昔同人ゲーム用に作成したシナリオになります。
第一章 湯気の中に眠る声
第一章 湯気の中に眠る声
都会の空は、いつ見ても磨りガラスの向こう側にあるように濁っている。
二十代の後半を、私はその濁りの中で、ただ摩耗することに費やした。
広告代理店のデスクに齧り付き、実体のない数字を記号化して送り出す日々。
午前三時のタクシーの窓から眺める東京は、巨大な電子基板のように無機質だった。
仕事を辞め、各地の移住者募集サイトを眺めるのが日課になったのは、それからすぐのことだ。
ある夜、私は古い木造建築が立ち並ぶ、霧深い温泉街の記事に目を止めた。
「猪尾湯(ししおゆ)集落。都会の喧騒を忘れ、新しい家族のような温もりに触れてみませんか」
添えられた写真は、どこかピントが甘く、数人の老人が柔和な笑みを浮かべていた。
その瞬間、私の血管の奥で、何かが小さく跳ねた。
今思えば、それは私の自由意志などではなかった。
私の血管を流れる、私自身さえ知らなかった「血」という名の磁石が、北を指す針のように、宿命の場所を指し示しただけだったのだ。
集落へ向かうバスを降りたとき、最初に私を迎えたのは、肺の奥まで白く染め上げるような、濃密な硫黄の匂いだった。
視界を塞ぐほどの湯気の向こうから、杖を突いた老人がゆっくりと歩み寄ってくる。
「……よく来てくださいました。長旅、お疲れ様でしたな」
老人は、顔中に深い皺を刻んで破顔した。
その笑顔は、田舎の親戚のような親しみやすさに満ちている。
「私はここの世話役をしている者です。困ったことがあれば、なんでも言ってください。みんな、新しい方が来るのを心待ちにしていたんですよ」
名前を名乗られたはずだが、なぜか私の記憶には定着しなかった。
ただ、その「目」
だけが、妙に印象に残った。
歓迎の言葉とは裏腹に、その眼球は驚くほど若々しく、ぎらぎらとした生命力に溢れている。
都会で疲れ果てた私とは正反対の、異様なまでの活力。
老人の後に続く。
通り過ぎる家々の軒先では、中年の男たちが黙々と農具を研いだり、薪を割ったりしていた。
彼らは一様に、泥水を溜めたような「くたびれた目」をしていた。
老人たちの異常な元気さに比べ、彼らの背中は酷く丸まり、生気を吸い取られた抜け殻のように見える。
そのコントラストが、私の胸に小さな、けれど消えない違和感の種を蒔いた。
「ここが、あなたの住まいです。古いですが、湯だけは最高ですよ」
案内されたのは、集落の最も奥、崖に張り付くように建てられた古い屋敷だった。
その玄関先に、彼女は立っていた。
「……お待ちしておりました」
それが、私と紗枝の出会いだった。
透き通るような白い肌。湿り気を帯びた長い黒髪。
彼女が深々と頭を下げたとき、硫黄の匂いとは異なる、甘く湿った花の香りが鼻を突いた。
「紗枝(さえ)と申します。今日から、あなたのお世話をさせていただきます」
彼女が私を「あなた」と呼んだ瞬間、私の背筋を、見えない指先でなぞられたような奇妙な感覚が走った。
美しい。
誰が見ても、彼女は絶世の美女だった。
だが、私の本能は、彼女の影が足元で不自然に重く引きずられているような錯覚を覚えた。
「さあ、まずはゆっくりお湯に浸かって。食事もすぐ用意させますから」
老人は慈父のような手つきで私の肩を叩いた。
「あなたは今日から、私たちの家族です。遠慮はいりませんよ」
その温かい言葉の裏に、底知れない冷たさが潜んでいることなど、その時の私には知る由もなかった。
私はまだ、自分が「スローライフ」を求めてここに来たのだと信じていた。
自分が、この艶めかしい怪物の主(あるじ)となるために、血に導かれて帰ってきたのだとは――。
猪尾湯集落での生活は、驚くほど規則正しく、そして空虚だった。
朝、窓の外に広がる深い霧が温泉の湯気と混ざり合い、世界を白く塗り潰す頃、私の枕元にはすでに淹れたての茶が置かれている。
「……おはようございます、あなた」
紗枝の声は、いつも霧の向こうから聞こえてくるように低く、そして湿り気を帯びていた。
彼女は毎日、甲斐甲斐しく私の世話を焼いた。
食事の準備、洗濯、掃除。時には、都会から持ってきた私の衣類の綻びまで、細い指先で丁寧に繕ってくれる。
