ゆるふわです。
アパートの一室は、甘ったるい香りに支配されていた。
部屋の四隅、いや、生活空間の八割を占拠しているのは、リッツォたちの暴走によって積み上がった『白銀蜜の美容液』の在庫タワーだ。消費期限が迫り、少し発酵し始めたのか、高級な香りはどこか饐(す)えた匂いへと変化しつつある。
その在庫の壁に囲まれた狭いスペースで、四人の底辺獣人たちは車座になり、カップ麺をすすっていた。
「……ねえ、やっぱりさぁ、原点回帰するべきだと思うんだよねぇ」
猫獣人のリッツォが、麺を一本フォークで巻き取りながら言った。
「私たちが一番輝ける場所って、やっぱり『配信』じゃん? 最近、ろくなことないしぃ。ここらで一発、特大のバズりを狙って、企業案件とか貰って、優雅なインフルエンサー生活……どう?」
「賛成だわ」
狼獣人のダム子が、スープを飲み干して空容器を在庫タワーの上にポンと置いた。
「アタシらには華がある。才能もある。ただ、時代がアタシらに追いついてないだけなんだよ。本気出せば、同接一万人なんて余裕だって」
「……統計的には、過去の最高同接数は十二人(うち三人は自分たちのアカウント)ですが」
狐獣人のショウが、眼鏡の汚れを拭きながら淡々と事実を述べる。
「しかし、潜在的なポテンシャルは計り知れません。今のトレンドは『底辺からの成り上がり』です。私たちの悲惨な現状は、むしろ強力なコンテンツになります」
「だよねぇ。ウチも賛成だよぉ」
羊獣人のルリルが、ふんわりと微笑む。
「もう、身体張って働くの疲れちゃったしぃ。楽してチヤホヤされたいなぁ」
根拠のない自信と、労働への忌避感。
いつものように生産性のない夢物語を語り合い、現実逃避の沼に肩まで浸かっていた、その時だった。
ドンドンドン!!
粗末な木のドアが、激しく叩かれた。
借金取りか、あるいは大家か。四人に緊張が走る。
「……居留守、使う?」ルリルが小声で囁く。
「いや、あんな叩き方するのはヤバい奴だ。逃げ道確保しとけ」ダム子が窓に手をかける。
しかし、ドアの向こうから聞こえたのは、予想外の声だった。
「ダム子! いるのは分かってるんだよ! 開けな!」
その声を聞いた瞬間、ダム子の尻尾が「ビクッ」と股の間に巻き込まれた。
顔色が瞬時に土気色に変わり、冷や汗が噴き出す。
「げっ……この声……まさか……」
ガチャリ。
鍵をかけていなかったドアが乱暴に開かれた。
逆光を背負って立っていたのは、一人の狼獣人の女性だった。
白髪交じりの毛並み、苦労が刻まれた眉間の皺、そしてダム子と瓜二つの吊り上がった目。服装は田舎特有の、実用一点張りの野暮ったいチュニックだ。
「か、母さん……!?」
ダム子の母親、マム子だった。
彼女は部屋の惨状——積み上がった在庫、散らばったカップ麺、昼間からパジャマ姿の娘たち——を見回し、最後にダム子を睨みつけた。
「あんた……こんなゴミ溜めで、何やってんだい」
「な、なんだよ急に! 連絡くらいよこせよ!」
ダム子が虚勢を張って立ち上がる。
「アタシたち、今大事な『企画会議』中なんだけど!?」
「会議だぁ?」
マム子はドカドカと部屋に入り込み、ダム子の胸ぐらを掴んだ。
「寝言言ってんじゃないよ! 警備隊から連絡が来たんだよ! あんた、怪しい仕事に手を出して、個人情報をバラ撒いたってねぇ!?」
室内の空気が凍りついた。
心当たりしかなかった。警備隊の隊長は「報復のリスクは低い」と言ったが、流出した個人情報が消えるわけではない。当然、実家の方にも注意喚起の連絡がいっていたのだ。
「村中大騒ぎだよ! 『マム子さんの家の娘が、犯罪組織に加担した』ってね! お父さんなんて、恥ずかしくて畑に出られないって泣いてるんだよ!」
「はぁ!? アタシは被害者だっつーの!」
