連中、わっしがわざわざ出向くまでもないんだけどねェ……」

 

 言いながら、口元には薄い笑みが浮かんでいる。退屈だったのだ。書類仕事が会議が報告書が。光の速度で生きる男にとって、世界はあまりにも緩慢に回っていた。他の人間たちが一秒と感じる時間の中で自分だけが三億倍の密度で存在している。その感覚は言葉で説明しても誰にも伝わらないだろう。

 

「まァ、いい運動になるかなァ」

 

 黄猿の身体が光に変わる。

 

 ピカピカの実──自然系の能力のなかでも最強の一角とされる、光人間の力である。光そのものと化した肉体は理論上、秒速約三十万キロメートルでの移動を可能にする。真空中の光速度、それが彼の「上限」だった。

 

 これまで黄猿がその能力を行使する際には常に無意識の「制限」が存在した。本人さえ気づいていない抑制、肉体が本能的に設けていたリミッターである。光速の何万分の一、何億分の一という速度でさえ、日常の戦闘においては過剰すぎるほどの力だ。シャボンディでルーキーたちを蹴散らしたとき、頂上戦争でマルコと渡り合ったとき、いずれも本気からは程遠い出力であった。

 

 だが今日、この瞬間──

 

 黄猿の意識にほんのわずかな油断が生じた。

 

 あまりにも弱い敵、あまりにも退屈な日常、そして光速で存在することへの飽き。それらが複合的に作用し、普段は決して外れることのない制御がほんの一瞬だけ緩んだのである。

 

 光となった脚が振り上げられる。

 

 八尺瓊勾玉でも天叢雲剣でもない、単なる蹴り技──レーザーでも爆発でもない、純粋な物理攻撃としての一撃が海賊船の方角へと放たれようとしていた。

 

 そしてその脚は──真に光速で動いた。

 

 ◇

 

 破滅は認識よりも先に訪れた。

 

 黄猿の右脚を構成する物質──骨格と筋繊維と皮膚組織、それらの総重量は約十二キログラムである。通常の人間の脚と大差ない。だがこの十二キログラムの質量が光速の九十九・九九九九パーセントという速度で加速されたとき、何が起こるか。

 

 アインシュタインの特殊相対性理論によれば、物体の相対論的質量は速度の増加に伴って増大する。光速に近づくにつれ、その増加は無限大へと漸近していく。光速の九十九・九九九九パーセントにおいて、黄猿の脚の有効質量は静止質量の約七千倍──すなわち八十四トンを超える。

 

 だがそれは始まりに過ぎなかった。

 

 問題は運動エネルギーである。

 

 古典力学における運動エネルギーは質量と速度の二乗に比例する単純な式で表現されるが相対論的領域においてはまったく異なる様相を呈する。光速に限りなく近い速度で移動する物体の運動エネルギーはE=mc²の式が示唆するように質量をエネルギーへと変換し得る次元にまで達する。

 

 黄猿の脚が内包したエネルギー量はおよそ十の二十乗ジュールを超えていた。

 

 比較対象を挙げるならば、第二次世界大戦末期に投下された原子爆弾のエネルギーが約十の十三乗ジュール、人類史上最大の核実験「ツァーリ・ボンバ」でさえ十の十七乗ジュールである。黄猿の一蹴りはそれらを遥かに凌駕していた。地球に衝突して恐竜を絶滅させた小惑星のエネルギーに匹敵する──あるいはそれすら上回るかもしれぬ破壊力がわずか十二キログラムの脚部に圧縮されていたのだ。

 

 最初に現象として現れたのは光ではなかった。

 

 大気との衝突である。

 

 光速に近い速度で大気圏内を移動するということはその経路上に存在するあらゆる気体分子と衝突し続けることを意味する。窒素、酸素、アルゴン、二酸化炭素──通常であれば人間の呼吸を支えるはずのこれらの分子が光速の脚と激突した瞬間、まったく別の何かへと変貌した。

 

 核融合が始まったのである。

 

 軽元素の原子核同士が信じがたい運動エネルギーを持って衝突するとき、それらは融合する。水素がヘリウムにヘリウムがより重い元素に。太陽の内部で十億年かけて進行する反応が黄猿の脚が通過した軌跡上において一瞬で発生した。

 

 シャボンディ諸島の上空に小さな太陽が出現した。

 

 表面温度は一億度を超えていたはずだ。恒星の核で起こるべき現象が地表からわずか数百メートルの高度で展開されている。光球から放射された可視光線、紫外線、そしてX線とガンマ線が全方位へと拡散していく。