ある日の夕食時、私は湯気に縁取られた彼女の横顔を眺めながら、以前から抱いていた疑問を口にした。
「紗枝さん。……どうして君が、私の世話なんてしてくれているんだい?」
彼女が菜箸を動かす手が、一瞬だけ止まった。
「……何か、不手際がございましたでしょうか」
「いや、そうじゃない。あまりにも至れり尽くせりだから、申し訳なくて。君だって、自分の生活があるだろう」
私はあえて、彼女が「隣人」として紹介されたことを思い出しながら言った。
「老人の多い村だ。力仕事なら私でもできるし、身の回りのことだって自分でするつもりで来たんだ。君のような若い女性に、毎日通わせるのは……」
紗枝は箸を置くと、濡れたような瞳を私に向けた。
その瞳は、何かを求めて彷徨う捨て犬のようでもあり、獲物の動向を伺う捕食者のようにも見えた。
「この集落には、もう若者がおりませんから。……たまたま、私があなたの隣の家で、同年代だったというだけのことです。村の皆さんに、あの方の話し相手になって差し上げなさいと、言われただけのことですよ」
彼女は控えめに微笑んだ。
「お気になさらないで。私は、あなたのお役に立てるのが……何よりも嬉しいのです」
「……そうか。ならいいんだけど」
納得はできた。
過疎の村だ、若者に役割が回ってくるのは自然なことだろう。
だが、私の本能は、彼女の言葉を「嘘」だと断定していた。
彼女が私のために用意した煮魚を、一口運ぶ。
味は完璧だった。
都会の高級料亭でもこれほどのものは出ないだろう。
それなのに、喉を通る瞬間に感じる、言いようのない「異物感」。
彼女が茶を注ぐために立ち上がったとき、その背中の動きに私は目を奪われた。
着物越しでもわかる、しなやかすぎる肩甲骨の動き。
歩く際に、全く物音を立てないその足運び。
彼女が私の横を通り過ぎるたび、硫黄の香りを突き抜けて、鼻腔の奥を刺すような「獣」の匂いが一瞬だけ過ぎる。
それは、彼女が「人間」という皮を、あまりに精密に、けれどどこか無理をして着込んでいるような不気味さだった。
「……あなた?」
彼女が覗き込んできた。その顔が、私の鼻先数センチのところにある。
「……ああ、なんでもない。美味しいよ、ありがとう」
私は目を逸らし、冷めた茶を煽った。
彼女の献身に絆され、その美しさに胸を高鳴らせる自分。
一方で、彼女が私に触れるたび、皮膚が粟立ち、血管が収縮するような拒絶反応を見せる自分。
その二つの感情が、霧の中で混ざり合い、私の精神を少しずつ削り取っていく。
この「名もなき季節」が、何色に染まるのかを、この時の私はまだ、知る由もなかったのだ。
村に来てからというもの、私はカレンダーを確認する習慣を捨てていた。
ここでは、朝露の重さや、夕暮れに鳴く鳥の声の変化が、都会のデジタル時計よりも雄弁に時を刻んでいるからだ。
ある日の午後、私は紗枝に誘われ、村の古い蔵の整理を手伝っていた。
埃の舞う薄暗い空間に、古い漆器や出所の知れない木箱が並んでいる。
紗枝は私の隣で、慣れた手つきで古い布を畳んでいた。
「あなた、見てください。こんなに綺麗なかんざしが出てきましたよ」
紗枝が、翡翠色の石がついた古びたかんざしを自分の髪に当て、少女のような無邪気な笑みを浮かべた。
「似合うかしら?」
「ああ、とても綺麗だ」
本心だった。
暗がりの中で、彼女の瞳だけが濡れたように光り、その美しさはどこかこの世のものとは思えない神秘性を帯びていた。
だが、彼女を褒めようとした私の視線は、ふと、蔵の片隅に落ちていた一枚のくたびれたレシートに釘付けになった。
それは、私がこの村へ来る直前、最後に都会で買い物をした時のものだろう。
ジャケットのポケットの底で、ずっと眠っていたのだ。
指先で拾い上げると、そこには無機質なフォントで『カフェ・ラテ 2点』の文字があった。
――その瞬間、脳裏を不快なノイズが走った。
「先輩、ここのラテ、泡がふわふわで美味しいんですよ」
耳元で、麻美(あさみ)の声が聞こえた気がした。
都会のビル風、アスファルトの熱気、そして、いつも一生懸命に私の後を追ってきた、あの小柄な背中。