ダム子がマム子の手を振り払う。
「騙されたんだよ! アタシは悪くない! 悪いのはあの詐欺師どもだろ!」
「騙されるような隙を見せるのが悪いんだよ! 昔っからそうさ! あんたは調子に乗って、すぐに足元を掬われる!」
「うっせぇな! わざわざ田舎から説教しに来たのかよ! 帰れよ!」
激しい怒鳴り合い。
リッツォ、ルリル、ショウの三人は、在庫タワーの陰に隠れて、気まずそうにその様子を見守っていた。
(うわぁ、ガチ喧嘩だぁ……)
(これ、ダム子ちゃんが百パーセント悪いよねぇ……)
(親子関係の破綻……興味深いサンプルです……)
一通り怒鳴り散らし、肩で息をする二人。
少し沈黙が流れた後、マム子は乱れた服を直し、持っていた布袋から「何か」を取り出した。
ジャララ……。
金属同士がぶつかる、重い音がした。
マム子の手に握られていたのは、数枚のメダルだった。
金、銀、銅。どれも少し錆びついているが、かつては輝いていたものだ。
「……ダム子。これ、持ってきたよ」
マム子の声色が、少しだけ柔らかくなった。
「あんたが子供の頃、『ジュニア武闘大会』や『駆けっこ大会』で獲ったメダルさ。……掃除してたら出てきてね」
「……は?」
ダム子は、汚いものを見るような目でそれを見た。
「あんたは、やればできる子なんだよ」
マム子は縋るように言った。
「昔はあんなに輝いてたじゃないか。村のみんなが『神童だ』って褒めてくれた。……思い出しておくれよ。真面目に、真っ直ぐ走ってたあの頃を。こんなドブみたいな生活やめて、もう一度やり直そうや。ね?」
それは、親としての純粋な愛情だったかもしれない。
しかし、現在のダム子にとっては、最も触れられたくない古傷を抉る刃物だった。
ダム子の中で、何かが切れた音がした。
「……うるせぇ」
「え?」
「うるせぇって言ってんだよクソババア!!」
ダム子はマム子の手からメダルの束をひったくり、全力で床に叩きつけた。
ガシャァァァン!!
メダルが飛び散り、いくつかは在庫タワーにぶつかって、美容液の瓶を倒した。
「ダム子……あんた……」マム子が目を見開く。
「なんだよこれ! こんなゴミ、なんの価値もねぇんだよ!」
ダム子は床に落ちた金メダルを足で踏みつけた。
「『昔は良かった』? 『神童だった』? ……それがどうした! 今のアタシを見ろよ! 金もねぇ! 稼げる仕事もねぇ! プライド以外なんにもねぇんだよ!」
彼女は吠えた。喉が裂けんばかりに。
「アタシがこうなったのはな、全部あんたらのせいだ! 田舎の小さな大会で勝ったくらいで『天才だ』ってチヤホヤして! 勘違いさせて! その気になって外の世界に出たら、ボコボコにされて……! あんたたちが余計な期待さえしなけりゃ、アタシは身の程を知ったまま、村で大人しく暮らせたんだ!」
「そんな……お母さんは、あんたのためを思って……」
「あんたはハズレなんだよ!!」
ダム子が叫んだ。その言葉は、マム子の顔面を殴るよりも深く突き刺さった。
「才能もねぇ、金もねぇ、コネもねぇ家に生まれたから、アタシは失敗したんだ! 優秀な親から生まれてりゃ、今頃アタシは本当の『疾風のストライカー』になれてたんだよ! ……子供はなぁ、親を選べねぇんだよ!!」
部屋に、痛々しい静寂が落ちた。
マム子は、口をパクパクと動かしたが、言葉は出てこなかった。
彼女の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「……そうかい。……悪かったね、ハズレで」
マム子は震える手で荷物を持ち直した。
床に散らばったメダルを拾おうとしたが、ダム子の殺気立った視線に気付き、手を止めた。
「……帰るよ。達者でやりな」
背中が、来た時よりも一回り小さく見えた。
マム子は逃げるように部屋を出ていき、静かにドアを閉めた。
