名もなき季節に、あなたと   作:柚葉

4 / 6
終章 帰還

終章 帰還

 

 

都会に戻ってから、半年が過ぎた。

かつての職場に似た小さな事務所で、私は再び実体のない数字を整理する生活を送っている。

同僚たちは私を「少し陰のある、物静かで善良な男」だと思っているようだ。

だが、私の視界に映るこの世界は、あまりにも白く、血の気が引いている。

街を行き交う女たちの瞳は、一様に乾いている。

彼女たちは私を恐れないし、私の視線に跪くこともしない。

それが、今の私には耐え難いほど退屈で、卑俗なものに感じられる。

今朝、スマートフォンの画面を指でなぞっていた時、その記事を見つけた。

『山間の温泉街で悲劇 住民20名が死亡、大型の害獣による被害か』

猪尾集落において、住民のほぼ全員が死亡しているのが発見された。

現場の惨状から、複数の大型の熊による執拗な襲撃と見られているが、遺体の損壊が激しく、警察は事件性の有無を含め慎重に調査を……。

私は、無機質な事務所のデスクで一人、声を殺して笑った。

熊などではない。

あのぎらついた老人たちも、くたびれた中年たちも、ついに彼女の「空腹」を支えきれなくなったのだ。

管理者の血を失った彼女にとって、あの男たちはもはや、私を待つ間の退屈を凌ぐための、ただの肉塊に過ぎなかったのだろう。

彼女は、掃除を終えたのだ。

不純な観測者たちを排除し、私と彼女、二人きりのための完璧な「檻」を作り上げたのだ。

私は、机の引き出しから一通の封筒を取り出した。

中には、あの日以来、一度も開けることのなかった屋敷の鍵が入っている。

荷物をまとめる必要はない。

あそこに、私のすべてがある。

事務所を出て、私は雑踏の中を歩き出す。

麻美のことを思い出そうとしてみたが、もう彼女の顔を構成するパーツの一つも浮かんではこなかった。

彼女の「先輩」という呼び声は、都会の騒音の中に溶けて消えた。

これからの季節、あの村は深い雪に閉ざされるだろう。

外部との接触を断ち、白銀の世界で、私は再びあの艶めかしい怪物の主となる。

彼女の巨大な体を私の足元で丸め込ませ、私の血を与え、彼女の歪んだ情愛のすべてを、支配という名の悦楽で受け止める。

それは、世間が呼ぶ「恋」や「愛」とは、似て非なるものだ。

もっと昏く、もっと鋭く、もっと純粋な、捕食者と管理者の共生関係。

駅のホームに立ち、山へ向かう列車の到着を待つ。

硫黄の匂い、霧の冷たさ、そして、湿り気を帯びたあの呼び声が、風に乗って聞こえてきた気がした。

 

 

「……あなた」

 

 

ああ、帰ろう。

名もなき季節が終わり、私たちの永遠が始まる。

私は静かに、列車のドアへ一歩を踏み出した。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。