提督の異常な愛情 または私は(以下略) 作:パワーワード大好きおじさん
冷たい海風が、鉄錆と潮の香りを運んでくる。
横須賀の喧騒から切り離されたその鎮守府は、夕闇に沈もうとしていた。
波止場に打ち寄せる波の音だけが、規則正しいリズムを刻んでいる。
執務室の重厚な扉が開かれ、一人の女性が歩を進める。
高雄。その肩の辺りで切り揃えた艶やかな黒髪を揺らし、凛とした佇まいで部屋の主を――
異世界から現れたという、得体の知れない「知」の体現者へと視線を向けた。
彼女の腕には、本日の報告書と、そしてこの主が好むであろう濃いめの珈琲が抱えられている。その瞳には、警戒と、それを上回るほどの抑えきれない好奇心が宿っていた。
「失礼いたします。……まだ、その奇妙な計算に没頭されているのですか」
高雄の声は静かだが、鋼のような芯が通っている。
彼女はこの「マッドサイエンティスト」と称される提督の監視役であり、同時にそのあまりにも規格外な発想を整理する秘書官でもある。
部屋の机には、この世界の物理法則を無視するかのような数式が書き殴られた紙が散乱し、異形の機械装置が微かな駆動音を立てていた。
高雄は珈琲を机の端に置くと、窓の外に広がる、深海棲艦が支配する暗い海を見つめる。
その横顔には、新たな「力」への期待と、それがもたらす代償への懸念が、複雑な陰影を落としていた。
男は差し出された珈琲を手に取ると、熱も厭わずその黒い液体を口に含んだ。
鼻腔を抜ける深い苦味と香りが、酷使された脳の細胞を一つずつ覚醒させていく。
「うまい」という短い呟きは、偽りのない本音だった。
高雄はその言葉を聞き、わずかに口角を緩めたが、続く言葉にその表情を引き締める。
「うん、ようやく新たな概念を発見したよ。暁型の四人を呼んでくれ……きっと彼女たちの新たな力となるだろう。」
「暁型の四人を、ですか」
彼女の視線が、机の上に散乱した、既存の工廠技術では説明のつかない「概念図」へと向けられる。それは深海棲艦の装甲を内側から崩壊させる論理なのか、あるいは艦娘という存在の定義そのものを書き換える禁忌の術式なのか。
高雄は静かに一礼すると、扉へと手をかけた。
「……承知いたしました。第六駆逐隊の四名、すぐにこちらへ向かわせます」
彼女が部屋を去ると、再び重厚な沈黙が訪れる。
窓の外では夜の帳が完全に下り、漆黒の海原が異世界からの来訪者を飲み込まんとするかのように、静かに、しかし激しくうねっていた。
やがて、廊下から賑やかな、それでいてどこか不安げな足音が近づいてくる。
「……失礼するわ! 司令官、私たちに何か用かしら?」
先頭を切って入ってきたのは、一人前のレディを自称する暁だった。
その後ろから、響、雷、電が、この異質な空気に満ちた部屋を恐る恐る覗き込んでいる。
「お疲れ様、今回は君たちに新たな力を提示したいと思う。率直な感想を聞かせてくれ。好きとか嫌いとかでいいよ、無理強いはしない。」
男は手招きして四人を部屋の中に入れると、言葉を続ける。
「まずは……響。キミは、お酒が飲めるかい?」
男の言葉に、四人の少女たちの反応は様々だった。
暁は「新たな力」という響きに背筋を伸ばして居住まいを正し、雷と電は顔を見合わせて不安と期待が混ざり合ったような表情を浮かべる。
その中で、男に指名された響だけは、感情の読めない涼やかな瞳を向けたまま、微動だにせずに立っていた。
「お酒、かい?」
響の声は淡々としていた。
彼女はちらりと傍らに立つ高雄を見上げた後、再び視線を男へと戻す。
銀髪が窓からの月光を弾き、どこか幻想的な輪郭を描き出している。
