提督の異常な愛情 または私は(以下略) 作:パワーワード大好きおじさん
鎮守府の食堂は、朝の喧騒を少し過ぎた、穏やかで活気のある空気に包まれていた。
男はお礼だと言って、実験に付き合わせた暁型の四人に、自らのポケットマネーを惜しみなく投入していた。運ばれてきたのは、普段のメニューにはない、地元の有名店から取り寄せた特製パフェや、色とりどりの果実が躍る豪華なフルーツタルトだ。
「わあ……! 司令官、これ全部食べていいの!? 本当に!?」
暁が、宝石箱のようなパフェを前に、レディの仮面をかなぐり捨てて目を輝かせる。
「いいのよ暁、これは私たちの労力への対価なんだから! いただきまーす!」
雷は豪快にスプーンを突き立て、電は「なのです、なのです……幸せなのです……」と、一口ごとに頬を緩ませ、とろけるような笑みを浮かべていた。
響は、美しく盛り付けられた銀の皿を前に、どこか優雅に、しかし確実な速度でフォークを進める。
「……悪くない。昨日の『重み』も、今日の『空』も、この甘さで上書きできそうだ」
そんな少女たちの狂騒を、少し離れた席から「全く、甘いものに釣られて……」と冷ややかな目で見守っていたはずの高雄だったが。
「……高雄くん、キミの分もちゃんとあるよ。特製のモンブラン、和栗仕立てだ」
男がそっと差し出した皿には、芸術的な曲線を描くマロンペーストが鎮座していた。
高雄は一瞬、眉をひそめて男を鋭く睨んだが、その視線は抗いがたい芳醇な香りに吸い寄せられ、わずかに泳ぐ。
「……誤解しないでください。私は、監督官として、提供された食材に不純物が含まれていないか検分する必要があるだけです。決して、甘いものに興味があるわけでは……」
そう言い訳をしながらも、彼女の動きは淀みなかった。
スプーンが滑らかに栗の山を割り、口へと運ばれる。瞬間、高雄の眉間の皺がふっと解け、その赤い瞳に微かな熱が灯った。
「……悪く、ありませんね。いえ、事務的に評価して、及第点以上です」
当然のように、そして極めて自然な動作で、二口目、三口目へとスプーンが伸びる。
男がニヤリと笑うと、高雄はハッとしたように表情を引き締める仕草をしてみせた。
「司令官。……これでお茶を濁したつもりでしょうが、昨日と今日の報告書、特例事項が多すぎて、まだ書き終わっていないのですからね。食べ終えたら、覚悟しておいてください」
口元にわずかなクリームを付けたまま、凛とした声で釘を刺す高雄。
その周囲では、暁たちがデザートの覇権を巡って賑やかに騒いでいる。
窓の外には穏やかな海が広がり、男の頭の中の「可能性」も今は静かに眠っている。
男は温かい珈琲を啜りながら、この騒がしくも愛おしい今を、しばし楽しむことにした。
午後の執務室は、午前中の騒動が嘘のように静まり返っていた。
窓から差し込む西日が、山積みの書類と、隅に置かれた「異世界の計測器」を穏やかに照らしている。
カチカチと時計の針が刻む音だけが響く中、男はペンを動かす手を休める。
隣で淡々と書類を捌いている高雄に、何気なく問いかけた。
「今回の暁型たちの実験は、あまりお気に召さなかったようだが……。たとえば、高雄くんならどんな力の形が望ましいんだい?」
高雄を動かすペンが、一瞬だけ止まった。
彼女は顔を上げず、視線を書類に落としたまま、静かに口を開く。
「……私の望む力、ですか。そうですね。空を飛ぶことも、三十路の……いえ、円熟した姿を得ることも、確かに一つの可能性なのでしょう。ですが……」
高雄はゆっくりとペンを置き、組んだ指の上に顎を乗せた。
その瞳には、かつての激しい怒りではなく、深い思慮が宿っている。
