ダンジョン・クロニクル プレイヤー記録 作:Rime casket
――今度は、俺の番
ログイン612日目
調整対象エリア《虚数峡谷》
この場所は、イルムの“仕事場”みたいなエリアだった。
地形が歪み、重力が不安定で、
敵も挙動がおかしい“調整中エリア”。
プレイヤーは本来立入非推奨。
俺は護衛兼テスト同行という立場だった。
「今日は軽めの確認だけ」
イルムはいつも通り淡々と言う。
でも俺は知っている。
こういう時ほど危ない。
⸻
◆ ほんの一瞬のズレ
峡谷中央、空中に浮かぶ足場。
イルムがデータ確認のために一歩踏み出した。
その瞬間、地形の位相がずれた。
足場が“なかったこと”になる。
「イルム!」
手が届かない位置。
落下。
下は虚数空間。
通常落下じゃない、存在削れ系ダメージ。
俺は考える前に動いていた。
跳躍。
ワイヤースキルを地形の残像に打ち込み、無理やり軌道を作る。
イルムの腕を掴む。
衝撃。
二人まとめて壁面に叩きつけられる。
HPが一気に削れる。
でも、落ちない。
「……っ」
イルムの息が詰まる音が近い。
俺の腕にしがみついている。
初めて見る表情だった。
恐怖を押し殺した顔。
「掴まってろ、引き上げる!」
壁の出っ張りに足をかけ、強引に跳ね上がる。
転がるように安全圏へ。
数秒、荒い呼吸だけが響く。
⸻
◆ 逆の立場
「……無茶」
イルムが小さく言う。
俺は笑う。
「前に言ったろ、壁は穴埋めするって」
イルムが何か言おうとして、止まる。
視線が合う。
すぐ逸らされる。
「怪我は?」
「軽傷。システム補正で問題ない」
声は落ち着いている。
でも、指先が微かに震えている。
俺は言う。
「怖かったか?」
少しの沈黙。
そして、小さく。
「……うん」
初めて聞いた、本音だった。
⸻
◆ 触れた温度
立ち上がろうとするイルムがふらつく。
反射的に肩を支える。
距離が近い。
イルムの呼吸が乱れているのが分かる。
「さっき、いなくなるかと思った」
俺が言うと、
イルムは強く目を閉じた。
「言わないで」
かすれた声。
その一言で、全部分かった。
この人は、“失う側”になるのが何より怖い。
だから冷たくしてた。
だから距離を取ってた。
でも今は。
俺の服を掴んだまま、離さない。
⸻
◆ その後
帰還後。
イルムはいつも通りの調子に戻った。
「今日のログは私が処理する
あなたは休んで」
事務的な口調。
でも視線が合わない。
それどころか――
翌日から、露骨に会わなくなった。
前線にも来ない。
調整エリアも別ルート。
メッセージも最低限。
避けられている。
理由は、聞かなくても分かった。
⸻
◆ 数日後の独白
久しぶりに短いメッセージが届いた。
《しばらく距離を取る》
それだけ。
理由は書いていない。
でも行間に全部ある。
“感情を整理できないから”
イルムは、自分の心に慣れていない。
初恋を失って以来、閉じていた部分が
あの日の落下で、無理やり開いてしまった。
だから今は、顔を見られない。
⸻
◆ 今日の日記
「イルムを助けた
今度は俺の番だった」
少し間を空けて書く。
「そして今、避けられている」
最後に、ゆっくり打ち込む。
「でも嫌じゃない
逃げられてるんじゃなくて、向き合おうとしてる避け方だから」
セーブ。
画面を閉じながら思う。
イルムはきっと、また戻ってくる。
前みたいに“横に立つため”じゃなくて。
今度は、
自分の気持ちを抱えたまま、隣に立つために。