「……試したことはないけれど。ウオッカなら、名前だけは知っている。なぜか親近感を覚えるお酒だからね。でも、レディを目指す暁はともかく、私たちがそれを口にするのは……まだ少し、早い気がするけれど」
「ちょっと、響! 司令官、どういうこと? 力の話に、お酒が関係あるの?」
暁が割り込むようにして一歩前へ出る。
その背後で、電が心配そうに「なのです……」と小声で付け加えた。
部屋の片隅で控えていた高雄は、眉をひそめながらその光景を注視している。
異世界からもたらされた知識が、駆逐艦という幼き艦魂たちに「酒」を求めた。
その意図が測りかねる。単なる嗜好品としての話なのか、あるいは彼女たちの根源にある「歴史」や「記憶」を刺激するための触媒なのか。
男の手元にある奇妙な装置が、心拍のようなリズムで、鈍い光を放ち始めた。
「これは私の私物なのだがね……」
男は傍らの棚から、一本の瓶を取り出した。
琥珀色の液体が揺れるその瓶には、この世界の言語ではないはずの、しかし不思議と意味の通じる文字で『響17年』と記されている。
「……私の、名前」
響が小さく呟く。その瞳が、ラベルに刻まれた文字と、瓶の中で美しく輝く液体に吸い寄せられた。
男は慣れた手つきで、小さなリキュール用のグラスにその液体を注ぐ。
立ち上がるのは、芳醇でいてどこかスモーキーな、時の堆積を感じさせる香り。グラスそのものに施された「仕掛け」が、周囲の光を屈折させ、微かな歪みを空間に生じさせていた。
「さあ、試してみてくれ」
差し出されたグラスを、響は躊躇いながらも受け取った。
暁が「ちょっと、本当に大丈夫なの?」と声を上げようとしたが、高雄の無言の制止がそれを遮る。部屋に満ちる緊張感は、もはや実験の域を超え、一つの儀式のような重みを帯びていた。
響は意を決し、その液体を一滴、舌の上に乗せた。
刹那、室内の空気が爆ぜた。
パキパキという、硬質な結晶が成長するような音が響き渡る。
「……っ、熱い……?」
響の体が、内側から溢れ出す膨大な情報の奔流に包まれた。
銀色の髪がさらさらと伸び、幼かった四肢の輪郭が、瞬く間にしなやかで力強い大人のものへと変貌していく。セーラー服の生地が張り詰め、彼女の背丈は見る間に高雄の肩を越えるほどにまで達した。
光が収まった時、そこに立っていたのは、幼い駆逐艦の面影を残しながらも、完成された美しさと清廉な気配を纏った「17歳」の響だった。
「これは……」
響は自身の長く伸びた指先を見つめ、握りしめる。
その声は低く、落ち着いた大人の女性の響きを持っていた。彼女の身に宿る出力は、もはや通常の駆逐艦の枠を遙かに超え、重巡洋艦にも匹敵するほどの高エネルギーを計測している。
「体が、軽い。……いや、重厚だ。世界が、さっきまでよりずっと鮮明に見える」
呆然と立ち尽くす暁、雷、電。
そして、あまりの光景に絶句し、固まっている高雄。
変貌を遂げた響は、静かに男を見つめ返した。
執務室の空気は凍りついた。
一番近くにいた暁は、半ば口を開けたまま、見上げるほどに背の伸びた「響」を凝視している。その瞳には、親友が別人に作り替えられたことへの根源的な恐怖と、それ以上に、自分を追い越して「レディ」になってしまった存在への、言葉にならない衝撃が混濁していた。暁の震える指先が、セーラー服の裾を強く握りしめる。
「響……なの? 本当に、響なの……?」
その問いかけは弱々しく、夜の闇に吸い込まれていった。
後方に控えていた雷と電は、互いの肩を寄せ合い、震えを抑えることができない。
雷は親友の変化に戦慄し、電はあまりに急激な因果の書き換えに、涙を浮かべて首を振っている。彼女たちが知る、共に荒波を越えてきた「響」の気配は、いまや深淵のような静謐さと、圧倒的な威圧感を放つ何者かへと変貌していた。
