第二章 枯れた向日葵、濡れた花びら
麻美(あさみ)がその村に現れたのは、私が移住して一ヶ月が過ぎた頃だった。
「……先輩。本当に、ここにいたんだ」
村の入り口、湯気が立ち込めるバス停のベンチに座り込んでいた彼女は、大学時代の輝くような面影をどこかに落としてきたようだった。
かつてキャンパスの向日葵と謳われた彼女の笑顔は消え、頬はこけ、瞳は村の中年層が抱くあの「くたびれた色」に染まりかけている。
彼女もまた、都会の荒波に揉まれ、何かから逃げるようにして、私という微かな光を追ってここまで辿り着いたのだという。
村の老人たちは、そんな彼女を「親切にも」温かく迎え入れた。
「お仲間がいてくれた方が、あなたも寂しくないでしょう」
そう言って、私の屋敷から少し離れた空き家を彼女に提供した。
それからの数週間、傍目には私たちは寄り添い合う恋人同士のように見えただろう。
麻美が住み始めた平屋は、私よりも少しばかり集落の中心に近かった。夕食後、私が自分の屋敷に戻る支度をしていると、麻美が寂しそうに私のシャツの裾を掴んだ。
「先輩、もう少し、ここにいてくれませんか?」
都会にいた頃の彼女からは想像もできないほど、弱々しい懇願だった。
私は困ったように笑い、彼女の頭をポンと撫でた。
「紗枝さんが待ってるから。それに、明日は早いだろう?」
そう言って身を翻そうとした、その時だった。
彼女は、まるで何かに突き動かされるように、私の正面に回り込んだ。
そして、顔を上げ、ぐっと背伸びをして、私の唇に自分のそれを重ねてきたのだ。
一瞬の静寂。
彼女の唇は、乾いていて、微かにタバコの匂いがした。
だが、その刹那、私の脳裏には、あの湘南の砂浜がフラッシュバックした。
夕焼けに染まる波打ち際。缶コーヒーの温もり。
そして、無邪気にはしゃぎながら、私の肩に顔を寄せてきた、あの頃の麻美の笑顔。
その時、目の前の麻美の瞳が、一瞬だけ、大学生の頃の輝きを取り戻したように見えた。
都会の疲れも、この村の澱んだ空気も、すべてを跳ね返すような、真っ直ぐで、迷いのない、あの向日葵のような笑顔。
私の心臓が、ドクン、と不規則に脈打った。
身体の奥底で、何かがさざ波のように揺らぐのを感じた。
それは、切り捨てたはずの「人間」としての感情。
彼女を突き放すことへの罪悪感。
あるいは、あの頃の「正しかった自分」を、もう一度取り戻せるのではないかという、淡い期待。
私は、彼女の肩に触れ、少しだけ抱きしめ返してしまいそうになった。
このまま、彼女を抱きしめ、ここから二人で逃げ出してしまえば――。
そんな甘い誘惑が、まるで白い霧のように、私の思考を包み込む。
しかし、次の瞬間、麻美の唇から離れた私の視界の隅に、ゆらりと揺れる熱気が見えた。
村の、あの薄暗い路地の奥。
そこには、常に紗枝の存在があった。
彼女の、湿った重い視線。
それは、私の心を揺さぶろうとした「人間性」の残滓を、瞬く間に焼き尽くした。
「……ごめん」
私は麻美の体をそっと押し離した。
もう一度、彼女の瞳を見つめる。
そこには、先ほどの「向日葵のような笑顔」は、どこにもなかった。
ただ、深く、深い諦めと、私の言葉を待つだけの、くたびれた女の顔があった。
「麻美。君は疲れているんだ。……今日はもう、休んだ方がいい」
私の声は、驚くほど冷静で、そして残酷だった。
彼女は何も言わず、ただ力なくうなだれた。
その背中を、私は振り返ることなく、屋敷へと続く薄闇の中へと歩き出した。
私の心は、再び冷たい鋼に戻っていた。
麻美のキスは、私の中の「人間」を呼び覚ますには、あまりにも弱すぎた。
そして、紗枝の「愛」が、私の渇きを満たすためには、麻美の存在が、どうしても必要だと、私は確信したのだ。
麻美の家から戻り、寝所の襖を開けた瞬間、私は立ち尽くした。
行灯の火が、弱々しく部屋を照らしている。
そこには、私の布団の中に、衣類をすべて脱ぎ捨てた紗枝が横たわっていた。
白い肩が布団の端から覗き、乱れた黒髪が畳にまで広がっている。その姿は、この世のどんな絵画よりも淫らで、そして危ういほどに美しかった。
「……おかえりなさいませ、あなた」
彼女はゆっくりと身を起こした。布団が滑り落ち、露わになった彼女の白い胸元が、激しい感情ゆえか、小刻みに波打っている。
その瞳は、涙を湛えながらも、底知れぬ嫉妬の炎でじりじりと焼けていた。
「紗枝さん……これは、どういう……」
「……匂います。あの、乾いた女の匂いが」
彼女は布団から這い出し、跪いたまま私の足元に縋り付いた。
ひんやりとした彼女の肌が、私のズボン越しに伝わってくる。
「唇を……奪われたのでしょう? 私だけのものだった、あなたの唇を。あの、都会の抜け殻のような女に」
彼女の指が私の太腿を強く掴んだ。その指先は、嫉妬のあまりか、私を壊してしまいそうなほど震えている。
彼女はそのまま這い上がるようにして私に抱きつき、私の顔を両手で挟み込んだ。
「……上書きしてください。今すぐ、私で塗り潰してください」
