「どうぞ。うちの店自慢のコーヒーよ。あ、もし苦手なら言ってね。砂糖とミルクもあるから」
「いえ、ブラック平気なんで、このままで大丈夫ですよ。ありがとうございます」
差し出された一杯のコーヒーの香りを楽しんでいると、玉緒さんからの提案が来た。まだ高校生である僕が、ブラックを飲めるかどうかが分からないから確認を取ったということなのだろう。こういう所の細かい気遣いもすごく素敵なところだ。
幸い、僕はアルバイトの差し入れでブラックのコーヒーを貰う機会がそこそこあったので、貰っているうちに慣れてしまったから、この年齢では珍しく平気なタイプだ。カフェインも摂取できるから、無理やり起きる時に飲んだりもしたしね。……これを言うと怒られそうだから黙っておくけど。
「……っ!?……美味しい」
なんてくだらないことを考えながら1口カップに口をつけてみれば、口の中に広がる心地いい苦味を前に、思わず声が漏れてしまう。
缶コーヒーなんか……なんてい言い方をすれば失礼かもしれないけど、そんな表現をしてしまいそうになるほど、今までで飲んだコーヒーの中でダントツに美味しい。
味も香りも、そして温度すらも完璧なその逸品は、まさしくこのカフェの看板メニューと呼ぶにふさわしい1杯で、この為だけにこのカフェに通いつめることすら視野に入れてしまいそうになる。それだけ美味しく、そして何よりも落ち着くコーヒーだった。
「……へぇ〜、連草君、そんな顔もするんだ?」
「え?」
素晴らしいコーヒーに舌鼓を打っていると、右に座る鈴音さんが、少しにやにやした笑みを浮かべながらこちらを見つめてきていた。
明らかに僕をからかうその言葉を前に、カップを一度置き、頬に手を当ててみれば、僅かに口角が上がっていたのを感じることができた。どうやらいつの間にか僕の表情は微笑んでいたらしい。
「あら、そんなに気に入ってくれたの?それは嬉しいわね」
僕と鈴音さんのやり取りをカウンター越しに見ていた玉緒さんも、満足そうな笑顔を浮かべながら、僕に対して純粋な感想を述べていく。
この言葉に対して若干の恥ずかしさを感じながらも、しかしここで気持ちに嘘をつくのは違うと感じた僕は、真っ直ぐ視線を返しながら感想を改めて言う。
「はい、とっても美味しくて、香りも良くて……その、月並みな感想しか言えませんけど……本当に今まで飲んできたどのコーヒーよりも好きです」
「わぁ!!凄い大絶賛だ!!良かったね?カオちゃん?」
「当たり前よ。うちの自慢の品だもの」
僕の言葉を聞いて何故か嬉しそうな声をあげる鈴音さんは、そのまま笑顔を金森さんへと向けていく。すると、向けられた金森はさも当然といった口調をしながらも、しかし顔はこちらには向けず、明後日の方向を見ながらコーヒーを1口。一見すればクールな対応のそれだけど、よくよく見れば、微かに見える彼女の耳がほんのりと赤いのが確認できた。それに気づいた僕と鈴音さんは、その事実を確認するように顔を見合せた後に、お互い笑い合う。
「「ふふふっ」」
「ちょ、ちょっと!!なんなのよ二人とも!!言いたいことがあるのならいえばいいじゃない!!」
「なんでもないよ」
「そうそう、気にしないで〜」
「気にして欲しくないのなら今すぐその妙に暖かい目線をやめなさい……っ!!」
鈴音さんと一緒についついしてしまった金森さん弄り。
最初は耳だけだった赤みが徐々に顔全体に広がり、あと少しも経てば全体が真っ赤になりそうな所まで来た。が、これ以上するとこの赤色の理由が恥ずかしさから怒りに変わりそうなラインだったので、ここいらで自重。再びコーヒーを飲みながら、少しだけクールダウン。
ちなみにコーヒーの状態は、僕と金森さんがブラックで、鈴音さんが砂糖とミルク多めのカフェオレ状態となっている。
(……楽しいな)
友人……と呼んでいいのかどうかは分からないけど、少なくとも悪い印象をお互いに抱いていないであろう相手との、落ち着いた気楽なしゃべり合い。
ここまでリラックスして他人とゆっくり話したのはいつ以来だろうか。ふと記憶を振り返っても、少なくとも両親が居なくなってからそんなことをした覚えはひとつもない。