「私は重巡洋艦、高雄型の長女です。私の力は、常に妹たちのために、そして共に行く仲間の盾となるためにあるべきだと思っています。ですから――」
彼女はそこで言葉を切り、少しだけ恥ずかしそうに、しかし誇らしげに目を細めた。
「もし、あなたの仰る『再定義』とやらがあるとするなら。それは他を圧倒する武力ではなく、どんな嵐の中でも、どんな過酷な戦場でも、誰一人欠けさせることなく母港へ連れ帰るための……『揺るぎない守護』。そんな形であってほしいと願いますね」
男が「それはまた、随分と真面目な答えだ」と笑うと、高雄はフイと顔を背けた。
「ふん。私を誰だと思っているのです。それに、あなたがまた何か突飛なことを言い出すのではないかと、内心では気が気ではないのですよ。私の『愛』や『献身』を、妙なモノに変えたりしないでくださいね……?」
そう言いながらも、彼女の口元には微かな笑みが浮かんでいた。
男は「愛、ね……」と呟きながら、手元のメモ帳の空白に、何やら新しい数式のような、あるいは魔法陣のような図形を書き込み始めた。
「……司令官。今、何か不穏なことを考えませんでしたか?」
「いやいや、ただの独り言だよ、高雄くん」
夕闇が迫る執務室。
高雄の優秀な見張りの目は、男が隠した新たな『ミーム』の予兆を、今度は見逃さなかったようだ。
「姉としての責務と思いやり、か。自らの欲望ではなく、他者を守るための力を願う……。いや、本当に素晴らしいことだね、高雄くん。君のその高潔な精神には、敬意を表さざるを得ないよ」
男は皮肉や茶化すような色を一切排し、真摯な眼差しで高雄を見つめて言った。
その声は低く、純粋な感銘に震えているようにさえ聞こえる。
「……っ」
正面から、それもこれ以上なくストレートに褒め称えられ、高雄は一瞬言葉を失った。
普段、不遜な態度で人を煙に巻く男が見せた、あまりにも混じりけのない賞賛。
彼女の白い頬は、西日のせいだけではなく、見る間に朱に染まっていく。
「な、何を……唐突に。私は、当たり前のことを言ったまでです。重巡洋艦として、姉として、当然の自覚を口にしたに過ぎません」
高雄は慌てて視線を泳がせ、手近な書類を束ねてトントンと机に叩きつけた。
動揺を隠そうとするその指先が、微かに震えている。
「そんなに真っ直ぐ見ないでください。……大体、あなたはいつもそうなのです。そうやって人を油断させておいて、次の瞬間にはとんでもない異端の理を持ち出してくる……」
彼女は照れ隠しに厳しい口調を作ろうとするが、瞳の奥には拭いきれない猜疑心が、まるで嵐の前の静けさのように揺らめいていた。
「……今の言葉、本気なのですか? その『素晴らしい精神』を燃料にして、私の背中に超巨大な盾や、あるいは見上げるような大聖堂でも生やすつもりではありいませんか? あなたの『素晴らしい』は、往々にして物理的な異変を伴うのですから」
じろりと、上目遣いに男を睨みつける高雄。
信じたい。純粋に褒められたことを喜びたい自分もいる。しかし、この男の「善意」が、時として既存の存在を木っ端微塵にする「福音」であることを、彼女は学習しすぎていた。
「どうなのです、司令官。……その不敵な笑みの裏に、一体何を隠しているのです?」
高雄は身を乗り出し、男の表情のわずかな動きも逃さぬよう凝視する。
称賛の温かさと、マッドサイエンティストへの警戒心。
二つの感情が入り混じった彼女の複雑な吐息が、夕暮れの執務室に白く溶けていった。
「さすが高雄くん。……実は、似たようなことを考えていたんだよ」
男が満足げに指を鳴らした瞬間、高雄の表情から「照れ」が霧散し、代わりに過剰なまでの「警戒」が、鋼のカーテンのように彼女の顔を覆った。
(ほら、来た……!)