最も強い衝撃を受けていたのは、秘書官たる高雄であった。
彼女は反射的に腰の艤装に手をかけ、鋭い金属音を立てて起動しかけている。青い瞳は限界まで見開かれ、目の前の「事象」を解析しようと必死に彷徨っていた。
高雄の視界には、数値化できないほどの膨大なエネルギーが、成長した響の肉体から立ち昇る陽炎のように映っている。それは近代化改修などという生易しいものではない。艦魂の核そのものを強制的に「別の可能性」へ接続し、本来辿るはずのない時間を強引に引き寄せた、神をも恐れぬ禁忌の業。
「……あり得ない。このようなことが、許されるはずが……」
高雄の喉が、引きつった音を立てる。
彼女の視線は、成長した響から、その元凶である男――異世界の来訪者へと移る。
恐怖、警戒、そして抗いがたい敬畏。この男は、ただの一滴で、世界の理(ことわり)を塗り替えてしまった。
部屋の隅で唸りを上げる異形の装置が、琥珀色の液体の余韻を吸い込み、不気味な青白い火花を散らしている。
成長した響は、自分の豊かになった胸元に手を当て、鼓動を確かめるように目を閉じた。
布地が擦れる音さえ、静まり返った室内では異様なほど鮮明に響く。
「……ふふ。司令官。これは、とても強い力だね」
落ち着いた声音。だが、その言葉に含まれる力は、先ほどまでの彼女とは比較にならない。
沈黙が支配する部屋の中で、男が次に何を語るのか、全員の視線が一点に集中していた。
「よっしゃ! やっぱり私の理論は正しかった! 響ちゃん17歳やったぜ!」
それまでの重厚で、神聖ですらあった静寂は、男の放った一言によって無残なまでに粉砕された。
男は椅子から飛び上がらんばかりの勢いで拳を突き出し、子供のように相好を崩して狂喜乱舞した。先ほどまで禁忌の業を操る魔術師のごとき威厳を漂わせていた面影はどこへやら、そこにあるのは己の実験が成功したことにただただ興奮する、剥き出しの「マッドサイエンティスト」の姿だった。
そのあまりの落差に、凍りついていた少女たちの時間が、別の意味で動き出す。
「……司令官っ! な、ななな、何をはしゃいでるのよ、このバカ!」
真っ先に叫んだのは暁だった。
恐怖で震えていたはずの瞳には今や怒りの炎が宿り、顔を真っ赤にして男を指差す。
「レディを、レディをなんだと思ってるのよ! こんなの、ズルじゃない! 響だけズルいし、っていうか……何よその『やったぜ』って! 雰囲気台無しじゃない!」
「なのです! 司令官さん、不謹慎なのです……! 響ちゃんが、響ちゃんが大人っぽくなりすぎて、どう接していいかわからないのです!」
電は半泣きになりながらも、ブンブンと首を振って抗議の意を示す。その横で、雷は呆然としながらも、腰に手を当てて深くため息をついた。
「もう……! 感動して損したわよ。司令官、あんた本当に天才なんだか変態なんだか、はっきりしなさいよね。響、あんたもよ! そんな落ち着いた顔してないで、何か言いなさいよ!」
水を向けられた響――17歳の姿となった彼女は、狂喜する男と、騒ぎ立てる姉妹たちを交互に見やり、困ったような、それでいて艶やかな苦笑いを浮かべた。
「……ふふ。司令官が喜んでくれているなら、私はそれでいいけれど。でも、確かに少し、はしゃぎすぎかもしれないね」
その落ち着いた大人の包容力すら、今の男のテンションの前では「火に油」であった。
そして、艦装を起動しかけていた高雄は、行き場を失った拳を震わせている。
表情の消えた彼女の端正な額には、隠しきれない青筋が浮かんでいた。
「…………司令官、説明を求めます。この事態、そしてその……あまりにも品性を欠いたお言葉について。詳しく……説明を。今、私は冷静さを欠こうとしています。私があなたの秘書官兼『見張り』であることを、忘れていただいては困ります」