 

 だがまだ誰もその光を見ていなかった。

 

 光よりも速い情報伝達手段は存在しない──はずである。にもかかわらず、現象の発生から「認識」までのあいだには決定的な時間差が生じていた。黄猿の脚が大気を引き裂いた軌跡は彼が蹴りを放ってから約十億分の一秒後に初めてエネルギーを放出し始めた。光が観測者の網膜に届くまでにはさらに数十マイクロ秒を要する。

 

 海軍の巡視艇にいた将兵たちにとって、世界は突然白く染まった。

 

 それが最後に見た光景である。

 

 プラズマ化した大気が球状に膨張し、衝撃波が音速の数万倍という速度で伝播していく。巡視艇は存在を許されなかった。金属と木材と人体を構成していた分子が一瞬で解離し、原子レベルにまで分解された。蒸発、という表現すら生温い。物質としての存在そのものが剥奪されたのである。

 

 シャボンディ諸島が消滅するまでに要した時間は〇・〇〇三秒未満だった。

 

 巨大なシャボンの樹は燃えることすらできなかった。熱放射が到達した瞬間に炭素と水素と酸素に分解され、それらもまた次の瞬間にはプラズマ化した。諸島を形成していた地殻物質が溶融し、沸騰し、気化する。マングローブの根が張っていた海底の岩盤は数百キロメートルの深さにわたって液状化した。

 

 爆発の中心点──かつて黄猿が立っていた座標──には直径十キロメートルを超えるクレーターが刻まれた。いや、クレーターという言葉は正確ではない。そこには何も残っていなかったからだ。大気も海水も地殻もすべてが消滅した真空の空洞が世界に穿たれた傷痕のように口を開けている。

 

 そして衝撃波は止まることを知らなかった。

 

 ◇

 

 マリンフォードに異変が伝わったのは発生から約四秒後のことである。

 

 伝わった、という表現は正確ではないかもしれない。異変を知覚できた者はすでに一人もいなかったからだ。光と熱と衝撃波が海軍本部の所在地に到達するよりも先に電磁パルスがあらゆる通信機器を焼き尽くしていた。

 

 元帥センゴクは執務机に向かっていた。

 

 黄猿からの定時報告がないことにわずかな苛立ちを覚えていた。あの男は昔から報告を怠る傾向がある──そう思いながら窓の外に目をやった瞬間、水平線の彼方が白く輝いた。

 

 夕日かと思った。

 

 だがそれは東の方角だった。

 

 疑念が確信に変わるよりも早く、センゴクの視界は純白に染まった。網膜が焼かれ、視神経が断裂し、次いで眼球そのものが沸騰した。痛みを感じる暇もなかった。神経伝達よりも熱波の浸透のほうが速かったからだ。

 

 マリンフォードの正義の門がまるで紙細工のように吹き飛んだ。数百年の歴史を誇る海軍本部の建造物群は巨大な松明として数秒間だけ燃え盛り、次の瞬間には灰すら残さず消滅している。駐留していた十万を超える将兵たち、彼らの身体を構成していた有機物質が一斉に炭化し、さらに昇華していく光景をもはや誰も見ることができない。

 

 だがこれは災厄の序章に過ぎなかった。

 

 黄猿の光速の蹴りが解放したエネルギーは局所的な破壊で収まるような規模ではなかったのである。

 

 地殻が揺れた。

 

 偉大なる航路──グランドライン全土にマグニチュード十を超える地震が伝播していく。これは通常の地震波ではない。プレートの歪みが解放されたのではなく、純粋な運動エネルギーが地殻を伝導しているのである。

 

 大陸が割れた。

 

 レッドラインの巨大な岩塊に無数の亀裂が走る。赤い土の大陸を形成していた岩盤は数億年の歳月をかけて堆積し固着した地質構造だったがそれがわずか数十秒で崩壊を始めた。マリージョアの聖地が傾き、世界政府の中枢が地の底へと沈んでいく。天竜人たちの悲鳴は誰の耳にも届かなかった。空気を伝える音波よりも岩盤崩壊の速度のほうが速かったからだ。

 

 海が沸騰していた。

 

 爆心地から放射された熱エネルギーが周囲数百キロメートルの海水を瞬時に気化させた。巨大な水蒸気の柱が天を衝き、成層圏にまで達する。だがそれは一時的な現象に過ぎない。より深刻だったのはこの気化によって露出した海底がさらなる熱放射を受けて溶融し始めたことである。