高雄は無意識に、机の中に置いていた拳銃のグリップを掴みかける。この男が「似たようなこと」と言うとき、それは十中八九、人道と物理法則の双方に対する挑戦状なのだ。
「確か、高雄くんの姉妹だと……アタオ? ……ヤマ? ……トリ? の三人だったね」
「………………」
沈黙。
夕暮れの執務室に、冷え冷えとした静寂が横たわる。
「……司令官。今、なんと?」
高雄の瞳から光が消えた。
愛する妹たち――愛宕、摩耶、鳥海。その名を、こともあろうに自分の目の前で、鼻歌でも歌うような軽薄さで、これ以上なく適当に間違えられたのだ。
アタオ。ヤマ。トリ。もはや名前ですらない、奇妙な音の羅列。
「……『アタオ』ではありません、『愛宕(あたご)』です。……『ヤマ』は論外です、『摩耶(まや)』です! ……『トリ』に至っては、もう彼女の知性に対する冒涜としか思えません! 『鳥海(ちょうかい)』ですよ!!」
ガタッ! と椅子を蹴るような勢いで高雄が立ち上がる。
彼女の背後に、昨日とは比較にならないほどのプレッシャーが渦を巻く。それは姉としての怒り、そして、あんなに「素晴らしい精神だ」と褒め称えられた直後に、肝心の対象の名前すら覚えていなかった男への、根源的な失望であった。
「ろくに名前も覚えていないなんて……! それでよくも、先ほどあんなに立派なことを言えたものですね! 最悪です! あなたは本当に、人の皮を被った……いえ、マッドサイエンティスト以下の『何か』です!」
高雄の拳が机の上で震えている。彼女の「守護の意志」が、今は目の前の男を「排除すべき有害事象」としてロックオンしていた。
しかし、男はそんな彼女の激昂さえも「実験データ」の一部であるかのように、どこ吹く風でメモ帳にペンを走らせる。
「いやあ、すまないすまない。名前なんてのは、記号に過ぎないからね。大切なのは、君たちの間に流れる『ミーム』そのものなんだ。さて、その三人も含めた『守護の形』だが……」
「……話を聞きなさい!!」
男は、高雄の剣幕に押されるようにして両手を上げると、椅子から立ち上がり、これまでにないほど深く、丁寧に頭を下げた。
「……すまない、高雄くん。今の失礼は、弁解の余地もない。愛宕、摩耶、鳥海……素晴らしい名前だ。君という姉を持つ彼女たちを、記号で呼ぶような真似をして本当に済まなかった。この通りだ」
静まり返る室内。
高雄は、握りしめた拳を震わせながら、深々と頭を下げる男の頭頂部を凝視していた。
彼女にとって、妹たちは自分自身の命よりも大切な存在だ。それを軽んじられた怒りはすぐには消えない。しかし、この男がここまで率直に、そして表面上だったとしても、誠実に非を認めるのは珍しいことだった。
「…………頭を上げてください、司令官」
高雄は、肺の奥に溜まった熱い息をゆっくりと吐き出した。
拳銃から手を離し、乱れた髪を指先で整える。その瞳の奥にはまだ鋭い光が残っているが、怒りの矛先は、ひとまず鞘へと収められたようだ。
「……謝罪は受け入れましょう。名前は、その存在を定義する最も重要な依代です。二度と、あのような間違え方をしないでくださいね」
彼女は再び椅子に腰を下ろし、背筋をピンと伸ばした。
しかし、その体はまだ、微塵も弛緩していない。むしろ、ここからが「本題」であると理解している彼女の全身は、まるで嵐の前の防波堤のように固く身構えられていた。
「それで……その、愛宕、摩耶、鳥海を巻き込んで、一体何を企んでいるのですか? 私の『守護の意志』とやらをどう解釈すれば、彼女たちを巻き込む話になるのか……伺いましょう」
高雄は机の下で、膝の上に乗せた手をきゅっと握り込んだ。
彼女の直感は、アラートを鳴らし続けている。
暁型の時のような「姿の変貌」か、あるいは雷電のような「異質な融合」か。男の口から発せられる次の言葉が、自分たち四姉妹の運命を、取り返しのつかない方向へ捻じ曲げてしまうのではないか――。
夕闇が室内の影を濃くし、男の眼鏡が逆光で白く光る。
男はゆっくりと椅子に座り、影の深くなった執務室で、高雄の瞳を真正面から覗き込んだ。その眼鏡の奥で、知性的でありながらどこか空虚な瞳が、獲物を捕らえた蛇のように怪しく光る。