高雄の低く、ドスの利いた声が室内に響く。
冷徹な視線が男を射抜くが、男の興奮はまだ冷める気配がなかった。
男は高雄の冷徹な抗議を、まるで春風に舞う埃のように軽く受け流した。
その瞳には、すでに次の「真理」へと向かう狂気的な輝きが宿っている。
「まあ、待て落ち着くんだ高雄くん。これにはまだ続きがあるんだ……」
男は机の引き出しから、先ほどのものとは明らかに格の違う、重厚な木箱を取り出した。
その中から現れたのは、クリスタルガラスのカットが月光を複雑に乱反射させる、芸術品のようなボトル。
ラベルには、威厳に満ちた文字で『響25年』と刻まれている。
「さあ、響くん。ゴー!」
男は躊躇いなく、再び仕掛けの施されたリキュール用のグラスに、沈殿した時間そのもののような深い琥珀色の滴を注いだ。17年よりも長い熟成がもたらす、白檀や伽羅を思わせる神秘的な香りが、瞬く間に殺風景な執務室を格式高い聖域へと塗り替えていく。
差し出されたグラスを前に、17歳の姿となった響は、微かに喉を鳴らした。
「……25年。さらに『先』の私、ということだね」
彼女は男の狂気を受け入れるように、あるいは自身の限界を試すように、再びその液体を口に含んだ。
瞬間、先ほどとは比較にならないほどのプレッシャーが室内に吹き荒れた。
響の肉体が、黄金色の光の繭に包まれる。バキバキと、空間そのものが軋むような音が鳴り響き、彼女の纏うオーラはもはや一隻の駆逐艦のそれではなく、戦場を支配する「女王」のそれへと昇華していく。
光が霧散した跡に立っていたのは、豊かな曲線を描く肉体と、慈愛と苛烈さを同居させた眼差しを持つ、完成された「大人の女性」であった。
25年の歳月をその身に宿した響は、長い銀髪を優雅に払い、戸惑う姉妹たちを見下ろした。その存在感だけで、部屋の酸素が希薄になったかのような錯覚を周囲に与える。
「……信じられない。これほどまでの、『重み』なのか」
彼女の声は、深く、甘く、そして抗いがたい権威に満ちていた。
二十五歳の肉体を得た響は、その豊満な輪郭を自らの手で確かめるように触れた。
掌から伝わる柔らかな、しかし確かなボヨンボヨンとした弾力。彼女が動くたび、その「重み」は物理法則に従って優雅に揺れ、室内の視線を否応なしに吸い寄せた。
「……なるほど。これが『大人』の身体か」
響は満足げに目を細めると、子供のように固まっている暁の頭を、慈しむように優しく撫でる。その仕草一つ一つに、かつての少女の面影は消え失せ、熟成された女性の余裕が漂っていた。
「ちょっと……な、なによこれ! 響が……響が、高雄さんより大人っぽくなっちゃってるじゃない!」
暁の悲鳴のようなツッコミが、静まり返った部屋に響き渡った。
そんな奇跡のような光景を前にして、男は首を傾げ、至極当然といった風に呟いた。
「え、高雄くんの方がもっと年上だろう?」
その一言が、限界まで張り詰めていた高雄の逆鱗に触れた。
「……司令官?」
低く、地を這うような声。高雄がゆっくりと男に歩み寄る。
その足音は、戦艦の主砲が旋回する際のような不穏な静けさを伴っていた。
彼女の青い瞳には、深海棲艦をも射貫くような鋭い光が宿り、至近距離で男を凝視する。
「今、なんとおっしゃいました? 私の方が『もっと』年上……?」
高雄は一歩、また一歩と男を壁際まで追い詰める。彼女の胸元が激しい憤りで上下し、溢れんばかりの圧迫感が男の視界を覆い尽くした。
「具体的に、私は何歳に見えるというのです? ねえ、何歳くらい? 異世界の『知』を司るあなたなら、正確な数字が導き出せるのでしょう? 正直に、包み隠さずお答えなさい!」