後に残されたのは、四人の獣人と、散乱したメダル。そして、どうしようもない気まずさだけだった。
「…………」
ダム子は荒い息を吐きながら、肩を怒らせて立っていた。
「……ねえ」
その沈黙を破ったのは、リッツォだった。
彼女は床に落ちていた銀メダルを指先で摘み上げ、つまらなそうに言った。
「このメダル、もう要らないの? ゴミなら捨てちゃっていい?」
「……っ」
ダム子が反応する。
「ていうかさぁ、汚いし邪魔なんだよねぇ。過去の栄光とか、ダサいし。リサイクル業者に売れば、銅貨数枚にはなるんじゃない?」
リッツォはわざとらしくメダルをゴミ箱に投げ入れようとした。
「……やめろ!」
ダム子が飛びつき、リッツォの手からメダルを奪い返した。
そして、それを胸に抱きしめ、その場に崩れ落ちた。
「……ダメだ。捨てちゃ、ダメだ……」
「なんでぇ? ゴミなんでしょぉ?」
「……違う……これは……」
ダム子はメダルを強く握りしめた。錆びついた金属の感触が、掌に食い込む。
そして、堰を切ったように語り始めた。
「……アタシ、速かったんだ。昔は、誰よりも速かった」
ショウが「出ました、自分語り。典型的な防衛機制ですね」と茶化そうとしたが、ルリルが鋭い視線で「黙って」と制した。
「走れば勝てた。母さんも、親父も、近所の人も、みんな笑ってくれた。アタシが一番になるたびに、ご馳走が出て、褒めてくれて……それが嬉しかったんだ。アタシは特別なんだって、信じてた」
ダム子の声が震える。
「でも……地方大会に出たら、アタシより速い奴がいた。王都の選抜に行ったら、アタシなんて足元にも及ばない化け物だらけだった。……才能の壁ってやつだ。努力じゃどうにもならない、圧倒的な差があった」
彼女は唇を噛み締めた。
「でも、母さんたちは期待し続けた。『ダム子ならできる』『次は勝てる』って。……辛かったんだよ。期待されるのが。失望されるのが怖くて、走るのが怖くなって……逃げ出したんだ。家を飛び出して、この街に来て……気付けば、こんな惨めな生活になってた」
ダム子は涙を拭った。
「だから……親のせいなんだよ。あいつらが、アタシに夢なんて見せなけりゃ……こんなに苦しくなかったのに……」
彼女の独白を聞き終え、三人は顔を見合わせた。
議題は明白だ。
『ダム子の転落人生は、誰のせいか?』
「……私は、ダム子ちゃんが悪いと思うなぁ」
リッツォが、化粧水をパッティングしながら言った。
「だってぇ、親の期待が重いとか、そんなの勝手な言い訳じゃん。自分の実力が足りなかったのを、親の愛のせいにするなんて、ダサいよ。可愛くない」
「……社会構造論的には、環境要因の影響は無視できません」
ショウが眼鏡を光らせる。
「教育格差、遺伝的要因、地域格差。マム子さんが適切なコーチング環境を提供できなかったことが、ダム子さんの才能をスポイルした。マム子さんのノンデリが遺伝した可能性もありますし、あながち間違いではありません」
意見は割れた。
ダム子は俯いたまま、ルリルの言葉を待った。
ルリルは、一番の相棒だ。きっと、自分の辛さを分かってくれるはずだと。
「……ルリルは、どう思う?」
ルリルは、もこもこの髪を掻きながら、ダム子の目を真っ直ぐに見た。
普段の寝ぼけた瞳ではない。冷徹で、しかしどこか温かい、不思議な色をしていた。
「ウチはねぇ……ダム子ちゃんが悪いと思うよぉ」
「……っ!?」
ダム子が息を呑む。
「ルリルまで……アタシを責めるのかよ……」
「だってさぁ」
ルリルは、部屋を見回した。
売れない在庫の山。貧乏臭い部屋。そして、性格の歪んだ仲間たち。
「ダム子ちゃん、『子供は親を選べない』って言ってたよねぇ。それはそうかもしれないけどぉ」
ルリルは、ダム子の鼻先を指差した。
