大蛇足 二人の女将と、静かなる楽園
大蛇足 二人の女将と、静かなる楽園
村の因習が、一晩にして「崩壊」した。
麻美を飲み込もうとした紗枝の影は、寸前で止まった。
それは、麻美が震えながらも放った「先輩を救ってくれて、ありがとう」という、純粋な感謝の言葉に、紗枝の心が初めて解けたからだった。
紗枝は、その圧倒的な「力」を老人たちへと向けた。
「この方は、私の大切なお友達です。これ以上、私たちに干渉するなら……この村の地脈ごと、すべてを腐らせて差し上げます」
彼女の背後に浮かび上がった、人智を超えた巨大な影を前に、老人たちは腰を抜かし、二度と口を出さないことを誓わされた。
それから、一年。
「あ、先輩! またそんなところでぼーっとして。お客様がいらっしゃいましたよ!」
元気な声が、宿の廊下に響く。
そこには、都会にいた頃の輝きを取り戻し、さらにこの村の空気に馴染んで艶やかさを増した、仲居頭(なかいがしら)の麻美がいた。
彼女は、かつてのギスギスした嫉妬などどこかへ捨て去ったようで、今ではこの宿の「顔」として生き生きと働いている。
「麻美さん。旦那様をあまり困らせてはいけませんよ」
奥から現れたのは、女将としての気品を纏った紗枝だった。
彼女は私の隣に立つと、当然のように私の腕を自分の方へ引き寄せる。
「もう、紗枝さん。先輩を独り占めするのは禁止って、昨日決めたじゃないですか」
「あら、これは女将の特権です。麻美さんは、お客様にお茶をお出ししてきてくださいな」
二人は顔を見合わせ、クスクスと笑い合った。
かつてのドロドロとした愛憎劇が嘘のように、今の二人の間には、私を挟んだ奇妙で強固な「友情」が芽生えていた。
紗枝の持つ深淵のような情愛と、麻美の持つ太陽のような明るさ。
相反する二つの力が、この宿を不思議な活気で満たしている。
「あ、そうだ。先輩。今日の賄(まかない)、紗枝さんと一緒に作ったんです。楽しみにしててくださいね」
麻美がウインクをして走り去っていく。
夕暮れ時、私は二人と並んで、宿の縁側に座った。
かつては恐怖の対象だった村の霧も、今は私たちのプライバシーを守る優しい帳(とばり)にしか見えない。
「……ねえ、あなた。幸せですか?」
紗枝が私の肩に頭を預け、囁く。
「……先輩、私たちは幸せですよ。ここに連れてきてくれて、ありがとう」
反対側から、麻美が私の手を握る。
私の左右に咲く、二輪の花。
片方は、すべてを飲み込む深紅の椿。
もう片方は、闇を照らす黄金の向日葵。
老人たちは遠巻きに私たちを眺め、もはや神域となったこの宿に近づくことさえしない。
ここでは、私が主人であり、彼女たちが掟だ。
都会の喧騒も、過去の傷跡も、すべてはこの心地よい湯気に溶けて消えていく。
私は、右手の柔らかさと、左手の力強い温もりを同時に感じながら、深く、深く、この楽園の空気を吸い込んだ。
「ああ。これ以上の幸せなんて、どこにもないよ」
三人の笑い声が、夜の帳が下り始めた温泉街に、いつまでも穏やかに響き渡っていた。
宿の庭に、春の柔らかな日差しが降り注いでいる。
かつての寒村は今では子供たちの健やかな笑い声が響く、平穏な桃源郷となっていた。
縁側に座る私の左右には、二人の愛しい妻と、それぞれの膝の上で眠る小さな命がある。
「見てください、あなた。この子の寝顔……。口元があなたにそっくりです」
紗枝が愛おしそうに抱いているのは、漆黒の髪を持つ男の子だ。
その瞳は、時折、母譲りの黄金色の光を宿し、村の地脈と深く繋がっていることを予感させる。紗枝はこの子が産まれてから、その刺すような独占欲が「慈しみ」へと形を変え、女将としての包容力はさらに深まっていった。
「ちょっと紗枝さん、自慢ばっかり。うちの子だって、先輩の優しい目元を受け継いでるんだから」
反対側で、麻美が元気な女の子をあやしながら笑う。