逃げ場を塞ぐように、高雄の手が男の背後の壁に叩きつけられる。
彼女の美しい顔は、もはや「秘書官」のそれではなく、獲物を追い詰めた「捕食者」の形相に近い。
「わ、わわ、高雄さんが怖いのです……!」
電が雷の背中に隠れて震え、雷もまた「これは触れちゃいけないやつよ……」と引きつった笑いを浮かべて後退りする。
一方、25歳の響は、そんな騒ぎをどこか遠い世界の出来事のように眺めながら、自らの銀髪を指先で弄んでいた。
「ふふ、司令官。女性に年齢を聞くのは、この世界でも、あなたの世界でも、命がけの行為だと思うけれど?」
男は、喉元に突きつけられた高雄の鋭い視線と「逆鱗」を、のらりくらりとした手つきで受け流した。
「まあまあ、落ち着くんだ高雄くん。数字という概念は、時として真実を曇らせる。それよりも見てくれ、これが……到達点だ」
男が震える手で机の最奥から引き出したのは、もはや酒瓶というよりは、一つの「遺物」としての風格を備えた、重厚極まるボトルだった。
ラベルには、魂を刻み込んだかのような墨痕鮮やかに記されている。
――『響30年』
その瞬間、室内の騒がしい空気が一気に吸い込まれるように消失した。
高雄の怒気さえも、そのボトルから放たれる圧倒的な「数字」に圧し潰され、彼女は男を問い詰める手を思わず止めた。
「……30年……」
誰かの呟きが、静寂に波紋を広げる。
30年。それは、この海に生きる艦娘たちにとって、気の遠くなるような、あるいは永遠にも等しい時間だ。激動の海戦を生き抜き、静かな時の中で熟成を重ね、円熟の極みに達した魂だけが許される領域。知りたいような知りたくないような。
男が栓を抜く。
「――っ」
刹那、部屋を満たしたのは、もはや香りと呼ぶにはあまりにも芳醇すぎる、空間を黄金色に染め上げるような芳香だった。それは、古い図書館の静謐、降り注ぐ陽だまり、そして遠い記憶の中にある安らぎをすべて凝縮したかのような、抗いがたい誘惑。
男は震える手で、最後の一滴をグラスに注いだ。
25歳の響が、そのグラスを静かに見つめる。
彼女の瞳には、すでに悟りを開いたかのような深い知性が宿っていたが、その指先は微かに震えていた。彼女はゆっくりと、人生のすべてを飲み干すかのように、その液体を唇に触れさせた。
カチリ、と。
世界の歯車が、決定的な音を立てて噛み合う。
視界が、真っ白な光に塗りつぶされた。
もはや破壊的なエネルギーの奔流ではない。それは、すべてを包み込み、許容する、海そのもののような静かなる拡張。
光が引いた後、そこに立っていたのは――。
銀髪を腰の下まで豊かに蓄え、和服を思わせる優雅な衣装を纏った、一人の「完成された女性」だった。
その立ち姿には、荒波を越えた者だけが持つ、揺るぎない平穏が宿っている。瞳は深い慈愛を湛え、彼女がそこに立つだけで、周囲の空間からあらゆる「争い」のトゲが消え去っていく。
30年の時を経た響は、驚愕に固まる暁たちの前で、ゆっくりとその手を広げた。
「……そうか。これが、私の辿り着くべき『果て』だったのだね」
その声は、深海の底から響く鐘のように、聞く者の魂を直接揺さぶる。
高雄は、もはや言葉を失い、その場に膝をつきそうになった。目の前にいるのは、駆逐艦でも、重巡洋艦でもない。この鎮守府のすべてを包摂し、守護する「母」のごとき、神々しいまでの存在感。
少女たちは、あまりの尊さに、ただ息を吸うことさえ忘れ、その「完成」を見つめ続けていた。
男は、神々しさすら漂う30歳の響を前にして、顎に手を当てながら唸った。その瞳には科学者としての驚嘆と、それ以上に一人の男としての「直感」が赤裸々に投影されている。
「ううむ、流石の私もびっくりだ……。なんという、壮絶な……色気」