 

 カームベルトの海王類たちが最初の犠牲者となった。

 

 あらゆる生命を超越した古代種、世界政府すら恐れた巨大生物たち──彼らの強靭な表皮も光速の余波がもたらした熱波の前には無力だった。体液が沸騰し、内臓が破裂し、筋繊維が炭化する。数キロメートルにも及ぶ巨体が苦悶の声を上げることすらできずに絶命していく。

 

 そして大気が燃えた。

 

 窒素と酸素の混合気体である地球の大気は通常であれば燃焼しない。だが超高温のプラズマが触媒となるとき、事情は変わる。窒素酸化物が大量に生成され、それがさらなる連鎖反応を引き起こす。空が赤黒く染まり、酸性の雨が降り注ぎ始めた。

 

 四つの海に棲むすべての生命が死に瀕していた。

 

 イーストブルー、ウェストブルー、ノースブルー、サウスブルー──かつて「楽園」と呼ばれたこれらの海域にもはや楽園の面影はなかった。海面を覆い尽くす魚の死骸、岸辺に打ち上げられた鯨たち、そして人間の集落から立ち昇る黒煙。

 

 フーシャ村は跡形もなく消滅していた。

 

 風車のついた小さな酒場も村長の家も海賊王の故郷であったすべてが熱波と衝撃波に呑まれて霧散している。そこに暮らしていた人々──麦わらの少年が「また会う」と約束した人々──の存在を証明するものは何一つ残っていない。

 

 同様の運命が世界中のあらゆる集落を襲った。

 

 ローグタウンがシロップ村がココヤシ村がアラバスタ王国が空島スカイピアがウォーターセブンがスリラーバークが──すべてが同時多発的に崩壊している。

 

 だがこれらの破壊でさえ、まだ序章に過ぎなかった。

 

 ◇

 

 光速の蹴りから三十秒が経過した頃、この世界の終焉が確定的となる事象が発生した。

 

 大気圏の崩壊である。

 

 爆発によって成層圏まで吹き上げられた大量の塵埃と水蒸気、そして窒素酸化物の雲が太陽光を遮断し始めた。だがそれは寒冷化ではなく、むしろ逆の効果をもたらした。温室効果ガスの濃度が急上昇し、地表温度が加速度的に上昇していったのである。

 

 同時にオゾン層が消滅した。

 

 紫外線と宇宙線を遮っていた保護膜が失われ、致死量の放射線が地表に降り注ぐ。仮に熱波や衝撃波を逃れた生命体がいたとしてもこの放射線被曝から逃れる術はない。

 

 海が干上がり始めていた。

 

 かつて世界の七割を覆っていた海水が急速に蒸発していく。露出した海底には千年前のポーネグリフが刻まれた遺跡や、伝説の財宝を積んだ沈没船が姿を現したがそれらを目撃する者はもういない。

 

 インペルダウンの大監獄が地下深くで崩壊した。

 

 マグマの奔流が最下層から噴出し、収監されていた凶悪犯罪者たちを呑み込んでいく。彼らの多くは自分が何によって死んだのかを理解する暇もなかったはずだ。

 

 四皇の縄張りであった新世界の島々が次々と海中に没していった。

 

 ワノ国の鎖国を支えていた巨大な滝は水源が枯渇して流れを止めた。ゾウの巨象──千年を生きた幻の動物──は足場を失って転倒し、その衝撃で自らの内臓を破裂させて絶命する。ホールケーキアイランドの菓子でできた建造物群は高温で溶解してひとつの巨大な飴の塊と化した。

 

 百獣のカイドウは鬼ヶ島にいた。

 

 世界最強の生物と称された男──何度自殺を試みても死ねなかった不死身の怪物──はこのとき初めて、死の予感を覚えたという。空が裂け、大地が割れ、海が消えていく光景を酒瓶を片手に眺めていた。龍の姿に変身する気力すら、すでに失われている。

 

「……ウォロロ」

 

 乾いた笑いが漏れた。

 

 求めていた「壮大な死」がこんな形で訪れるとは思わなかったのだろう。だがそれを考察する時間は与えられなかった。足元の地面が崩れ、千年の歴史を誇る鬼ヶ島が海中へと──いや、もはや海はない。灼熱の大地へと沈んでいく。

 

 シャンクスは自分の船の上にいた。

 

 赤髪海賊団の旗艦は新世界のどこかの海域を航行中だった。突然の異変に船員たちが騒然となる中、四皇の一人は静かに東の空を見つめている。

 

