ゆるふわです。
「あー、もう無理。マジで無理」
アパートの床に、狼獣人のダム子が濡れた雑巾のようにへばりついていた。
彼女の指先は荒れ、自慢の艶やかな毛並みには埃が絡みついている。
「なんでアタシが、こんなドブさらいみたいな仕事しなきゃなんないわけ? アタシ、元『疾風のストライカー』だぞ? 才能の塊だぞ?」
「仕方ないよぉ。ショウちゃんがへそくり全額スっちゃったしぃ、リッツォちゃんは反省ポーズだけで全然稼いでこないしぃ」
羊獣人のルリルが、ボロボロの家計簿にペンを走らせながら溜息をついた。
彼女もまた、連日の「日雇い運送」で疲弊していた。ガラクタ号を酷使し、安い荷物を大量に運び、得られるのはわずかな銅貨と腰痛だけだ。
「……ねえ、ルリル。アタシらさぁ、あいつらとは違うよね?」
ダム子が上体を起こし、部屋の隅で「宇宙との交信」を試みているショウと、鏡の前で「自撮りの角度」を研究しているリッツォを顎でしゃくった。
「あいつら、ガチで頭おかしいじゃん。詐欺に引っかかったり、誘拐されたり。それに比べて、アタシらは地道に働いてる。偉くない?」
ルリルは筆を止め、ふんわりと微笑んだ。
その笑みの裏には、ドロドロとした優越感が渦巻いていた。
「そうだねぇ。ウチらこそが、このパーティの『良心』であり『要(かなめ)』だよねぇ。あの二人は、ウチらがいないと野垂れ死ぬだけの、かわいそうな子たちだし」
「だろ? だからさぁ、アタシらだけでなんとかしなきゃって思うんだよ」
ここ数日、ダム子とルリルの距離は急速に縮まっていた。
それは友情というよりは、「下の人間を見下すことで安心したい」という共犯関係に近い。リッツォの浅はかさと、ショウの痛々しさ。それらを嘲笑うことで、自分たちの惨めな現状から目を逸らしていたのだ。
「頑張ろうねぇ、ダム子ちゃん」
「おう。アタシに任せとけって」
そう誓い合ったはずだった。
しかし、「地道な努力」ほど、彼女たちのような人種にとって猛毒なものはない。
一週間後。
アパートに帰ってきたダム子の様子がおかしかった。
いつもなら「腹減った! 肉食わせろ!」と騒ぐ彼女が、借りてきた猫のように静かだ。顔色は青白く、尻尾は股の間に挟まっている。
「……ダム子ちゃん? どうかしたのぉ?」
ルリルが声をかけると、ダム子はビクリと肩を震わせた。
そして、周囲を確認し、震える手でルリルの袖を掴んだ。
「ルリル……ちょっと、話がある。……二人だけで」
二人はガラクタ号の車内へと移動した。ここなら、他の二人に聞かれることはない。
密室になった途端、ダム子は突っ伏して泣き出した。
「うぅ……やっちまった……。アタシ、取り返しのつかないことしちまったかも……」
「えっ、なになに? 怖いよぉ」
ダム子は鼻水をすすりながら、懐から一枚の奇妙な石盤を取り出した。
それは通常の通信用クリスタルとは違い、どす黒い光を放つ、使い捨ての魔導具だった。
「……仕事、探しちまったんだよ。『高額報酬』『即日払い』『荷物を運ぶだけ』ってやつ……」
「えぇ……それって……」
「最初はさぁ、ただの運送屋だと思ったんだよ! でも、応募したらこの水晶板が送られてきて……『連絡は全てこれで行う』って……」
ダム子の説明は要領を得なかったが、要約するとこうだ。
楽して稼ぎたい一心で、裏掲示板の求人に応募した。
仕事の内容は知らされないまま、まずは「身分証の写し」と「家族構成」、そして「所属パーティの情報」を送らされた。
そして昨日、ようやく具体的な指示が届いた。
『ターゲット:〇〇区画の宝石商。セキュリティ解除済み。指定の物品を回収せよ』
「これ……どう見ても強盗だよねぇ」ルリルが呟く。
「だよな!? だからアタシ、『急用ができた』って断ろうとしたんだよ! そしたら……」
ダム子が水晶板を操作すると、空中に文字が浮かび上がった。
『逃げられると思うなよ。お前の実家、〇〇村だろ? 妹がいるな? お前のパーティの羊女、いつも〇〇街道を使ってるな? ——裏切れば、どうなるか分かるな?』
「ひっ……!」
ルリルが悲鳴を上げて口を押さえる。
自分たちの個人情報が、完全に握られている。
「どうしようルリルぅ……! アタシ、家族に手を出されたくない! あんたにも迷惑かけたくない! でも、強盗なんて捕まったら……!」
パニックに陥り、過呼吸気味になるダム子。
かつての「元エース」のプライドなど見る影もない。ただの脅えた小動物だ。
ルリルは、ダム子の背中をさすりながら、必死に思考を巡らせた。
(警察に行く? ……いや、そしたら報復が怖い。バックレる? 実家に被害が出る。……やるしかない?)