「……安心していい。愛宕、摩耶、鳥海……彼女たち三人の妹には、一切のデメリットはない。それどころか、彼女たちは更なる力を得る。その身を苛む燃料消費を劇的に軽減され、戦場を自在に駆けることができるようになるだろう」
男はそこまで言うと、机に身を乗り出し、高雄の耳元へ顔を寄せた。
その声は、甘く、そして抗いがたい重みを持った「悪魔の誘惑」そのものだった。
「ただし――その分を、姉である『キミ』が、すべて背負うことになる」
「……っ!」
高雄は思わず息を呑み、心臓が跳ね上がるのを感じた。
執務室の空気が、一気に数度下がったかのような錯覚。男の囁きは、彼女の「姉としての矜持」という、最も脆く、かつ最も強固な部分を的確に貫いていた。
「妹たちの消費を君が肩代わりする。君が燃えれば、妹たちは輝く。君が膝をつけば、妹たちは立ち上がれる。……どうだい? 姉としての『守護』の具現化としては、これ以上なく論理的で、美しい形だと思わないか?」
男の指先が、空中に見えない天秤を描く。
片方には妹たちの安寧と強化。そしてもう片方には、高雄一人が背負うことになる、膨大で過酷な「負債」。
高雄の瞳が激しく揺れた。
それはまさに、彼女が先ほど口にした「盾となる」「妹たちのために」という言葉を、究極の形で突きつけられた瞬間だった。
「……私の、リソースを……彼女たちのために……」
高雄の唇が微かに震える。
彼女は優秀な重巡洋艦だ。その代償が何を意味するか、即座に計算が働く。それは単なる燃料の肩代わりではない。妹たちが傷つけばその痛みすら共有し、彼女たちが力を振るえば振るうほど、高雄自身の存在が摩耗していくという、呪いにも似た「共鳴」のシステム。
男は高雄の反応を楽しむように、わずかに口角を上げた。
「嫌だと言ってもいいんだよ、高雄くん。これはあくまで一つの『可能性』だ。自分一人が泥を被り、擦り切れていく……そんな未来を拒絶するのは、生命として当然の権利だからね」
だが、男は確信していた。
目の前の、高潔すぎるほどに真面目なこの女性が、どのような答えを出すのかを。
高雄は、握りしめた拳をさらに強く、白くなるまで固めた。彼女の視線が男の瞳を射抜き、その奥に潜む悪魔を睨み据える。
「…………それは。…………妹たちが、誰も苦しまずに済む……というのですね?」
低く、絞り出すような声。
高雄の覚悟が、夕闇の中で静かに、しかし決然と燃え上がろうとしていた。
男は、まるで天国への階段を指し示すかのような手つきで、その凄惨な「等価交換」の内訳を語り始めた。
「そう、キミが背負う責務は……極めて具体的だ。妹一人あたりの燃費を10パーセント軽減するごとに、代償としてキミのウエストサイズが1cm、体重が1キロ増量される」
高雄の肩が、ピクリと震えた。
「キミたち艦娘の数値上の重量は知らないが、これは『見かけ』に直接反映される概念だ。もし三人とも燃費を限界まで――つまり100パーセントカットしようと思えば、高雄くん。キミのウエストと体重は……プラス30だね」
静まり返った執務室に、男の冷徹な算定だけが響く。
「ふくよかで、包容力に溢れた高雄くんも、実に素敵だと思うよ? ……ああ、言い忘れていたが、これは『書き換え』だ。もちろん、不可逆だよ! 二度と元のスレンダーな君には戻れない。文字通り、姉の威厳をその身に蓄えるわけだ。ハハハ!」
沈黙。
それは、先ほどの「名前を間違えた時」とは比較にならない、絶対的な零度の沈黙だった。
高雄は、うつむいたまま動かない。
彼女の脳裏には、凄まじい速度で計算が駆け巡っていた。自分が想像していたものとは違ったが、妹たちの燃費をゼロにする。それは彼女たちがどれほど激しい戦場でも、補給の心配なく、永遠にその全力を振るい続けられるということ。
姉として、これ以上の「守護」はない。
だが。
ウエスト、プラス30センチ。
体重、プラス30キロ。
今の凛とした重巡洋艦としてのシルエットは崩れ、文字通り「重厚」すぎる姿へと、永遠に固定される。
「………………」
やがて、高雄がゆっくりと顔を上げた。
その口元には、驚くほど穏やかで、慈愛に満ちた、聖母のような微笑みが浮かんでいた。
