最初の記憶は、視界いっぱいの老人の顔面だ。その直後に、その顔が私を覗き込んでいることがわかり、私は固いベッドに横たわっていることがわかった。老人は私が目を覚ましたことに気づくと、目を細めて視界から去った。
私の脳はとてもすっきりしていた。産まれたての赤子のように。体を起こすとものがたくさん放り置かれている部屋であることがわかった。老人は少し離れたところでやかんから湯呑みに何か注いでいた。
「飲みなさい」
老人に手渡された湯呑みは暖かく、冷えた手にじんわりとしみた。それで体が冷えていることにも気づくことができた。一口分流れ込んできたものは香ばしい香りをあたりに広がらせた。
「名前は?」
老人が二言目を発した。もちろん答えることができる。誰だって自分の名前くらいはあるだろう。それが普通だ。ということは、私は普通じゃないらしい。
私の名前がわからない。
私は誰だろう。生まれたばかり、記憶のない赤子。その赤子と違うところは、生きるのに必要な人間としての知識と健康な完成された肉体を持っているところだろう。
そもそも、私は、私なのか。僕、俺、我、拙者、ウチ、アタイ考えればたくさんある。どれのようでもあるし、どれでもないようでもある。
「わからないか?」
私が答えられないでいると、老人は濁った目で私の顔をまじまじと見た。私は頷いた。声を出すとさらに混乱しそうだった。
「目覚める前、何か覚えていることは?」
私は首をふった。
「そうか」
老人はまた目を細めた。
「僕と同じだな」
老人はどこか悲しそうだった。私は老人がなぜ悲しそうな顔をするのかわからなかった。
「言葉はわかるな?体の動かし方とか、生き方は覚えている?」
私は頷いた。
「話せるか?」
私は頷けなかった。話せるだろうが、声帯を震わせるのが怖かった。
「話したくない?」
私は頷いた。
「そうか、そうか。うん。大丈夫だ」
老人は手に持っていたやかんを傾け、液体を私の湯呑みに並々と注いだ。また別の湯呑みにも半分くらい注ぎ、やかんを置くと、湯呑みを持ってベッドに座った。老人の尻の一部が私の足を踏んでいたが、それを言うことはできなかった。
「話したくなかったら話さなくていい。僕が話すからね」
老人はまた目を細めた。今度はきっと笑っているのだろうと思った。
「何から話すべきだろうか?…そうだな、この部屋にあるものの話だな」
改めて老人の背景にある部屋に目を通す。雨だけは防げそうなぼろぼろの部屋。部屋というよりは小屋だった。左の壁にある扉のようなものが開いた隙間から風が入り込み地面の埃を揺らしている。
その床には重そうな岩が置かれている。岩には不思議な模様のピンク色の布がかかっていて、風に煽られて今にも飛んで行こうとしている。空中にも大きな埃かと思ったら埃ではない何かが舞っている。白いものも、黒くて目があるものもいる。壁にはもちろん錆びた刃物と金属製の何か。あとは謎の棒と機械。風の届かないはずの所の皿が音を立てて揺れている。それらのどれも、なぜ大切そうに置かれているのかわからなかった。
「…この小屋…僕の家だが…、は、山の中に建っている。だが、この山はおかしいんだ。多くのものが…流れ着く」
老人は言葉をゆっくりと選んで話し始めた。流れ着く、という言葉に疑問を感じたが、何も聞かなかった。
「だから君は多分、流れ着いた“もの”のひとつだ。…で、僕はこの小屋に住んで、山に落ちていたものをここに集めている」
老人は立ち上がった。踏まれていた脚に血が巡る。
「見せてあげよう。もっとも、もう見えているから、紹介してあげようかな」