「……はぁ」
再び放たれる大きなため息。その発生源は言わずもがな、目の前で上半身だけ起こし、下半身はベッドの上で伸ばされている連草君のもの。
その姿は悲哀に満ち溢れており、先程呟かれた、『バイトを首になった』という事実がそんなに重いのか、完全に項垂れて、動く気力が全部消えていったように見えます。
「え、えっと……どんまい?だ、大丈夫だよ!!またすぐにいい所見つかるって!!」
「そうよ〜。それにちょっと休憩できると思えば〜、体を休めるいい機会じゃない〜?」
そんな彼の姿を見て、私と加密先生は慌ててフォローするも、その効果はあまり芳しくなく、言葉を受けた連草君は落ち込んだままぼそっと呟きます。
「またバイト、探し直さないと……じゃないと……」
そこにあるのは焦燥感。何が彼をそんなに追い立てているのかは分かりませんが、傍から見ているとその姿はとても危なっかしくて、なんだか胸がざわざわする感覚に襲われます。この感覚は加密先生も感じてくれていたみたいで、いつものふわふわした優しい表情を少し引き締めながら、まっすぐ連草君に向けて言葉を伝えます。
「とにかく、今は家に帰ってゆっくり休みなさい。たとえバイトをしないといけない理由があって、そのうえで切られたのだとしても、あなたの健康状態の方を優先するべきよ。もし相手が健康を崩してでも出てこいというような、人を大切にしないような場所はこちらから断っていきなさい。先生として、大人として、例え給料が良くても、人を食い潰す場所に大切な生徒を送ることはできないわ」
加密先生による厳しくも優しい言葉。
勿論これは、現状連草君から聞いた言葉だけで判断したもの。もっと詳しくけば別の理由があるのかもしれないし、連草君にも非があるかもしれない。というか多分悪いのは連草君側なきがするけど、今は落ち込んでいる彼に寄り添う言葉が必要なタイミング。保健の先生と言うだけあって、この辺りのメンタルケアのタイミングは完璧で、実際凄く落ち込んでいた連草君も、この言葉を聞いて少しだけ顔を上げました。
(多分、首を宣告したバイト先も、このまま連草君が休めという言葉を聞かずに働きそうだから切ったんだろうし、先生もそのあたりは何となく気づいていたりしそうだなぁ……私でもそう思ったんだし……)
「あ、ありがとうございます……先生の言う通り、少し休もうと思います」
「は〜い。素直な子は好きだよ〜」
連草君の調子が少し戻ったことを確認した加密先生は、真剣な空気を霧散させて、いつもの柔らかくてぽわぽわした空気に戻って喋りだします。
(凄い……切り替えの速さもだけど、それ以上に言葉選びが本当に的確だ……加密先生が人気なの、よくわかるなぁ……)
「さて〜、じゃあ鈴音さん〜」
「は、はい!!」
加密先生の凄さに圧倒されていたところで突如呼ばれる私の名前。想像もしていなかった展開に思わず裏返りそうな声を何とか抑えて返事をした私は、ゆっくりと向けられた加密先生の柔らかな視線に吸い込まれるように目を合わせます。
「連草君が帰るのをサポートしてもらってもいい〜?どうやら2人とも帰る方向は同じっぽいし〜」
「え?」
目を合わせたところで加密先生に頼まれたのは、連草君を家まで送るというもの。
女性が男性を送るという、世間的な考えから見ればちょっと逆にも見える……いや、昨今の性事情を考えるとそうでもない……?ってそんなことはどうでも良くて、とにかくあまり聞かないシチュエーションに思わず変な声で返答をしてしまいます。しかし、そんな私の混乱なんて知らないと言わんばかりに、加密先生は続きの言葉を話します。
「本当だったら〜、家族に連絡を入れてきてもらったり〜、先生が送ったりするんだけど〜、どうも連草君の家族と連絡できなくて〜、それに先生ってこう見えても意外と忙しくって〜……かと言ってこの状態の連草君を放置もできないから〜……だから鈴音さん〜、お願い〜」
間延びしているせいか、言葉だけではなかなか伝わりづらいかもしれませんが、この言葉を口にしている加密先生は、ただでさ垂れている瞳をさらに下げ、本当に申し訳なさそうな表情を浮かべています。時間的にも下校時刻には遠く、しかし学校に用事がもうない帰宅部のような人はもういないという微妙な時間帯である今において、頼れる人は今この場にいる私しかいないというのは理解できるので、この意見には賛成です。ただ問題があるとすれば……