だが、その瞳には光が一切なかった。
「……ふふ。ふふふ……。そうですか。素晴らしい提案ですね、司令官」
彼女の背後で、目に見えるほどの黒いオーラが、物理的な圧力となって室内の空気を歪め始める。バキ、バキ、と机が悲鳴を上げ、窓ガラスがガタガタと震え出した。
「妹たちのために、私がすべてを背負う。体型の変化など、愛する彼女たちの安寧に比べれば、塵芥に等しい……そう、仰るのですね?」
高雄は立ち上がった。その微笑みは固定されたまま、こめかみには青筋が浮かび、全身から放たれる殺気は、もはや深海棲艦の旗艦すら一瞥で沈めかねない密度に達していた。
「……キレました。私、今、完全にキレました」
彼女の手が、電光石火の速さで男の胸ぐらを掴み上げた。
「不可逆? ウエスト30? 素敵だと思う? ……よくもまあ、そんなふざけた理を、高潔な姉心に上書きしようとしましたね! この、デリカシーの欠片もない……マッドサイエンティストがぁ!!」
執務室に、高雄の怒号が轟いた。それはもはや言葉ではなく、重巡洋艦の主砲が至近距離で斉射されたかのような衝撃波となって男を襲った。
「ま、ままま、待ちたまえ高雄くん! 暴力はいけない、理性的になろうじゃないか……!」
男の顔から余裕が消え、額には大粒の汗が浮かんでいた。
胸ぐらを掴み上げられ、足が浮きかけた状態で、彼は必死に理論という名の盾を突き出す。
「これはだね! 単なる肉体的な変化ではないんだ! 一見すると凛々しく、誰もが頼りにする完璧なお姉さん……。けれど、実は私生活ではちょっと抜けていて、妹たちに世話を焼かれ、ついつい食べ過ぎて『あ、あら……また制服が……』なんて零してしまう。そんな、全鎮守府から愛される『ポンコツ可愛いお姉さん』という最強のミームをだね……! 油断した姉の慈愛に満ちた姿を表現するのに、これ以上ない最適解だと思わないか!?」
男の言葉は、もはや説明ではなく、自らの破滅を回避するための必死の呪文だった。
だが、その「言い訳」という名の燃料は、火に油を注ぐどころか、核融合反応を引き起こすに等しい愚行であった。
「…………愛される、ポンコツ?」
高雄の声は、驚くほど静かだった。
掴んでいた男の胸ぐらを、さらに一寸ほど高く持ち上げる。彼女の瞳の奥では、青い炎が静かに、しかし絶大な質量を持って渦巻いている。
彼女は、聖母のような微笑みを崩さなかった。
その完璧な美貌に浮かんだ笑みが、今の男には死神の鎌よりも鋭利に見える。
「言いたいことは……それだけですか? 司令官」
「い、いや、まだあるぞ! 例えば、その……ふくよかさは豊穣の象徴であって、重巡洋艦としての重装甲化とも……」
「それだけですか?」
言葉が、冷徹な刃となって男の言い訳を断ち切った。
高雄の背後には、もはや黒いオーラを超え、彼女の艤装……巨大な20.3cm連装砲の幻影が、怒りの実体となって浮き上がっている。その砲口は、すべて至近距離で男の顔面をロックオンしていた。
「……私の誇り。姉としての覚悟。それをそんな……ポンコツなどという、ふざけた概念で弄ぼうとしたその罪……」
高雄の指先に、ギチギチと力がこもる。
「万死に値します。……覚悟は、できていますね?」
執務室の空気が、彼女の放つ凄まじい「圧力」によって圧縮され、パキパキと音を立てて机の上の書類が舞い上がった。
「……高雄くん。君は、どんな姿になっても素敵だよ」
その声は、これまでの軽薄な饒舌さも、狂気に満ちた熱量も完全に消え失せていた。
今まで聞いたこともないような、深く、静かで、どこまでも真摯な響き。
男は、胸ぐらを掴まれたまま逃げようともせず、ただ真っ直ぐに高雄の瞳を見つめていた。その瞳には、実験体を見る科学者の冷徹さではなく、一人の女性の美しさを心から肯定する、純粋な……あまりに純粋すぎる称賛が宿っていた。
「…………え?」
高雄の思考が白濁し、身体が凍りついた。
殺気で逆立っていた感情が、その一言で一気に霧散していく。
至近距離で見つめ合う視線。男の真剣な表情。
その瞬間、彼女の胸の奥で、トクン、と小さな、けれど確かな鼓動が跳ねた。
(……今、私は……ときめいたの? この、デリカシーの欠片もない男に……?)