ふと、ルリルの脳裏に邪な計算がよぎった。
(……待てよ。この仕事、報酬は『金貨二十枚』って書いてある。……もし、本当にただ荷物を運ぶだけで、誰も傷つけずに済むなら……? 借金も返せるし、ガラクタ号も修理できる……?)
彼女の中の「貧困」という病魔が、正常な判断力を蝕む。
「……ねえ、ダム子ちゃん。とりあえずぅ、現場に行ってみよう?」
「はぁ!? お前、正気かよ!?」
「違うよぉ。断るにしても、相手の顔も見ないで逃げたら、余計に危ないでしょ? ……それに、もしかしたら、本当にただの運送屋かもしれないしぃ……」
「……ルリル、お前……金が欲しいだけじゃ……」
「ち、違うってばぁ! ダム子ちゃんを助けたいだけだよぉ!」
共依存の二人は、恐怖と欲望がない交ぜになったまま、破滅へのアクセルを踏み込んだ。
深夜二時。
月明かりすらない曇天の下、二人は黒いローブを目深に被り、指定された場所——貴族街の外れにある裏路地——にいた。
「……ウチはここで見てるから。何かあったら、すぐに合図してね」
ルリルはガラクタ号のエンジンをかけたまま、路地の入り口で待機した。
「うぅ……帰りたい……」
ダム子は震える足で、集合場所へと向かった。
そこには、既に数人の人影があった。
目出し帽を被った男たち。全員が殺気立っており、明らかにカタギではない。
「……来たな、『14番』」
リーダー格らしき男が、低い声で言った。ここでは名前すら呼ばれない。ただの捨て駒(番号)だ。
「い、一応聞くけど……これ、犯罪じゃないっすよね? アタシ、そういうのはちょっと……」
ダム子が精一杯の虚勢を張って聞く。
男は微笑した。
「安心しろ。ただの『資産の再分配』だ。……行くぞ。窓ガラスを割るのがお前の役目だ」
男が手渡してきたのは、魔力で強化されたバールのような鉄棒だった。
目の前にあるのは、高級宝石店の裏口。
どう取り繕っても、言い逃れできない「強盗」だった。
(……ああ、終わった)
ダム子は悟った。
これは運送屋ではない。捨て駒による突撃部隊だ。
捕まれば実刑。逃げれば報復。
どちらに転んでも、彼女の人生はここで終了する。
彼女は、震える手でフードを直し、路地の入り口を振り返った。
そこで待っているはずの「共犯者」に向けて、事前に決めていたサイン——左耳を二回掻く——を送る。
意味は、『完全にクロ。助けて』。
そのサインを見た瞬間。
ルリルの「金への未練」は消し飛んだ。
彼女は羊の仮面を被った冷徹な計算機へと戻った。
(強盗の共犯なんて、割に合わない。でも、ここでダム子を見捨てたら、ウチの情報も漏れる。……なら、最善手は一つ)
彼女は懐から自分の水晶板を取り出し、迷わず「110番(王都警備隊)」をコールした。
『はい、こちら王都警備隊。事件ですか? 事故ですか?』
「あ、あのぉ〜! 怖いですぅ〜!」
ルリルは、この世で一番か弱い少女の声色を作った。
「貴族街の裏でぇ、黒い服の人たちが集まっててぇ! なんか、棒とか持っててぇ! お店の窓を割ろうとしてるんですぅ!」
『場所は!?』
「えっとぉ、三番街の宝石店の裏ですぅ! 早く来てくださぁい! 友達が……友達が巻き込まれてるんですぅ!」
「オラァ! さっさと割れ!」
男に怒鳴られ、ダム子が泣きながらバールを振り上げた、その時だった。
カッッッ!!
