第三章 目覚め
その夜、村を包む霧は一段と濃く、硫黄の匂いは鼻腔の奥にこびりついて離れなかった。
屋敷へ戻った私は、廊下の向こうから聞こえる微かな水音に足を止めた。
脱衣所の戸が半開きになっており、そこから湿った熱気と共に、あの甘く腐った花の香りが溢れ出している。
「……あら。お帰りなさいませ、あなた」
湯気の中から、紗枝が姿を現した。
風呂上がり。濡れた長い髪が、白磁のような肩に張り付いている。薄い浴衣一枚を羽織っただけの彼女の肢体は、月光を吸い込んだように艶めかしく発光していた。
その姿は、この世のどんな芸術品よりも官能的だった。だが、私の指先は、氷を掴んだように凍りついた。
彼女の首筋に浮き上がる、太すぎる血管。
濡れた髪の隙間から覗く、異常なほど発達した背中の筋肉。
美しさに魅了される理性を突き抜けて、私の細胞の一つ一つが「逃げろ」と絶叫していた。生理的な忌諱――それは、弱き人間が巨大な肉食獣を前にした時に抱く、生存本能としての死の予感だった。
「……紗枝さん。悪い、驚かせたね」
私は視線を逸らし、逃げるように自室へ向かおうとした。その背中に、彼女の熱く湿った視線が突き刺さる。
「……あの方とは、もう、十分にお話しされましたか?」
その低く、地這うような声に足が止まる。
答えようとした瞬間、屋敷の玄関が乱暴に開け放たれた。
「先輩! 先輩、お願い、助けて!」
麻美だった。
彼女は狂乱した様子で廊下を駆け抜け、私の腕に縋り付いた。
「もう無理。あのお爺さんたちの目が……あの中年たちの目が、私を食べてるみたいで……。先輩、今すぐここを出よう? 二人で都会に帰ろう? 私、先輩さえいれば他に何もいらないから!」
麻美の叫びは、静寂に満ちた屋敷を無惨に引き裂いた。
彼女の指は私のシャツを握りしめ、必死に「先輩、先輩」と繰り返す。その声は枯れ果て、かつての瑞々しさは微塵も残っていない。くたびれ、怯え、ただ生に執着する無様な人間の響き。
その時、背後で、「ギチ、ギチリ」という、骨が軋む音がした。
「……先輩?」
紗枝が呟いた。
その「あなた」ではなく「先輩」という言葉をなぞる口調には、凍りつくような殺意が凝縮されていた。
「あなたは、私の『あなた』です。……それなのに、その汚れた女は、私の知らない名でお呼びするのね」
「紗枝さん……?」
麻美が震えながら振り返る。
そこには、もはや「美しい隣人」はいなかった。
浴衣は内側から膨れ上がる筋肉によって無惨に弾け飛び、茶色の剛毛が全身を覆っていく。2メートルを超える巨躯へと膨張し、骨が組み変わる不快な音が部屋に響き渡る。
人間の貌は失われ、そこには巨大なワニのような毛むくじゃらの顎(あぎと)が、唾液を滴らせて鎮座していた。
「ひ……っ、あああああ!」
麻美の短い悲鳴。
それが、宴の合図だった。
紗枝の――怪物の剛腕が、麻美の細い身体を軽々と薙ぎ払った。
壁に叩きつけられた麻美の喉を、怪物の顎が容赦なく捉える。
「先輩」と呼ぼうとした彼女の喉笛は、一瞬で食い千切られた。鮮血が畳に、障子に、そして私の顔に、熱い飛沫となって降りかかる。
私は、動かなかった。
恐怖で動けなかったのではない。
麻美が無惨に解体され、肉塊へと変わっていく様を眺めながら、私の心は未知の歓喜に打ち震えていたのだ。
都会の喧騒で、麻美のような女に「先輩」と呼ばれ、平穏を装っていた自分。
そんな偽りの皮が、今、紗枝の暴力によって剥ぎ取られていく。
「ア……ナ……タ……」
血塗れの顎を鳴らし、怪物が私を見上げる。
その異形。その凶暴さ。その圧倒的なまでの私への独占欲。
私は、それらすべてが愛おしくてたまらなくなった。