信じられない。あってはならない。自分の中で沸き起こった不可解な感情に、高雄は怒りとは別の、激しい混乱と戸惑いを抱く。掴んでいた手の力が、知らず知らずのうちに緩んでいく。
すると、男はふっと視線を落とし、力なく笑った。
「……すまない。本当に、悪気はなかったんだ。ただ、君ならどんな代償を背負ってでも妹たちを愛するだろうと思ったし、妹たちもそんな君を支えて力を発揮する。その在り方は、たとえ姿形が変わっても尊いものだと……本気で信じていたんだよ……」
その自責の色を帯びた、ひどく寂しげな独白。
先ほどまでのマッドサイエンティストの面影はどこへやら、今はただ、自分の理解が及ばなかったことを悔やむ一人の男の背中があった。
「…………はぁ」
高雄は、男を床に降ろすと、深い、深い溜息をついた。
怒る気力が、その真剣すぎるズレによって削ぎ落とされてしまったのだ。
「……司令官。あなたは本当に、救いようのない……そして、恐ろしい人です」
彼女は呆れ果てたように、乱れた前髪をかき上げた。
結局のところ、この男は艦娘を「兵器」としても「ただの少女」としても見ていない。
自分なりの歪んだ、けれど途方もなく巨大な「愛」と「理論」というレンズを通して、彼女たちの本質を覗き込もうとしているのだ。
「……艦娘を何だと思っているのですか。……体重や体型を気にするのは、レディとして当たり前のことなのですよ。それを『高潔な精神の象徴』などと……」
高雄はまだ微かに熱を帯びた自らの頬を隠すように、窓の外の夜景へと視線を逸らした。
結局、彼への殺気は「呆れ」という名の凪へと変わり、執務室には奇妙な沈黙だけがお残された。
「……もう、いいです。今の話は、無かったことにします。その代わり――」
高雄は再び男を振り返り、今度は少しだけ、いたずらっぽく、それでいて凛とした微笑を浮かべた。
「今日の夜食。……あなたが、腕によりをかけて作ってくださいね。もちろん、私の分は、カロリー控えめなものでお願いし……いえ、やっぱり少しだけ、甘いものも付けてください」
夕闇が完全に執務室を支配し、デスクの上のランプだけが二人を柔らかく照らし出す。
高雄は、男がホッとしたように「よし、夜食の献立を練らなきゃな」と独り言を言いながら執務室の奥にある台所へ向かおうとする背中を見つめていた。
その背中は、先ほどまでの「悪魔の誘惑」をしていた男のものとは思えないほど、どこか頼りなく、そして不思議なほど真っ直ぐだった。
(……本当に、デリカシーの欠片もない人)
彼女は、まだ微かに残る胸の鼓動を鎮めるように、自分の胸元にそっと手を当てた。
思い返せば、この男の「暴走」は今回に始まったことではない。その都度、自分は振り回され、激昂し、頭を抱えてきた。だが、否定できない事実が一つだけある。
この男の狂気じみた発想と、常軌を逸した「再定義」が、絶望的な戦況を幾度も覆してきたのだ。仲間が傷つき、海に沈みゆこうとしたあの時。物理法則を無視した男の「嘘」が現実となり、彼女たちの命を繋ぎ止めたことが確かにあった。
「……私も、安い女ですね」
高雄は、誰もいない執務室の片隅で、ぽつりと自嘲気味に呟いた。
あんな無茶苦茶な条件を提示され、女性としての尊厳を脅かされたというのに。
あの一言、「どんな姿になっても素敵だ」という、あまりにも不器用で真摯な言葉一つで、すべての怒りが溶けてしまった。
彼がここにいるのは、その「狂気」が彼女たちに必要だからだ。
そして、自分が彼の隣にいるのは……。
「……いえ、考えるのはよしましょう。これもきっと、彼の言う『ミーム』の仕業なのですから」
高雄はふっと、自分でも驚くほど穏やかで、柔らかな笑みを浮かべた。
それは重巡洋艦としての凛とした表情でも、姉としての厳しい顔でもない。ただ一人の、心を見透かされてしまった女性の顔だった。
彼女は乱れた書類を丁寧に整え、椅子を引いた。
台所からは、男が鍋を出すガチャガチャという不器用な音が聞こえてくる。
「司令官! カロリー控えめと言ったのを忘れないでくださいね! ……あ、やっぱり、卵も追加でお願いします!」
凛とした声を張り上げながら、高雄は軽やかな足取りで執務室を後にした。
その背中からは、もう先ほどまでの重苦しいプレッシャーなど微塵も感じられなかった。
高雄型四人が深くリンクして、妹たちの傷や消耗を一身に引き受ける高雄。
修復と補給のために無理矢理食べ続けるうちに、その体型が……みたいなイメージで。
もうちょっと続くかも。