麻美に似た明るい栗色の髪を持つその子は、村の古い霧を吹き飛ばすような、太陽のような輝きを放っている。都会で一度は折れかけた麻美の心は、母となることで完全に再生し、今ではこの宿に欠かせない、もう一人の「主」となっていた。
遠く、集落の道端でその光景を眺めていた老人たちが、深々と頭を下げる。
彼らにとって、これは「勝利」だったのかもしれない。
異質な力を宿す紗枝の血と、都会の新しい血。その両方が、私という依代を通じて、この村に永遠の繁栄をもたらす「種」として根付いたのだから。
だが、彼らはもう二度と、私たちの庭に足を踏み入れることはない。
子供たちを守るために張り巡らされた紗枝の「障壁」が、不純な意図を持つ者を一切寄せ付けないからだ。
「ねえ、あなた。この子たちが大きくなったら、この宿を二人で支えていくのでしょうね」
紗枝が私の肩に寄り添い、静かに未来を語る。
「そうね。きっと麻美さんの子は、接客の天才になるわ。私の子は……この村の『守り神』として、みんなを守る子になる」
「あはは、それ最高! 私たちが女将を引退しても、ずっと賑やかになりそう」
麻美も楽しげに相槌を打つ。
一人の男を分かち合うという、世間一般では「歪」とされる関係。
けれど、ここにあるのは、血の匂いでも毒の味でもない。
ただ、春の風に乗って運ばれてくる、沈丁花の香りと、家族の確かな体温だけだ。
「ああ。この村も、この宿も、ずっと続いていくんだな」
私は二人の肩を抱き寄せ、その重みを噛み締める。
かつて逃げるように辿り着いたこの村で、私は「人間」であることを捨てたのかもしれない。
だが、怪物を愛し、過去を許し、新たな命を育む今の生活こそが、私にとっての真実だった。
源泉から立ち上る湯気は、今日も白く、優しく。
三人と二人の、小さくも強固な王国を、祝福するように包み込んでいた。
ある週末、都心から来たという若い女性客の一団が宿泊していた。
夕食時、地酒の説明をしていた私に、その中の一人があからさまに距離を詰め、私の腕を軽く突いた。
「ねえ、オーナーさん。こんな綺麗な村で独身なんて、もったいなさすぎ。今夜、お仕事終わったらお部屋で少し飲みませんか?」
その言葉が食堂に響いた瞬間、空気が凍りついた。
客たちが気づくよりも早く、厨房の奥から「ピキッ」という、建物の骨組みが悲鳴を上げるような音がした。
私は背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。
(しまっ……紗枝だ)
視線を向けると、配膳台の陰に立つ紗枝の瞳が、深淵のような黒へと染まりかけている。
彼女の周囲の空気が歪み、客たちが「何だか急に寒くない?」と震え始めた。
彼女がその指を一つ鳴らせば、この客は影に飲まれ、明日の朝には「行方不明」として処理されることになるだろう。
だが、その惨劇の引き金が引かれる寸前。
「はーーい! 失礼しまーす!」
快活な、それでいて有無を言わせぬ圧を持った声と共に、麻美が割って入った。
麻美は鮮やかな手つきで、客が私の腕に触れていた手を引き剥がすと、満面の営業スマイルで彼女たちの正面に立った。
「お客様、残念ながら当館のオーナーは、夜は『専属の女将』による厳しい研修の予定がぎっしり詰まっておりまして! その代わりと言っては何ですが、こちら! 村の秘蔵の古酒をサービスさせていただきますね」
「えっ、でも……」
「さあさあ、どうぞ! 飲みやすいですけど、腰にくるお酒ですよぉ」
麻美は淀みないトークで客を圧倒し、私をさりげなく背後に押しやった。
都会の荒波で揉まれ、営業成績トップを争っていた彼女のスキルは、こういう時にこそ真価を発揮する。
客が麻美のペースに乗せられている隙に、麻美は私の方を振り返り、唇の動きだけで告げた。
(先輩、今のうちに逃げて! 紗枝さん、もう限界!)