もっと小さい頃には、それこそ小学生低学年の頃には話をしていた気がするけど、正直その頃の記憶なんて曖昧で、憶えていると言っていいのか怪しいし、例えしていたとしても、中学以前に付き合いがあった人たちとは、高校への進学をきっかけにもう関わる機会がほぼ無くなってしまっている。
だから、今こうして誰かととても落ち着く時間をおくれるというのは、僕にとってはとても尊い時間だった。
(願わくば、この時間がもっと続けばいいのに……)
つい、そんなことを考えてしまうくらいには。
「……さて、じゃあそろそろ本題に入りましょうか」
なんて、とてものんびりとした時間を暫くおくったところで、玉緒さんが言葉を落とし、空気を少し変えていく。
そう、今日僕がここに来た1番の理由は、このカフェで僕がバイトするにあたって、果たして上手く行けるかどうかの下見という面が強い……というかそれが本題だ。その話が玉緒さんに通っているかどうかは分からないけど、少なくとも僕がここに来たのはなにか理由があるということはわかっているはずだ。だからか、朗らかな空気は崩さないにしても、こちらを見てくる玉緒さんは真面目な目線を向けてくる。
ここからが本番ということに、無意識のうちに喉を鳴らしそうになるものの、ふと隣を見ればこちらを優しい微笑みで見てくる鈴音さんの姿。それが、僕が1人ではないということを教えてくれ、そのおかげで固まりそうだった体が一瞬で溶解。いつも通りの、いや、なんならいつもよりもリラックスできた状態でゆっくりと口を動かす。
「あの、今日はお願いがあってここに来ました」
「お願い?」
「はい」
そこまで話して1度言葉を切り、改めて深呼吸をひとつ。
これから話す一言が、僕にとって1番大事な事だから。
本当だったらもう少しあとに言うつもりだった。だって今日が初訪問で、今日ここに来た目的は、ここの空気や雰囲気を感じ取って、僕が働いた時に精神的な相性がいいかどうかを確認するための、言わば職場見学の意味合いが大きいからだ。
けど、そんな様子見の段階なんて数段吹っ飛ばしてしまうくらいに、ここの空気を僕が気に入ってしまった。
是非とも、ここで働いてみたい。そう思ってしまった。
だから、もう迷うことも躊躇うこともない。
深呼吸を終えると共に、心を改めて引き締め直した僕は、玉緒さんに向けて真っ直ぐ声を出す。
「僕を、ぜひここで働かせて欲しいんです。バイトとして、雇って欲しいんです」
様子見だけと思っていたはずなのに、既にその一歩先に心が傾いてしまった僕の発言。
これを聞いて、鈴音さんと金森さんは驚いた表情を浮かべ、しかしその顔をすぐに微笑みに変え、僕と一緒に玉緒さんの方に視線を向けた。
「私からもお願いします!連草君、こう見えて料理凄く上手なんで、色々手伝えること多いと思うんです!!」
「こう見えては余計な気がするけど……まぁ、蘭の人を見る目は確かだってことはよく分かっているから、あたしからもお願いするわ」
「……なるほどね?」
鈴音さんと金森さんからのまさかの援護初撃を前に、今度は僕が驚いた表情をあげる番で、びっくりして反射的に顔を向けてみれば、そこには少しドヤ顔混じりの笑顔を浮かべる2人の姿。
出会ってまだ全然時間は経っておらず、金森さんに関しては、鈴音さんからの人伝いにしか僕のことを知らないレベルだ。なのにここまで手伝ってくれている。そのことに少なくない疑問と、しかしそれ以上に感謝を感じた僕は、思わず涙が流れそうになるのをグッとこらえて再び玉緒さんの方に顔を見ける。
僕たち3人の視線を受けた玉緒さんは、まさか鈴音さんと金森さんまでもがここまで真剣に手助けするとは思わなかったみたいで、一瞬その表情を驚愕に変え、しかしまたすぐに優しい微笑みに戻す。
「そこまでますぐ言われたら、無下にする方が悪くなっちゃうわね……いいわよ。貴方をうちのバイトとして雇ってあげる」
「ほ、本当ですか!?」
玉緒さんからの答えはYES。