 そこにかつてルフィと別れた港町があったはずだった。

 

 今はもう、何も見えない。水平線そのものが消滅し、代わりに煮えたぎる溶岩の壁が迫ってきている。

 

「……」

 

 何も言わなかった。

 

 言葉にできることなど、何もなかったからだ。麦わら帽子に託した夢、新しい時代への期待、それらすべてが意味を失う瞬間がこうも呆気なく訪れるものなのか。赤髪の男は最期の瞬間まで東を見つめ続けていた。

 

 黒ひげマーシャル・D・ティーチは笑っていた。

 

 闇の能力と地震の能力──二つの悪魔の実の力を宿した肉体が崩壊する世界の中で痙攣している。

 

「ゼハハハハ……そうか、世界の終わりってのはこういうもんか……」

 

 グラグラの実の力を以てしてもこの災厄を止めることはできない。むしろ彼の能力が暴走し、さらなる地殻変動を誘発している可能性すらあった。二つの心臓が同時に停止したのは笑い声が途切れる前のことである。

 

 麦わらのルフィは──

 

 その所在を最期まで誰も知らなかった。

 

 どこかの島にいたのか、船の上にいたのか、それとも偶然にも爆心地の近くにいて、最初の一瞬で消滅したのか。海賊王を目指した少年の冒険がどのような結末を迎えたのかは永遠に語られることがない。

 

 語り部が一人も残らなかったからである。

 

 ◇

 

 発生から六十秒後、この星は死の星となった。

 

 大気の九十パーセント以上が宇宙空間へと散逸し、残った気体も生命活動を維持できる組成ではなくなっている。海は完全に干上がり、地表には溶岩の川が網目のように走っていた。

 

 かつて偉大なる航路と呼ばれた海域には巨大な裂け目が口を開けている。

 

 黄猿の光速の蹴りが穿った空洞はその後の連鎖反応によって拡大を続け、ついにはマントル層にまで到達した。地殻そのものが内側から崩壊を始め、星としての構造を維持できなくなりつつある。

 

 重力の均衡が崩れ始めていた。

 

 自転速度が変化し、公転軌道にも微細な狂いが生じている。数百年後──そこに観測者がいたとすれば──この星は徐々に太陽から遠ざかり、最終的には凍てつく宇宙の闇へと放逐されることになる。

 

 だがそれは「もし」の話だ。

 

 観測者など、もはや存在しない。

 

 魚人島はとうの昔に崩壊していた。一万メートルの深海に存在した竜宮城は海水が消滅したことで支えを失い、自重で押し潰されている。古代兵器ポセイドンを宿した人魚姫しらほしはその力を発動する間もなく、崩落する瓦礫の下に埋もれた。

 

 古代兵器──世界を滅ぼす力を持つとされた三つの兵器は結局のところ使われることがなかった。

 

 それらを遥かに超える破壊力がたった一人の海軍大将の「うっかり」から生まれたのである。

 

 プルトン、ポセイドン、ウラヌス。

 

 伝説の名前だけが溶岩に沈んでいく。

 

 歴史上のあらゆる文明が積み上げてきた叡智もDの一族が継承してきた意志も世界政府が八百年間隠し続けてきた真実も──すべてが塵と消えた。ワンピースが何であったのか、空白の百年に何があったのか、その答えを知る者はもはや宇宙のどこにも存在しない。

 

 黄猿ボルサリーノという男もまた、消滅していた。

 

 光の能力者であった彼は自らが放った光速の蹴りのエネルギー反動に耐えられるはずもなかった。能力を発動した瞬間──あるいはその十億分の一秒後に彼の肉体を構成していた全ての原子が四散している。

 

 皮肉なことに世界を滅ぼした張本人はその破壊を目撃することすらできなかったのだ。

 

 おそらく、彼には何の悪意もなかった。

 

「ちょっと手加減を忘れた」──もし言葉を残せていたなら、そう言ったかもしれない。あの間延びした口調でいつものように飄々と。だが科学法則は悪意の有無を斟酌しない。光速で移動する質量が何をもたらすか、それは宇宙が定めた絶対の方程式なのである。

 

 静寂が支配していた。

 

 音を伝える媒質が失われ、光を放つ熱源も次第に冷えていく。赤熱した地表が徐々に黒ずみ、やがては宇宙空間の温度と等しくなるまで冷却されていくだろう。

 

 数億年後、この星は凍りつく。

 