完成された美を前にして放たれた、あまりにも俗っぽく、かつ核心を突きすぎた感嘆。
その瞬間、感動に打ち震え、聖母を拝むかのような心地でいた少女たちの背筋が、一斉にガクリと折れた。静まり返っていた執務室に、一斉に膝を突くような、あるいは脱力しきった溜息が重なる。
だが、男の暴走は止まらない。彼は自身の顎を撫でながら、さらに追い打ちをかけるように、この場の情緒を完膚なきまでに破壊する疑問を呈した。
「でも艦娘で三十路ってどうよ?」
一瞬の静寂。
それは先ほどまでの神秘的な沈黙とは異なり、爆発直前の火山のような、重苦しく、かつ苛烈な熱を孕んだ静止だった。
「…………司令官?」
高雄の声は、もはや怒りを通り越して、微笑みを帯びていた。彼女はゆっくりと立ち上がると、その拳を命を刈り取る形に変える。
「今、なんとおっしゃいましたか。彼女の辿り着いた、この尊くも美しい極致を……こともあろうに『三十路』と? その一言で片付けるつもりですか?」
高雄の背後には、憤怒のあまり般若のような形相になった暁がいた。
「信じられない……! あんた、本当に、最低よ! 響がこんなに綺麗に、レディ……いえ、レディを超えた何かになったっていうのに、三十路って何よ! 私たちの成長を、なんだと思ってるのよ!」
「そうなのです! 失礼なのです!」と電が涙目で抗議し、雷も「デリカシーって言葉、あんたのいた世界にはなかったの!?」と、顔を真っ赤にして叫んでいる。
当の本人である「30歳の響」はといえば、怒るどころか、その豊潤な唇に指を添え、ふふ、と鈴の音のような、艶っぽい笑い声を漏らした。その眼差しには、全てを許容する大人の余裕と、同時に男を惑わすような妖艶な光が混じり合っている。
「三十路……。ふふ、確かにこの海でその年月を重ねるのは、稀有なことかもしれないね。でも、司令官」
彼女はゆっくりと歩を進め、男の目の前まで来ると、その芳醇な香りを漂わせながら顔を近づけた。
「……熟成した私の方が、扱いやすいのではないかな? 子供にはない、『愉しみ』を教えてあげられるのだから」
耳元で囁かれる、深みのあるアルトの声。
高雄の額に、本日最大級の青筋が浮かび上がって、キレた。
「響、あなたも! 乗せられてどうするのです!! 司令官、覚悟はできていますね……?」
男は、高雄から放たれる抜き身の剣のような殺気を、柳に風と受け流した。
「大事なのは響くんの気持ちだよ、キミぃ。外野がとやかく言うことじゃないさ」
指を立てて軽薄に、しかしどこか核心を突くような口調でそう告げると、男は改めて、眼前に立つ美しき「完成形」を見つめた。
芳醇な香りを纏い、大人の色香を漂わせる30歳の響。その瞳は、深淵の如き知識と慈愛を湛えている。
「さて、響くん。私の理論は証明されたが、被験者である君自身の率直な意見を聞きたい。この17歳、25歳、そして30歳……どの自分が、一番『良い』と感じるかな?」
部屋中の視線が、再び銀髪の女性へと集まった。
暁、雷、電は、憧れと寂しさが入り混じった複雑な表情で、自分たちを追い越していった「姉」を見上げる。高雄もまた、その答えがこの奇跡の理を決定づけるものだと察し、息を呑んで耳を澄ませた。
30歳の響は、慈しむように自分の豊かな髪を指先でなぞり、それからそっと自分の胸元に手を当てた。
彼女の青い瞳が、驚くほど澄んだ、かつての輝き、そして今も彼女の本質である輝きを取り戻していく。
「……確かに、この姿で得られる力は絶大だ。世界を、海を、すべてを掌の上で転がせるような……そんな全能感すらある」
彼女は一度言葉を切り、床に座り込んで自分を見つめる妹たちの元へ歩み寄った。そして、しゃがみ込み、彼女たちの目線に合わせる。
