DQ外伝─錬金術師と巫女の予言   作:Sephi&ロト

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第三幕、二節

アタシにはとっておきの、宮殿へ続く近道がある。

 

障害物はおろか常に人気も少ないため、

道幅が狭く目立たない王国の路地は門限を守るのに最適なのだ。

 

(にしても軽いなあ、この子)

 

音を忍ばせて歩く度に、ふわりと横に抱えられた花束の如く揺れる銀髪。

ほんの幽かに白いほっぺたの温もりと、ひとすじの鼻血。

 

ボルダくん風に言わせれば、これまたアタシのジジくさい観察である。

 

 

しかし、体重の軽さだけは正直ちょっぴり気に食わない

───なんて一人で、どうしようもない嫉妬に沈みかけたとき。

 

「あいたっ!?」

 

虫かなにかに足を噛まれたような、ほんの小さな痛み。

 

直後、前のめりに体勢を崩し倒れる小さな人影を見て、

それが右足の小指を踏んづけられたがためのものだと知る。

 

「…………しまったのです。ご迷惑を、ごめんなさい」

 

生気を持たない蚊の鳴くような声の主は、

ぶかぶかそうな亜麻色の外套とともに地べたに伏せている。

 

「だ、大丈夫?アタシこそ余所見しててごめんね、

だいぶ派手に転んでたけど…………」

 

散らばっていた果物達をカゴに詰め直したあと、

華奢と呼ぶには細すぎるその手は砂粒をはたいて落とし始めた。

 

「いいえ。むしろ、おねえさんが大丈夫そうじゃないのです」

 

 

それはまるで、道に落としたハンカチを渡す、善良な通行人かのような声色で。

 

振り向く頭巾の隙間から覗くつぶらな白銀色で、

瞬きもなく見つめるその子の小さな手に握られていたものは。

 

「え」

 

裁縫用にはまるで不向きな、長くて細い針だった。

 

「『わたしの』声が聞こえているでしたら、答えてほしいのです」

 

アタシに狙いを定める針は言葉以上に意味を突きつけ、

大きく轟く警鐘が全身を強ばらせている。

 

「あなたの業は、そのおにいさんの誘拐ですか?」

 

───平和はいつであろうと、無慈悲に終わりを告げるものだと。

 

「それともなにか別のものとか、食い逃げだったりするのでしょうか」

 

 

にしてもあまりに突然で、かつ要領を得ない質問で。

 

アタシは一体どんな表情を返せばいいかも分からずに、

生まれた時間の空白だけが静かに路地を満たしていた。

 

 

「人違いならよかったなのです。わたしの目では、

おねえさんは見るからにアヤシイでしたので───それと」

 

「なに、なになに?!」

 

静寂を破り、てくてくと接近して来たかと思えば、

全力で「ノー」を示すアタシの両手に小袋のようなものが乗っかる。

 

何かお菓子でもくれたのか、と刹那の期待はもちろんハズレである。

 

「これ、って…………!いつの間に」

 

 

ボルダくんの携帯していた小さな銀貨袋。

中身が抜かれた形跡はないものの、盗難に一切気付けなかった。

 

それによく見ると裏面に、

ミミズの這ったかのようなメモがちらりと添付されている。

 

(おみやげ、貝?……具?)

 

解読こそ諦めたものの、多分何かしらお土産の催促が綴られている。

 

「義賊というのは、盗んだものを良い子に返す盗賊なのです。

むやみに人を疑うばかりでは───ママに、叱られてしまうですから」

 

「えっと?ありが…………あっ」

 

 

ぺこりと一度のお辞儀だけして頭巾を被り直し、

返事も待たずにアタシの横を小走りで去ってしまったその子。

 

びっくりした、あんな子この国に居たかな。

 

手元に乗せられた銀貨袋を、再び見つめてみる。

元々スられた財布を返してもらっただけだというのに、感謝してしまうところだった。

 

上手に言い表せないけれど、何か不思議な感性を放つ子だった気がする。

 

無機質でへんてこに聞こえる喋り方も何だか、

単に不気味と言うよりは、幼気なようで礼儀正しく振舞おうとしているような。

 

(あれ、義賊ってどこかで……?まあいっか)

 

 

おかしな余韻と寄り道で迷子になった思考を連れ戻して、

引き止められていた足を再び前に出す。

 

アタシは何より、ボルダくんの介抱を急ぐ必要がある。

 

なぜなら、いくら調査に精を出してくれているとはいえ、

彼にはここらで一度帰らなければならない故郷もあるのだ。

 

そのときのためにも早く、きっと一番目立つであろう鼻血を拭いてあげないと。

 

 

♢ ♢

 

 

「ウフフフ♪そうなの白薔薇ちゃん、可笑しいでしょう?」

 

「珍しいな、酔っておるのか」

 

久方ぶりの昼呑みとはいえ、これで何巡目であろうか。

 

他の二人を見送ったきりブレーキが掛からず、

マスターの頬が葡萄酒の赤みにじわじわと染められ始めている。

 

「あの子ったらね、揶揄い甲斐が有るのよねえ……フフフ♪

この前なんかは『キスは赤ちゃん出来るからダメ!』とか言い出して」

 

───我が王、アドリー様に何を教えておられたのか。

 

介抱に駆り出され不在の隙に弄られ放題で気の毒だが、

御可愛らしい暴露話を聞かされていると、正直酒が進む。

 

 

「アタシちゃんねえ、ウチの料理気に入ってくれたんですって。

フフフ♪この調子なら味見担当がいなくても安心かしら」

 

「…………マスター」

 

ミートパイを一口つまむ。

たしかに我ながら会心の出来栄え、ではあるのだが。

 

「味覚、まだ治らんのか?」

 

ぱちりと瞬く琥珀の両目は、空いたグラスと反対に首を傾げて微笑む。

 

「そういえば言われたわね───『味付けが丁寧すぎる』だなんて。

アタシちゃんにはバラしちゃ駄目よ?心配されたら困るもの」

 

 

ゆったりとしたウインクで私を口止めする彼女。

 

(…………二人か?)