 溶岩の海は固まり、大気のない荒野だけが広がる死の世界となる。かつてそこに海があったこと、島があったこと、人が暮らし、夢を追い、戦い、愛し合っていたこと──それらを示す痕跡は何一つ残らない。

 

 宇宙は広大である。

 

 この星が滅んだところで銀河系には数千億の恒星があり、その周囲を無数の惑星が回っている。生命が存在する可能性のある星は統計的には数百万以上と推定される。ひとつの文明が滅びたところで宇宙の営みには何の影響も及ぼさない。

 

 ただ──

 

「海賊王におれはなる」

 

 そう叫んだ少年がいたことを宇宙は覚えていない。

 

「仲間がいるよ」と笑った少女がいたことを星々は知らない。

 

「男の夢は終わらねェ」と吼えた男がいたことを時間は記録しない。

 

 すべては光速の一瞬で終わった。

 

 ボルサリーノが靴紐を結び直してから、わずか二分後のことである。

 

 ◇

 

 残響すらない虚無の中、最後まで機能し続けたものがあった。

 

 海軍本部の地下深く──誰もその存在を知らなかった施設──に設置されていた自動記録装置である。

 

 電磁パルスにも衝撃波にも耐え得る特殊合金で覆われたその装置は世界政府が「万が一の事態」に備えて建造したものだった。古代兵器が使用された場合、あるいは予測不能な災厄が発生した場合、文明の記録を残すために。

 

 装置は最後の数秒間に起きた事象を淡々と記録していた。

 

「異常なエネルギー反応を検出。発生源はシャボンディ諸島近海。エネルギー規模は測定限界を超過。地殻変動、大気組成の急激な変化、海水温の異常上昇を同時に観測。全通信途絶。記録装置の機能停止まで推定三秒──」

 

 そこで記録は途絶えている。

 

 装置を覆っていた特殊合金も最終的にはマントルの熱に耐えられなかった。溶融し、歪み、他の物質と混じり合って、星の一部となっていく。

 

 誰も読むことのない記録、誰も解読することのない警告。

 

 もし遥か未来、宇宙のどこかの知的生命体がこの星を訪れたとしても彼らが見るのは荒涼とした岩塊だけだろう。生命の痕跡も文明の遺構も一切残っていない。

 

 ただひとつ──

 

 もし彼らがこの星の地殻を深く掘削し、もし奇跡的にあの合金の破片を発見し、もしそこに残された微細な磁気パターンを解読できたなら。

 

 彼らは首を傾げるかもしれない。

 

「光速? 質量を持つ物体が光速で移動した? そんなことは物理法則上、あり得ない」

 

 そう、あり得ないのである。

 

 だが悪魔の実という存在はこの宇宙の物理法則を超越していた。

 

 超越していたがゆえに物理法則は「復讐」したのかもしれない。法則を破る力を与えておきながら、その代償を要求する。光速移動を可能にしておきながら、その帰結から逃れることは許さない。

 

 ピカピカの実──それは最強の能力であり、同時に最も危険な爆弾でもあった。

 

 ボルサリーノはいつかこうなることが運命づけられていたのかもしれない。能力を得た瞬間から、世界の終焉は彼の内側に胚胎していた。それが今日という日に顕現したのは偶然なのか必然なのか。

 

 答える者はいない。

 

 問いを発する者もいない。

 

 すべてが終わった。

 

 新時代を告げる夜明けは来なかった。

 

 太陽はいつも通り昇り続けているがそれを浴びる者はもういない。光は虚空を照らし、熱は真空に吸収され、この星は宇宙の片隅で静かに冷えていく。

 

 麦わら帽子が宇宙空間を漂っていた。

 

 爆発の衝撃で大気圏外まで吹き飛ばされたのだろう。縫い目はほつれ、日に焼けた跡が残っている。誰かが長い間、大切にかぶっていた証だった。

 

 帽子は太陽光を受けて淡く光りながら、悠久の彼方へと漂流していく。

 

 やがて太陽系を離れ、恒星間空間へ。

 

 数百万年後には別の星系に到達するかもしれない。そこに知的生命体が存在すれば、彼らはこの奇妙な人工物を発見し、分析し、その起源について推測を巡らすだろう。

 

 だが彼らは知ることがない。

 

 この帽子がどれほど多くの夢を見たか。

 

 この帽子を託された少年がどれほど遠くまで行こうとしていたか。

 

 宇宙には語られない物語が無数に眠っている。

 

 そのひとつが今、星の残骸とともに永遠の闇へと消えていった。


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