「別に構いませんけど……」
「え、構わないの!?」
「そこ驚くことですか?私的には、家の位置を知られるというのをいやがるのが普通かなって……」
「いや、仲良くない男性を送るっていう行為自体がおかしいと思うんだけど……」
「え?プライベート知られる方が恥ずかしくない?」
「「……???」」
「……ふふっ」
なんだか微妙に噛み合っていない私と連草君の会話は、お互いが首を傾げることでなぁなぁのうちに途切れ、その一場面を見ていた加密先生は思わずといった様子で笑い声を漏らします。この声を聞いてハッとした私と連草君は一緒に揃って加密先生に視線を向けるけど、その動きも完全一致していたことにさらに笑みを深くした加密先生は、今度は安心しきった表情を浮かべて言葉を続けます。
「その様子なら任せても大丈夫ね〜。じゃあ私は会議に行くから〜、ちゃんと帰るのよ〜。お大事に〜」
その言葉を残して加密先生は保健室から出て行ってしまいました。どうやら忙しいというのは本当らしいです。
先生が居なくなったことで取り残された私と連草君は、最初はどうすればいいのかわからず、少しの間お互いの顔見あって苦笑いを浮かべました。が、改めて考えてみればやることはひとつしかないなとなった私たちは、ゆっくりと準備を整えます。
「連草君、しっかり歩けそう?」
「うん、僕はもう大丈夫」
顔色はだいぶマシになっており、一応の確認で測った体温計にも平熱の数字が表示されているため、少なくとも帰る体力はあるように感じられました。そのことにほっと一息ついた私は、帰る準備を整えた後、連草君を誘導するように先に保健室の扉を開き、外で待とうとします。
「……おっと」
「え?」
そんな私が扉を開けた瞬間、目の前に現れたのは、同じタイミングでたまたま保健室に入ろうと扉に手を伸ばしていた1人の影。
最初は気づかずぶつかりそうになったものの、相手が声を上げてくれたことで何とかその存在に気づいてギリギリ停止。そのあと視線を慌てて前に向ければ、そこにはとてつもない美少女が。
「彩姫先輩!!」
「おや、蘭さん。こんにちは。まだ学校にいらしたんですね」
にこりと微笑みながら首を少し傾け、挨拶をしてくれたのはお昼ぶりの可愛い先輩の彩姫先輩。
相変わらず神秘的な綺麗さと、つい見とれてしまうほどの可愛さを兼ね備えた最強の先輩は、私が外に出るために道を譲りながら声をかけてきます。
「まだここにいるということは、理人さんはまだ中にいるんですか?」
「はい、丁度今から帰ろうと言うところでして……」
「また誰か来たの?……ってわ!?」
昼休みに連草君を一緒に助けた仲間として先輩も気になっていたらしく、私が保健室から出たのと入れ違いになるように顔を覗かせていきます。すると、丁度帰る準備を整え終わった連草君が保健室から出るタイミングだったらしく、ぶつかったり、想像以上に近かったりだなんてことはなかったものの、急に現れた第三者に少し驚いたらしいく、小さく声を上げてる連草君の姿が出てきました。
「っと、すいません。ちょうど2人とも出てくるところだったんですね。失礼しました」
「あ、いえ、こちらこそすいません……えっと……幽花先輩……ですよね?改めて、助けていただいてありがとうございます」
「いえいえ、困った時はお互い様ですよ〜。とりあえず熱は下がったんですね。元気そうでよかったです」
「お陰様で……今日はまだ休めって保健の先生には言われましたけど……」
「治りかけが1番危険ですからね。どうか自愛なさってください」
連草君の姿を見てひとまず安心出来る状態に回復したのを確認した彩姫先輩は、ほっと息を吐きながら保健室の扉から離れていき、これによってできたスペースを連草君が通って外に出てきました。
これで保健室の前の廊下に3人が並ぶことに。
そんなに狭い訳では無いので、通行人の邪魔になる、なんてことはないでしょうが、場所が場所なだけに、外に出たからには長居は無用。それを感じ取った私たちは、自然とその足を靴箱がある方向へと向けていきます。
「しかし驚きましたよ……なにか物音がしたと思って、そちらの方向に向かったら人が倒れているんですから」
「私もびっくりです!次の授業間に合わないよって声掛けしたら急に……」
「あ、あはは……本当に、お騒がせしてすいません……」