上空から強烈な閃光が降り注いだ。
「目があぁぁ!!」
『王都警備隊だ! 全員、その場で武器を捨てろ!』
飛竜騎兵団が、またしても空から降ってきた。
これが、この国の治安維持のリアルだ。
「逃げろ!」
「チッ、罠か!」
男たちが散り散りに逃げようとするが、訓練された騎士たちにあっという間に取り押さえられていく。
ダム子もまた、逃げることもできず、その場にへたり込んでいた。
「うわぁぁぁん! ごめんなさぁい! アタシ脅されてただけなんですぅ!」
「黙れ! 署で話を聞く!」
無慈悲に手錠がかけられる。冷たい金属の感触が、ダム子の手首に食い込んだ。
一時間後。王都警備隊の詰所。
取調室の外で、ルリルは騎士隊長——いつものエルフの男——と対峙していた。
「……つまり、君の友人は、犯罪組織に脅されて無理やり参加させられた。そして、君と協力して、組織を一網打尽にするために潜入していた、と?」
隊長は疑わしそうに眉をひそめた。
ルリルは、ハンカチで嘘泣きの涙を拭いながら、必死に頷いた。
「そ、そうなんですぅ。ダム子ちゃん、正義感が強くてぇ……。家族を人質に取られても、社会のために戦うって……。だから、ウチに通報を頼んだんですぅ」
完全に作り話ではないが、九割は美化した。
「金に目がくらんで応募した」という事実は、墓場まで持っていく覚悟だ。
「……ふむ」
隊長は、押収した「闇の水晶板」と、ダム子の怯えきった供述調書を見比べた。
「確かに、この石盤を使った脅迫の手口は、最近横行している『トカゲの尻尾切り』詐欺の手口と一致する。彼女が被害者である側面は否定できないな」
「ですよねぇ! ダム子ちゃんは被害者なんですぅ! むしろ、組織を壊滅させた功労者ですよねぇ?」
ルリルが上目遣いで迫る。
隊長は大きく溜息をついた。
「……分かった。今回は『捜査協力者』として処理しよう。逮捕歴はつけない」
「やったぁ!」
「ただし!」
隊長の声が鋭くなる。
「彼女の個人情報は、我々が保護プログラムの下で管理する。報復のリスクについては、そう心配することはないだろう。奴らにとっても、末端のバイトにいちいち報復するのはリスクが高すぎるからな」
「は、はいぃ……よかったぁ……」
「だが、二度目はないぞ。楽して稼ごうとするから、こういう目に遭うんだ。肝に銘じておけ」
説教は一時間続いた。
帰り道。
東の空が白み始めていた。
ガラクタ号の助手席で、ダム子は小さくなっていた。
「……ルリル」
「なぁに?」
「……ごめん。あと、ありがとな」
ダム子の声は枯れていた。
「アタシ、バカだった。楽な仕事なんてないんだな。……危うく、人生棒に振るところだった」
「本当だよぉ」
ルリルはハンドルを握りながら、ぷぅと頬を膨らませた。
「ウチまで共犯になるところだったんだからねぇ。もし捕まってたら、ガラクタ号も没収されて、ウチら路頭に迷ってたよぉ」
「悪かったって……」
「それにさぁ、原因はやっぱりあの二人だよぉ。リッツォちゃんがもっと稼げばいいし、ショウちゃんが無駄遣いしなきゃいいんだもん。あいつらのせいで、ダム子ちゃんがこんな目に遭ったんだよぉ」
ルリルは、全ての責任を不在の二人に転嫁し始めた。そうすることで、自分も一瞬「金貨二十枚」に目がくらんだ事実を正当化しようとしていた。
「……でもさ」
ルリルが、ポツリと言った。
「ダム子ちゃんが、他の誰でもなく、ウチに相談してくれて……ちょっとだけ、嬉しかったよぉ」
「え?」
ダム子が顔を上げる。
ルリルの白い頬が、朝焼けのせいか、少しだけ赤く染まっていた。
「ウチら、一応パートナーだしねぇ。……これからも、ヤバいことになったら、一番に教えてよね」
「……おう。当たり前だろ」
ダム子は鼻をすすり、少しだけ笑った。
「アタシの相棒は、お前だけだよ。……あとの二人は、まあ、ペットみたいなもんだ」
二人の間に、腐れ縁という名の絆が、ほんの少しだけ強固になった夜明けだった。
もちろん、家に帰れば「金がない」という現実は何一つ変わっていないのだが。
ハートフルコメディを目指しています。
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