彼女は、拒絶を許さない力で私を布団へと押し倒した。
覆い被さる彼女の体からは、いつもの清廉な花の香りに混じって、焦り、昂り、そして溢れ出した情念が、重く湿った熱気となって立ち込めている。
彼女は、泣いていた。
だが、その瞳に宿るのは悲しみではない。自分以外の何者かが、私の「血」に、私の「記憶」に触れたことへの、耐え難いほどの拒絶反応。
「あなた、あなた……。私は、あなたを失うくらいなら、この村ごと、自分ごと、すべてを食い尽くしてしまいたい……!」
彼女は狂ったように、私の唇を塞いだ。
それは「いちゃつき」と呼ぶには、あまりに凄惨で、あまりに重い接吻だった。
彼女の舌が、私の口内を、麻美の残像を一つ残らず削ぎ落とすように荒々しくなぞる。
彼女の涙が私の頬に零れ落ち、そのあまりの熱さに、私は自分の脳が溶けていくような錯覚に陥った。
彼女の腕が、私の背中に回される。
その抱擁は、愛する人を抱く力ではない。獲物を二度と逃がさぬよう、その骨を軋ませ、一体化しようとする肉食獣のそれだった。
「……あの方の味は、消えましたか?」
唇を離した紗枝が、至近距離で私を見つめる。
彼女の瞳の奥で、まだ抑え込んでいるはずの「人ならざる光」が、不気味に明滅していた。
彼女は私の胸元に顔を埋め、甘えるように、けれど釘を刺すように、私の肌に歯を立てた。
「……もし、次にあの方の匂いをさせて帰ってきたら。私、自分を止められる自信がありません。……ねえ、あなた。私を、
化け物にしないでくださいね?」
その言葉は、可愛らしい愛の囁きのように聞こえた。
だが、その背後で、蔵の柱が「メキリ」と音を立てるほどの、彼女の抑えきれない力が漏れ出していた。
窓の外では、夜の闇に紛れて村の老人たちが、まるで舞台の進展を喜ぶ観客のように、静かに屋敷を取り囲んでいた。
彼らのぎらついた視線と、紗枝の狂おしいまでの執着。
私は、彼女の滑らかな背中に手を回し、その圧倒的な重圧を、至上の恍惚として受け入れた。
麻美の、あの「向日葵のような笑顔」は、もう思い出せなくなっていた。
その夜、集落を包む霧はひときわ濃く、屋敷の境界線さえも曖昧に溶かしていた。
麻美が村に現れてから、紗枝の様子はどこか落ち着かなかった。
給仕をする手元はどこかおぼつかなく、私と目が合うたびに、花がしぼむような、寂しげな微笑みを浮かべるようになっていた。
深夜、自室で横になっていた私の耳に、襖が擦れる微かな音が届いた。
「……あの、起きていらっしゃいますか」
暗闇の中に、震えるような声が響いた。
紗枝だった。浴衣の裾をぎゅっと握りしめ、乱れた髪をそのままに、彼女は音もなく私の枕元に跪いた。
月明かりに照らされた彼女の肌は、触れれば壊れてしまいそうなほど白く、儚げだった。
「紗枝さん? どうしたんだい、こんな時間に」
私が体を起こすと、彼女は弾かれたように私の胸元に飛び込んできた。
細い肩が、小刻みに震えている。
「行かないで……ください。お願いです」
その声は、泣き出しそうな子供のように頼りなかった。
見上げると、彼女の大きな瞳から、大粒の涙が次から次へと溢れ出していた。
彼女の指が、私のシャツの袖を、まるで唯一の救いであるかのように強く掴む。
「あの方が来てから、あなたは私のこと、一度も見てくださらない……。私、怖くて。あなたが、あの日の向こう側へ……私の手の届かない場所へ、帰ってしまうのではないかって」
「紗枝さん、そんなことは……」
「いいえ、分かっているのです。私には、あなたを繋ぎ止める言葉も、都会のような華やかさもありません。でも……」
彼女は涙に濡れた顔を上げ、私の目を真っ直ぐに見つめた。
その瞳は、純粋な愛と、それゆえの深い孤独に満ちていた。
彼女は私の頬に、熱を持った掌をそっと添えた。
「私は、あなたに生かされているのです。あなたがこの村に来て、私を『紗枝さん』と呼んでくださったあの日から……私は、生まれて初めて、自分が自分でいいのだと思えた。だから……」
彼女は私の首筋に顔を埋め、微かな、けれど確かな温もりを伝えてきた。
その吐息は甘く、切なく、私の胸を締め付ける。
彼女から漂うのは、いつもより強く、けれどどこか懐かしい、雨上がりの花のような香りだった。
「私だけを見てください。……わがままでしょうか。でも、私はあなたがいなければ、もう息の仕方も忘れてしまう」
彼女は私の胸に顔を擦り寄せ、甘えるように、縋るように、何度も「あなた」と繰り返した。
その震える背中を抱きしめると、彼女はふっと力を抜き、私の腕の中で静かに涙を流し続けた。
恐怖など、そこにはなかった。
ただ、自分を全否定されることを恐れる、あまりにも不器用で、愛おしい一人の女性がそこにいた。
私は彼女の髪を優しく撫で、その小さな温もりを、壊さないように、大切に抱きしめた。
「ああ。どこへも行かないよ、紗枝」
その言葉に、彼女は微かに微笑み、幸せそうに目を閉じた。
その寝顔は、この世の何よりも純粋で、守るべき「日常」そのものに見えたのだ。