麻美を引き裂いたその牙を、私だけが、私の血だけで飼い慣らすことができる。その絶対的な支配の感覚が、麻美の死という最高のスパイスを伴って、私を完成させた。
「いいよ、紗枝。お前は、私のために壊れていればいい」
私は、血の海に膝をつき、怪物の茶色の首筋を優しく撫でた。
「ヒャ、ヒャヒャヒャ……!」
「ああ、お戻りだ。管理者の御方が、お戻りだ!」
気がつけば、屋敷の周囲には村の老人たちが集まっていた。
彼らはぎらぎらとした瞳を爛々と輝かせ、手を取り合い、狂ったように踊り、歌っていた。
中年の男たちは、その熱狂の影で、無表情に、しかし手際よく麻美の残骸を「処理」するための桶を運び始める。
「名もなき季節」が、終わりを告げた瞬間だった。
ここには、もう名前など必要ない。
「先輩」は死に、残されたのは、血塗れの「あなた」と、その美しき怪物だけなのだから。
この手記を綴る私の指先には、今もあの夜の鉄錆の匂いが染み付いているような気がする。
麻美が肉塊へと成り果てた翌朝、温泉街はいつもと変わらぬ深い霧に包まれていた。
廊下の畳は、中年の男たちによって完璧に拭き上げられていた。あの中年たちの「くたびれた目」が、慣れた手つきで麻美の飛沫を消し去っていく様は、滑稽なほどに事務的だった。
昨夜の狂乱が嘘のように、村にはまた、あの湿った静寂が戻っていた。
私は、村を去る決断をした。
恐怖からではない。
ましてや、死んだ麻美への罪悪感からでもない。
ただ、私の中に芽生えたこの圧倒的な「支配の悦び」を、一度客観的に検品する必要があると感じたのだ。
この喉の奥を焼くような渇望は、あの閉鎖的な空間が生んだ一時的な錯覚なのか。
それとも、私の血筋が呼び覚ました、永劫に消えぬ本性なのか。
それを見極めるためには、一度、あの無機質な都会の光の中に身を置く必要があった。
出発の朝、老人たちは村の入り口まで私を見送りに来た。
彼らの瞳は、相変わらずぎらぎらと飢えたように輝いていた。
彼らは何も言わなかった。ただ、深く頭を下げ、私の「血」という名の権威を、神を敬うような仕草で送り出した。
紗枝は、屋敷から出てこなかった。
昨夜、私の血を浴びて失神した彼女は、今頃、自分が引き裂いた「先輩」の味を反芻しながら、私の不在に身を焼いていることだろう。
それでいい。
飢えは、愛をより深く、より狂おしく育てる肥料に過ぎない。
バスの窓から遠ざかっていく鹿ノ湯集落を眺めながら、私は自分の手首に巻かれた包帯を見つめた。
紗枝に血を与えたときの傷跡が、服の袖の下で熱を持っている。
それは、私と彼女が結んだ、言葉よりも重い共犯の契りだった。
都会へ戻る車中で、私はスマートフォンを操作し、麻美との間に交わされたメッセージの履歴をすべて消去した。
彼女が最後に送ってきた「早く会いたい」という文字が、今はどこの誰の言葉だったのかも思い出せない。
彼女は、私の人生という舞台において、紗枝という怪物を「完成」させるためだけに用意された、使い捨ての舞台装置だったのだ。
これからしばらく、私は都会の喧騒の中で「善良な市民」を演じて暮らす。
だが、私の心はすでに、あの霧の深い温泉街の屋敷に置き去りにしてきた。
紗枝。
私の美しい、茶色の怪物。
お前がその牙で村の老人たちを、中年たちを、そして疎ましいすべての秩序を噛み砕くその日まで、私は遠くからお前を飼い慣らし続けよう。
この手記の続きを綴る時、私は再びあの場所へ戻るだろう。
「スローライフ」などという甘ったれた幻想を捨て、一匹の怪物の主として、血塗られた玉座に座るために。
筆を置く。
外では、都会の無機質な雨が降り始めている。
あの硫黄の匂いが、たまらなく恋しい。