私は頷き、急いで食堂を後にした。
廊下の隅、暗がりに佇んでいた紗枝の元へ駆け寄り、その冷え切った手を強く握りしめる。
「……紗枝、大丈夫だ。俺はどこにも行かない」
「……あの女。あなたの肌に、指で触れました。その指、いらないわよね?」
紗枝の低い声に、まだ狂気の残滓が混じっている。
だが、そこへ麻美が「ふぅ、片付いた!」と駆け寄ってきた。
「はいはい、紗枝さん、そこまで! 私がビシッと言っといたから。あのお客さんたち、明日の朝食は一番早い時間にして、さっさとチェックアウトさせるように手配したから安心して」
麻美は紗枝の反対側の手を握り、宥めるように笑う。
「もう、私たちがついてるんだから、いちいち『消そう』としないで。宿の評判に響くでしょ?」
「……麻美さんが、余計な真似をするから。……でも、確かに、あの方に手を汚させるわけにはいきませんね」
紗枝の瞳の光が、ようやく元の穏やかなものに戻った。
彼女は私の胸に顔を埋め、独占欲を確かめるように深く息を吸い込む。
「旦那様、次は……麻美さんの後ろに隠れず、ご自分で断ってくださいね?」
「そうですよ先輩! 私のフォロー、高いんだから!」
左右から挟まれる、甘くも鋭い叱責。
私は苦笑いしながら、二人の妻を連れて、月明かりの差す渡り廊下を歩き出した。
この村に不穏な事件が起きないのは、紗枝の圧倒的な力と、それを「世俗の知恵」でコントロールする麻美の、完璧な連携があるからなのだと、私は改めて痛感した。
静かな午後だった。
玄関には「本日休館」の札が下げられ、宿の中には心地よい沈黙が流れている。
私たちは、広々とした大浴場を貸し切りにして、ただ贅沢に時間を溶かしていた。
「ふぅ……。やっぱり、誰もいないお風呂って最高ですね」
麻美が湯船の縁に頭を乗せ、手足を目一杯伸ばして溜息をついた。
湯気に蒸気した彼女の肌は、都会にいた頃の青白さが嘘のように、健康的な赤みを帯びて輝いている。
彼女はぷかぷかと浮かぶ木製のお盆から、冷えた果実水を取ると、私の口元に運んできた。
「はい、先輩。あーん、して。今日は一日、何もしないって決めたんですから」
「おいおい、麻美。甘やかしすぎだよ」
苦笑しながらも口にすると、冷たい甘さが喉を潤す。
その時、私の背中に、ひんやりとした、けれど柔らかな感触が重なった。
紗枝が、後ろから私を抱きしめるようにして、湯船に浸かっているのだ。
「……甘やかしているのは、私の方ですよ、麻美さん」
紗枝は私の肩に顎を乗せ、耳元でくすぐったい声を出す。
彼女の黒い髪が、お湯に濡れて私の胸元にまとわりつく。
「今日は、あなたがどこへも行かないように、こうして一日中繋ぎ止めておくつもりですから」
彼女の指先が、お湯の中で私の手を探し当て、指を絡めてくる。
独占欲に満ちたその力強さは、もはや恐怖ではなく、深い安らぎとして私の心に染み渡っていた。
「もう、紗枝さんたら。そうやって先輩を一人占めしようとするんだから。……私も混ぜてくださいよ」
麻美が笑いながら近づいてきて、私の反対側の手を握りしめる。
右には、静謐で深い愛を注ぐ、この村の化身のような紗枝。
左には、明るく快活な、私の「人間」の部分を繋ぎ止めてくれる麻美。
「……二人とも、ありがとうな。こんな毎日が来るなんて、思ってもみなかった」
私が本音を漏らすと、二人は顔を見合わせ、いたずらっぽく微笑んだ。
「当たり前じゃないですか。先輩をここまで追いかけてきたんですから、これくらいのご褒美、もらわなきゃ割に合いません」
麻美が私の頬に、チュッと音を立ててキスをする。
「……ええ。あなたは、私たちのすべてを奪ったのです。ですから、一生をかけて、私たちを愛し、養い、そして……愛でていただかないと」
紗枝が、反対側の頬に、深く、熱い接吻を刻む。
湯気の中に、椿の香りと、甘い果実の匂いが混ざり合う。
私は二人の重みを全身で受け止めながら、天井の古い梁を見上げた。
かつて都会で感じていた孤独や、村へ来たばかりの頃の恐怖は、もう遠い昔の物語のようだ。
今、この腕の中にある確かな温もりと、時折お湯を跳ねさせて笑う二人の声。
それだけが、私の世界のすべてだった。
「……ねえ、あなた」
紗枝が、私の耳朶を優しく甘噛みしながら、さらに声を潜める。
「お風呂から上がったら、次は……あちらの部屋で、ゆっくりとお休みしましょうね。二人で、あなたをたっぷり可愛がって差し上げますから」
麻美が「賛成!」と元気よく手を挙げる。
私は降参するように目を閉じ、この幸福すぎる監獄の中で、一生を終える覚悟を新たにした。