大蛇足 雨の境界線
物語の幕開け、あなたが期待と不安を胸に初めてこの秘境の集落を訪れたあの日。
運命が決まる前の、冷たい雨が降る夕暮れ時のことです。
紗枝との出会いは、玄関ではなく、村外れの古びた社(やしろ)でした。
「……ここから先へ進んではいけません。あなたのように清らかな人は」
傘も差さずに立ち尽くす紗枝は、都会で噂に聞いた「たおやかな美女」とは、どこか決定的に違っていました。
その黄金色の瞳には、人を拒絶するような、底知れない闇が宿っています。
「あなたは、この村に平穏な暮らしを求めて来たのでしょう? でも、この村の平穏は、私の背負う『おぞましさ』の上に成り立つ砂上の楼閣なのです」
彼女はゆっくりと、着物の袖をまくり上げました。
そこにあったのは、透き通るような白い肌……ではなく、硬質な鱗のような質感と、不自然に盛り上がった黒い剛毛。
「驚かないで。これが私の、この一族の真実。私たちの血は、時が来れば理性を食い破り、頭部は鰐、身体は猿の怪物へと変じるのです。私は代々、この村の守護神という名の『人喰い』として、生贄を喰らって生き延びる宿命にある」
「長老たちは、都会から来たあなたを、私を鎮めるための『特別な餌』にしようとしています。私があなたを愛し、ひとつになれば、怪物の飢えは一時的に癒えるでしょう。……でも、それは愛ではありません。捕食者が獲物を、自分の肉体の一部にするための執着に過ぎないのです」
紗枝はあなたの胸元に冷たい指を添え、突き放すように押し戻しました。
「私の内側で、もう一人の私が、あなたの喉笛を求めて鳴いています。……お願い、今すぐこの村を去りなさい。私の管理が、この独占欲に負けて、あなたをこの檻に閉じ込めてしまう前に」
背後で、村の老人たちが松明を持ってこちらを伺っている影が見えました。
彼らの目は、歓迎する者のそれではなく、逃げ場を失った獲物を見つめる猟師の目でした。
「走りなさい! 都会の、光ある場所へ!」
紗枝の叫び声が、獣の咆哮のように空気を震わせます。
あなたは無我夢中で、ぬかるんだ山道を駆け下りました。
背後から聞こえる、重く力強い足音と、金属を擦り合わせるような異様な鳴き声。
…数時間後。
ようやく辿り着いた麓の駅から、夜行バスに飛び乗りました。
窓の外、闇に沈む集落を振り返ると、山の上に一筋の黄金色の光が、悲しげに揺れているのが見えました。
一週間後、あなたは都会の喧騒の中にいました。
ビルに囲まれた交差点、行き交う人々。
そこには怪物の影も、血の掟もありません。
けれど、ふとした瞬間に、鼻先をかすめる雨の匂いや、誰かの鋭い視線を感じると、あなたの心臓は激しく波打ちます。
あの時、紗枝の瞳の奥に見えたのは、憎悪ではありませんでした。
あれは、自分自身を呪いながら、愛する人を逃がそうとした、一人の女性としての最後の「良心」だったのだと、今ならわかります。
あなたの首筋には、彼女が最後に触れた場所が、今も微かに熱を持っています。
それは、あなたが一生消すことのできない、異形の神からの「魅入られた証」であり、永遠に癒えることのない、切ない愛の傷痕でした。