麻美は、私の「正しさ」の象徴だった。
仕事のミスを慰めてくれ、偏りがちな食事を心配し、私の平凡で空虚な人生に、無理やり「幸せ」という名の彩りを与えようとしてくれた女。
レシートを握りしめる私の指が、わずかに震える。
麻美という存在は、今の私にとって、切り捨てたはずの「人間としての義務」そのものだった。
彼女を思い出すことは、この村での、名前も責任も持たない「自由」が、ただの逃避であると突きつけられるようで、たまらなく不快だった。
「……あなた? どうかなさいましたか?」
紗枝が、私の様子を覗き込んだ。
彼女の指先が、私の握りしめた拳の上にそっと置かれる。
その指は、ひんやりと冷たく、けれど驚くほど深く私の肌に馴染んだ。
「何か……思い出したくないことでも、思い出してしまわれたのですか?」
彼女の声は、どこまでも優しく、どこまでも鋭かった。
彼女は私の手から、クシャクシャになったレシートを奪い取ると、中身も見ずに、蔵の隅にある古い竈(かまど)の火種の中へと投げ入れた。
紙が燃え、小さな炎が上がる。
都会の記憶、麻美との「正しさ」、そして私がかつて持っていたはずの、取るに足らない未練。それらが一瞬で灰になっていく。
「ここには、あなたと私。それだけで、十分ではありませんか」
紗枝は私の首筋に腕を回し、私を深い闇の中へと誘うように引き寄せた。
彼女の流す、甘く重い花の香りが、私の脳から麻美の残像を洗い流していく。
私は彼女を強く抱きしめ、自分でも驚くほど冷徹な声で呟いた。
「……ああ。そうだね。あんな場所のことなんて、もう忘れたよ」
炎が消え、蔵の中には再び湿った静寂が戻った。
だが、私の胸の奥には、消えない「棘」が残っていた。
あのレシートに刻まれた、麻美のひたむきな愛。
それが、いつかこの平穏を食い破るために、私の足跡を追ってここまでやってくるのではないか。
その予感は、確信に近い重さを持って、私の胃の底に沈んでいった。
集落での暮らしが二週間を過ぎる頃には、私の体から都会の刺々しい緊張感は消え失せていた。
代わりに染み付いたのは、濃密な硫黄の匂いと、紗枝が醸し出す静かな、けれど逃げ場のない熱気だ。
「……あなた、そんなに見つめられると、火が通りすぎてしまいます」
台所で夕餉の支度をする彼女の背中に、私は無意識に視線を投げかけていたらしい。
紗枝は困ったように、けれどどこか嬉しげに口角を上げ、振り返った。
その手には、近所の老人が「精をつけて」と持ってきたという、見たこともないほど太く、黒々とした山芋がある。
「手伝おうか?」
「いいえ。あなたはそこで、ゆっくりとお茶を飲んでいてくだされば、それで……」
そう言いながら、彼女は私の傍らに歩み寄り、湯呑みに新しい茶を注いだ。
その際、彼女の柔らかな袖が私の腕をかすめる。
ふわり、と花の腐りかけのような、重く甘い香りが鼻を突く。
彼女の指先が私の手に触れた。
ひんやりとしているのに、触れられた場所だけが火傷をしたように熱い。
「紗枝さん、君は……本当に、この村から出たいと思ったことはないのかい?」
何気ない問いのつもりだった。だが、彼女の動きが止まる。
彼女は私の膝に、しなやかな指先を滑らせるようにして手を置いた。
「どうして、そのようなことを? ……私は、ここが好きですよ。おじい様たちも優しいですし、何より、こうして『あなた』に出会えましたもの」
彼女は私を覗き込んだ。
その瞳は、暗い井戸の底のように深く、一点の曇りもなく私だけを映している。
彼女は私の胸元にそっと頭を預けてきた。
細い肩。華奢な背中。
抱き寄せれば折れてしまいそうなほど「人間」として愛らしいのに、私の腕の中にあるその肉体からは、時折、鉄を曲げるような強靭な力の残滓が伝わってくる。
「……あなたの心臓の音、少し早うございますね」
彼女は悪戯っぽく微笑み、私の胸に耳を押し当てた。
「いい音がします。都会の、あの冷たい機械のような音ではなく……この村の土と同じ、力強い音」
彼女の長い指が、私のシャツのボタンを一つ、ゆっくりと解いた。
本能が「危うい」と警鐘を鳴らす。
だが、その警鐘さえも、彼女が紡ぐ「あなた」という甘い毒に溶けていく。