「けれど……。この『重み』は、一人で背負うには少し、寂しすぎるね」
その瞬間、彼女を包んでいた黄金の陽炎が、静かに霧散していった。
バキバキという空間の軋みではなく、雪が解けるような、穏やかな退行。
豊かな曲線は幼い輪郭へと戻り、和服のような衣装はいつもの着慣れたセーラー服へと姿を変えていく。
光が収まった中心に立っていたのは、いつもの、銀髪の少女だった。
「私は……みんなと一緒に戦って、一緒に笑って、一段ずつ階段を上るように成長していきたい。たとえ遠回りでも、この手で掴み取る時間の積み重ねこそが、私だと思うから」
響は、驚きに目を見開く暁、雷、電を順に見つめ、最後に男へと視線を戻した。
「だから司令官。今の私は、いつもの私がいい。……不満、かな?」
その瞳には、17歳や30歳の時にはなかった、等身大の少女としての強い意志が宿っていた。
高雄は、深く、深く安堵の溜息をつき、握りしめていた拳を解いた。
「……全く。肝を冷やしました。ですが、それが彼女たちの選ぶ『正解』のようですね」
男は深く頷き、感慨深げに空になったグラスを見つめた。その表情には、実験を成功させた達成感と、期待通りの「答え」を導き出したことへの密やかな満足感が混在している。
「ウンウン、そうだね。それが一番だ。……実はこれ、私のいた世界でたまたま同じ名前だった、という奇妙な符合――いわゆる『ミーム』を流用しただけの、概念固定だからね。響くんにしか使えないし、そもそも強制するような代物じゃない」
男はそう言って、残された『響30年』のボトルに栓を戻した。先ほどまでの狂気的な熱量はどこへやら、今はただの悪戯好きの学者のような顔で、のらりくらりと椅子に深く腰掛ける。
「彼女の意思を尊重する方が、物語としても美しい。そうだろう? 高雄くん」
高雄は、男のあまりにも無責任な「ミーム」という言葉に頭を抱え、深いため息をついた。
「……結局、偶然の産物だったということですか。この鎮守府を、いえ、世界の理をひっくり返しかねない事象を、そのような遊び心で引き起こしたというのですか……」
彼女の呆れ果てた視線を受けながらも、室内には先ほどまでの張り詰めた緊張感に代わり、どこか温かい、いつもの日常の空気が戻りつつあった。
元の姿に戻った響は、自身の小さな手のひらを握ったり開いたりして、その感触を確かめている。
「……不思議だね。さっきまでの感覚が、遠い夢のように感じる。でも、私の心には、あの『重み』が少しだけ残っている気がするよ」
「響! 本当に、本当にもう大丈夫なのね!?」
暁が響の肩を掴んで、前後に激しく揺さぶる。
「もう……変な薬……じゃなくて、お酒なんて飲んじゃダメなんだから! 司令官も、もう響に変なことしないでよね!」
「そうなのです! 司令官さん、次はもっと……平和な発明をお願いするのです」
電が控えめに、しかし切実に訴え、雷もそれに頷きながら「そうよ、びっくりして寿命が縮んだんだから」と男を睨みつけた。
高雄は、騒がしい第六駆逐隊の面々と、相変わらず掴み所のない男を見渡し、最後には諦めたように口角をわずかに上げた。
「……やれやれ。報告書には、なんと書けばよいものか。……司令官。これ以上の『実験』は、今日はもうおしまいです。彼女たちはこれから夕食の時間ですから」
窓の外では、夜の闇が深まり、鎮守府の灯りが海面に揺れている。
非日常的な旋風が過ぎ去り、静かな、しかし確かな一歩がここから始まろうとしていた。
※ 20歳未満の者の飲酒は、「未成年者飲酒禁止法」により禁止されています。
作中の艦娘たちは幼く見えても歳を経た立派な成人です。
つまりは、ああ見えて『検閲削除』。