「結局症状はなんだったんですか?」
「先輩の予想通りの感じです。直接症状は言われていないんですけど、先生の心配の仕方的に、それで間違いないかと」
「なら休めばいいだけではあるんですね。良かったです」
「本当にすいませんでした」
再び安堵の息をこぼす彩姫先輩。その姿を見て、本当に心配していたことが心から伝わってきます。それを見た私は、『相変わらず優しい人だなぁ』という感想を浮かべ、隣の連草君は申し訳なさそうな表情を浮かべました。
「そうと決まれば早く帰りましょう。理人さん、ちゃんと帰れそうですか?」
「はい。歩いて帰れるくらいには回復したので大丈夫です。それに、鈴音さんも着いてきてくれるらしいので」
大事にはならないことが確定したことに表情を和らげた先輩は、とりあえず今日は早く休むためにも帰ることを指示。この辺りは保健の先生と一緒の発言で、連草君も特に淀む事なくこれからのことを話します。
「なるほど、それなら安し……」
ですが、ここに来て安心していた先輩の表情が再びぴしりと塊、徐々に崩れていきます。その反応を前に、私と連草君は1度目を合わせた後に彩姫先輩に視線を戻すと、先輩は物凄く不安そうな表情で私を見つめます。
「あの……蘭さん……」
「なんでしょうか?」
「……えっと、見送った後迷わず帰れますか?確か蘭さんって方向音痴……」
「あ……」
「え?」
先輩の声で、自分自身の弱点を思い出して声が漏れた私と、想像してなかった情報を前に困惑の声を出す連草君。ふたつの声が重なった後に流れるのは独特の無音空間で、その間に流れる風の音が虚しく耳に届いたような気がします。
そんな変な空間を切り替えようと声を出すのはもちろん私。
「だ、大丈夫です!!加密先生いわく、連草君の家の方向は私と同じなので!!流用ができるはずです!!……多分」
「うわ、どうしましょう……一気に不安になってきました……理人さん、警戒を怠らないでくださいね?」
「おかしい、なんで病み上がりの僕にこんな話が……え、もしかして本当にやばい……?」
「ちょっと2人とも!?」
しかし、そんな私の頑張りも虚しく、先輩と連草君の間に流れるのは不安の風ばかり。なんでなんですか!!
☆
保健室の前でのやり取りの後、先輩もまだ生徒会の仕事があるとの事で、結局連草君の帰りをサポート出来るのは私だけという結果に落ち着き、不安がられながらも学校を後にした私たちは、のんびりとしたペースで連草君の家への道を歩いていました。
朝から降っていた雨はいったん止んでくれたおかげで、傘をさす必要はなくなっていましたが、それでもどこかじめじめしていて、少し嫌な雰囲気を感じる帰り道。ですが、そんなマイナスを感じる場面でも、今日は連草君という新しい風が隣にいたおかげで、少しだけ新鮮な気持ちで変えることができました。まぁ、きっかけはあまり褒められたものではないですけどね。
「にしても、本当に同じ道なんだね〜……1回も会ったことなのが不思議……ではないか」
「まあ、僕が朝はギリギリだし放課後はすぐに帰っていたからね。学校滞在時間は、出席者の中では1番短い自信があるよ。……別になんにも誇れないけどね」
「あはは、それは本当にそう」
その道中はちょっと和やかで、とても今日知り合ったばかりの人同士のそれとは思えないほど明るかった。それもこれも、保健室でちょっとしたお喋りをしたおかげでしょうか。うん、きっとそうですね。
「ここから後どれくらいかかりそう?」
「あと数分も歩けば着くよ」
「そうなんだ?なら安心して帰れそうかも」
「……あの、本当に気を付けてね?」
「だ、だから大丈夫だって!!確かに地図を読むのは苦手だけど、さすがにもう何回も通っている道では間違えないよ!?」
……ちょっと打ち解け具合が強くて、バカにされている感も否めませんが、まぁ、ギクシャクするよりはマシでしょう。うん。
「っと、そんなこと話していたら……着いたよ。ここが僕の家」
と緩い時間を過ごしていたら割り込まれた連草君の言葉。それを受けて前を向けば、視界に入ってくるひとつのアパート。
「ここが……連草君の家……」
「あはは、言葉を頑張って選ばなくていいよ。綺麗じゃないことくらいは理解しているからさ」
そういいながら苦笑いを浮かべる彼と私の視線の前にあるそのアパートは、私が想像しているものよりもずっと古く、言ってしまえばボロいそれでした。