「今夜は、少し強いお酒をあの方(老人)から頂きました。……後で、一緒に飲みませんか?」
彼女の吐息が、私の鎖骨を撫でる。
その熱さは、もう「親切な隣人」の域を超えていた。
私は彼女の腰を引き寄せ、その冷たい唇に自分のそれを重ねた。
その時、窓の外で、カサリと枯葉を踏む音がした。
老人たちが、あるいはあの中年の男たちが、私たちが一つになるその瞬間を、固唾を呑んで見守っている気配がした。
だが、今の私には、それさえも最高のスパイスに思えた。
「……あなた。好きですよ。死んでも、離したくないほど」
紗枝の言葉は、愛の告白というよりは、獲物を縛り上げる鎖の響きに似ていた。
私はそれを、至上の幸福として受け入れ、彼女の髪に指を沈めていった。
紗枝との熱病のような日々の中で、私は時折、麻美との「あの頃」を思い出すことがあった。
それは決まって、彼女の肌から漂う硫黄の匂いや、体温の異常な高さに、本能が警鐘を鳴らし始めた時だった。
私を人間として引き止める、最後の鎖。
大学三年生の夏、私たちは友人たちと連れ立って、湘南の海へ行った。
容赦なく照りつける太陽の下、麻美は白い肌を気にして、大きな麦わら帽子を目深に被っていた。
「先輩、アイス、溶けちゃいますよ!」
そう言って、彼女は笑った。
まるで向日葵のように、真っ直ぐで、眩しい笑顔だった。
私は、彼女の足元に広がる波打ち際まで駆けていく。
波が引くたび、足の指の間から砂がさらさらと零れ落ちていく。
「麻美! 来いよ!」
振り返ると、麻美は恥ずかしそうに頬を赤らめていた。
「もう、先輩ったら……! ほら、水着の跡が焼けちゃうじゃないですか!」
そう言いながらも、彼女はパタパタと小走りで、私の隣までやってきた。
白いワンピースの裾を捲り、はしゃぐように波と戯れる。
「先輩、見て! 貝殻、見つけました!」
手のひらに乗せられたのは、何の変哲もない小さな二枚貝だった。
だが、その時の麻美の目は、まるで世界で一番美しい宝物を見つけたかのように輝いていた。
「綺麗だな」
私がそう言うと、麻美は私の腕にそっと自分の腕を絡めてきた。
その時の彼女の体温は、私のそれと寸分違わず、温かくて、柔らかかった。
潮風が、彼女の長い髪をふわりと持ち上げる。
耳元で、波の音が「ザザ……ザザ……」と繰り返されていた。
「先輩、将来はどうするんですか? 私、先輩と同じ会社に入りたいなぁ。そうすれば、ずっと一緒にいられますよね?」
子供のような無邪気な瞳で、麻美は私を見上げた。
私は、彼女の頭をくしゃりと撫でてやった。
「バカだな。麻美なら、もっといい会社に入れるさ。俺なんかより」
「そんなことない! 私、先輩が好きですよ!」
屈託のない告白だった。
その時の私は、気恥ずかしくなって、波の彼方に視線を逸らした。
彼女の真っ直ぐな瞳を受け止めることが、なぜかできなかったのだ。
夕焼けに染まる砂浜で、二人で缶コーヒーを飲んだ。
水平線に沈む夕日は、空と海をオレンジと紫のグラデーションに染め上げていた。
隣に座る麻美の肩が、私の肩にそっと触れる。
その温かさが、心地よかった。
「あのね、先輩。私、ずっと先輩のこと、見てました。仕事もできて、優しくて、でもちょっと不器用で……」
麻美の声は、潮騒にかき消されそうだった。
「だから、もし先輩がいつか、全部に疲れちゃって、どこか遠くへ行きたいってなったら……私も一緒に、どこまでもついて行きますからね」
その言葉は、まるで呪いのように、今の私の耳に響く。
あの日の麻美の言葉は、まるで私がこの村へ来ることを、予知していたかのように聞こえるのだ。
そして、実際に彼女は私を追って、この地獄のような村までやってきた。
しかし、今の私は、あの日の砂浜の温もりを、もう思い出せない。
私の腕の中にいるのは、ひんやりと冷たい、けれど私の心臓を焼き尽くすほどの熱を秘めた紗枝の体だ。
私の耳に響くのは、潮騒ではなく、紗枝が紡ぐ「あなた」という、甘く支配的な響きだけ。
麻美。
君の真っ直ぐな愛情は、なぜあの時、私を救えなかったのだろう。
いや、救わなかったのは、他ならぬ私自身だ。
あの日の私は、まだ「人間」でいることを許されていたのに。