僕一人だけじゃなくて、鈴音さんと金森さんが一緒に頭を下げてくれたのが大きいだろう。玉緒さんからの言葉を聞いた2人も、僕と同じように喜んでくれていた。
(あとで2人にもしっかりお礼をしないとね)
「ただし、2つだけ条件があります」
と、今回の大きな目的が達成できたところにピンと立てられる玉緒さんの2本の指。その行動に1度緩んだ空気がビシッと引き締まる。
(そうだ、まだ浮かれている場合じゃない)
今の僕はいわば内定を取った状態。確かにバイトをする権利を獲得はできたけど、これはあくまで働いてもいいという許可を暫定で貰えただけで、もちろん価値としては重いけど、何かあれば簡単に撤回もできる軽いものでもある。バイトの内定となれば尚更だ。
つまり、これから出される条件を達成できなければ、この内定もなかったことになってしまう。そう考えると自然と緊張してしまい、ついつい表情と拳が固まってしまう感覚を感じる。横に座っている鈴音さんと金森さんも、息を飲むような気配を感じることから、もしかしたら僕と同じような表情をしているのかもしれない。
急に張りつめられた空気を前にして、しかしこの空気を作り出した張本人である玉緒さんは、相変わらずふわりとした微笑みを浮かべたまま口を開く。
「そんなに警戒しないでちょうだい。難しいお願いをする訳じゃないわ」
緊張している僕たちを解すような声色に、少しだけ肩の力を抜いた僕は、しかし聞き逃しだけはしないように集中はする。
「1つ目。まずは髪を切って見た目を少し整えましょう。別に今の連草君がみっともないと言うつもりは無いけど、うちは飲食店だからね。料理の腕を求めることもあるでしょうけど、同じくらい接客業も求めることになると思うわ。その時に店員の顔が見辛いのは、お客さんからしても少し居心地が悪いでしょう?」
言われて自分の前髪をいじってみる。
目の前にかかっている黒色のカーテンは、しかし隙間がそこそこあるから、僕からはある程度の視覚は確保されている。けど、他の人からしたら、僕の顔がこのカーテンによって隠されているため、僕の目も表情も確認できないだろう。
接客してきた人の顔が髪の毛で見えないのは、確かに不気味に映るかもしれない。
「そして2つ目。それはしっかり体調を整えてから働くこと。……あなた、寝不足だったりしない?さっきちらっと見えた目元に隈見えたけど、実は働くどころじゃない状況じゃないわよね?」
「……」
続いて指摘されるのは僕の健康状況。
つい最近までバイトを詰め込んでおり、それが原因で倒れてしまった自分にはこれまた痛い指摘だった。
「バイトを雇うってことは、その人をこちらで守るって意味でもあるの。特にあなたはまだ未成年なんだから、無茶をさせる訳には行かないし、バイトが原因で怪我をさせましたとか病気にさせましただなんて絶対にできないわ。だから、働いてもいいのはあなたが万全の状態まで回復してから」
(ああ、そっか……だから前の職場をクビになったのか……)
厳しく、だけど優しい言葉。それを聞いてなぜ自分が前の職場を切られたのかをやっと理解した。
決してミスをしたからじゃない。休めって言われているのに、大丈夫か?って言われたのに、全部を平気ですって突っぱねて、周りも見ずに走り続けて、勝手にコケて、それでもまだ無視して走ろうとしたからだ。
(……ダメだなぁ。ここまで来てようやく気づくだなんて)
ここに来て、ようやく前の職場の優しさに気づいた。
僕は、その優しさに気づかず、自分から手を弾いていたんだ。
(次は……ちゃんと伸ばされた手には甘えよう)
自分の中で考えが決まった。やるべき事は分かった。
ふと顔を上げれば、横からは鈴音さんと金森さんからの不安そうな顔。それに対して大丈夫という表情を見せて直ぐに前を向き、玉緒さんと目を合わせる。
「分かりました。今あげられた2つの条件、しっかりのませてもらいます。なので、その時がきたら、よろしくお願いします!」
まっすぐ、丁寧に、はっきりと。
頭を下げて、しっかりと返事をする。
「……よろしい。期待しているわね、連草君」
僕の言葉に対する返事は、とても暖かく優しいものだった。