「友達は、選べるよねぇ?」
「え?」
「ウチらのことだよぉ。リッツォちゃん、ショウちゃん、そしてウチ。……ダム子ちゃんはさぁ、家を出て、自分で仲間を選んだんだよねぇ? でも見てよ、この惨状」
ルリルは皮肉っぽく笑った。
「親のせいにして逃げ出した結果、選んだのがウチらみたいな『底辺』じゃん。……自分で選んだ仲間とも成功できてないのに、親のせいにするのは、ちょっと虫が良すぎるんじゃないかなぁ?」
ダム子は言葉を失った。
図星だった。
親から逃げ、環境を変え、自分で選んだ道。その結果がこれだ。
自分の選択こそが、失敗の連続だったのだ。
「……そっか。……やっぱり、アタシ自身がハズレだったんだな」
ダム子は力なく笑った。
「でもぉ」
ルリルは言葉を続けた。
「どっちが悪で、どっちが正義なんてないよぉ。ウチらだって、ダム子ちゃんを選んで一緒にいるんだしぃ。……類は友を呼ぶ、って言うでしょ? ウチら全員、ハズレくじの集まりなんだよぉ」
「……慰めになってねぇよ」
「事実だもん」
リッツォが、ゴミ箱に入れようとしていたメダルを、ダム子に放り投げた。
「ほら、返しとくよ。……ゴミじゃないんでしょ?」
ダム子は慌てて受け取った。
「……ああ」
「そのメダル、色んな種類があるねぇ」リッツォが指摘する。
「……これは、初めて優勝した時の金メダル。こっちは、足挫いたけど完走した時の銅メダル。……これは、母さんが徹夜でユニフォーム作ってくれた時の……」
ダム子は一枚一枚、指でなぞった。
「……覚えてる。全部、覚えてるんだ」
輝きを失ったメダル。
けれど、そこには確かに、愛された記憶と、懸命に生きていた時間の重みがあった。
夕暮れ時の魔導列車駅。
蒸気と煤煙の匂いが立ち込めるホームに、発車のベルが鳴り響いていた。
マム子は、古びたトランクを足元に置き、寂しげにベンチに座っていた。
(……言い過ぎたかねぇ。でも、あの子もあんなに怒らなくても……)
「おい」
聞き慣れた、ぶっきらぼうな声がした。
マム子が顔を上げると、息を切らせたダム子が立っていた。
「……ダム子」
ダム子は目を合わせようとせず、そっぽを向きながら、ポケットから何かを取り出した。
缶コーヒーだ。まだ温かい。
それをマム子に押し付けた。
「……これ。やるよ」
「……ありがとう」
気まずい沈黙。
列車がホームに滑り込んでくる。プシュウウウ、と蒸気が吹き出す音。
「……あのさ」
ダム子が、列車の音に負けないように声を張り上げた。
「謝らねぇからな!」
「え?」
「アタシは悪くねぇ。あんたの期待は重かった。それは事実だ」
ダム子は拳を握りしめた。
「……でも、この街で、もう少し粘ってみるわ。ゴミみたいな仲間と、ゴミみたいな部屋で、泥水すすってでも……アタシが『ハズレ』じゃないってこと、証明してやる」
それは、感謝の言葉でも、謝罪の言葉でもなかった。
けれど、マム子にはそれで十分だった。
娘の目から、腐った魚のような色が消え、昔のような——スタートラインに立った時の——野生の光が少しだけ戻っていたからだ。
「……そうかい」
マム子は、しわくちゃな顔で笑った。
「期待しないで待ってるよ。……たまには、顔見せに帰んな」
マム子は列車に乗り込んだ。
窓越しに、小さく手を振る。
ダム子は手を振り返さなかったが、列車が見えなくなるまで、その場から動かなかった。
ポケットの中で、錆びついた金メダルを強く握りしめながら。
「……見てろよ、クソババア」
空を見上げると、一番星が光っていた。
それは、かつての栄光のように遠く、けれど確かにそこにあった。
ハートフルコメディを目指しています。
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