 

そんな景色の背景で、扉のベルが乱雑に鳴る。

 

「おう姉ちゃん達、邪魔すんぜえ」

 

「ケケケ!確かに良さげな女だなあアニキ、ローゼつったか」

 

私が振り向くまでも無く下賎な笑みをダダ漏らし、

穏やかでは無い殺気の視線がカウンターに向けられていた。

 

「はぁい!二名様かしら、いらっしゃい……わお」

 

 

そしてもう一つ、視界を含め五感が捉えた小さな気配。

 

「テメーだろ?この薄汚えガキのママはよ」

 

「おでらにいきなりガン付けて、デケェ針向けて来やがってよお!

アニキも傷ついたよなあ?なーんも悪いことしてねえのになあ」

 

「それなりに店も儲けてんだろ。有り金全部持ってこい」

 

小柄を包む外套の手に持たれた籠の果物が、

男二人に肩を掴まれてカタカタと震えている。

 

「どーも、闘技場では世話んなったなァ?『砂漠の白薔薇』さんよ」

 

「馴れ馴れしい口を訊くな。誰だ貴様」

 

「とぼけてんじゃねえ…………まさか忘れたとは言わさねえぞ?

まぐれ勝ちの糞アマが、俺様に恥ィ掻かせやがって……ッ!!」

 

(…………本当に誰だ?こいつ)

 

何かしら煽り返してやろうにも、

そもそも記憶に無い奴をどう相手取ってやれば良いものか。

 

「あらそう、可哀想に───あん♪怖いわねえ、がっつかないの」

 

「フカシてんのかゴラ、あ?『慰謝料払え』っつってんだよ」

 

威嚇的な強盗共から胸ぐらを捕まえられても尚、

蕩けた両目を逸らすことなく、マスターはなだめるように言った。

 

さながら花蜜に群がる虫を、誘惑するかのような声で。

 

「そんなに焦らなくたっていいのよ。

もっと近くで観察させて?二人ともゆっくり見定めてあげるから」

 

「ヒヒヒッ!昼間から女二人呑気に酔っ払いやがって、

『試食』でもさせてくれんのか?身体で払うなら大歓迎……」

 

 

そろそろ聞くに堪えず、男の喉笛を搔き斬ってやろうかとも思った。

この間だけで数十回はその隙があったが。

 

真に手を貸してやるべきは、少なくとも少女の方ではない。

 

───されど罪人に、救いの手など差し伸べられはしないのだ。

 

「「!」」

 

「刺す前に、言って差し上げましたのに。『二度目は助からない』って」

 

少女の声を最後まで聴き取ることも叶わずに、

見せ掛けだけは大柄の強盗共は、たわいも無く床に倒れ込んだ。

 

 

「いつにも増して躊躇が無いな。殺しに慣れてしまったか」

 

「最初からそのつもりでしたら、ハートを狙って突き刺すです。

忠告を無視しなければ…………本当に可哀想ですが、自業自得なのでしょう」

 

血の一滴も流さなければ虫の息すらも出さぬ強盗共の間をすり抜け、

少女は長い針を懐に仕舞いながら歩み寄る。

 

「全くもう、楽しいお喋りは後になさい?先にきちんとご挨拶よ、レーニエ」

 

「ええ───ただいまなのです、ローゼママ」

 

長いくせっ毛は白金。両の瞳は白銀。

風で取れかかった亜麻色の目深な頭巾を捲り上げ、「少女」はぺこりとお辞儀をくれた。

 

この暑い砂漠の空に雪を降らせたかのような、無垢な「少女」がそこに居た。

 

「ご無沙汰しておりますです、『白薔薇』のおねえさん。

買い出しだけのつもりが少しばかり、道草を食べてしまいましたのです」

 

 

丁度先程、マスターが声を躍らせていた味見の話は、

一人娘の栄養不足を気遣う毎日の食事についての件である。

 

「外套がブカブカではないか?また痩せたのか、レーニエ殿」

 

「便利でしょう?これならわたし、どんなお洋服でも着こなせるのです

───それと、いつも白薔薇さんは心配性がすぎますです」

 

くすくすと、少女は嬉しそうに首を振る。

 

少しハネ気味に揺れる髪の隙間から、エプロン姿の私を映しながら。

 

「産まれただけで、甘えるだけでは生きていられませんのです。

わたしだって立派な大人なのですよ?もう十歳にもなるのですから」

 

 

長いまつ毛を白く咲かせ、レーニエ殿の見開く瞳。

 

───同じく幼き日の私にも母親が居たならば、

こんな妹が欲しいなどと強請っていたただろうか。

 

「そうかそうか!ははははっ、私も負けては居れんなあ」

 

「で、ですから、白薔薇さん…………!くすぐったいなのです」

 

 

男子女子問わず戦える者はみな戦い、家と子供を守る者は守れば良い。

 

無論、私自身を左右したのは紛れも無く前者である。

 

「敢えて身体を細くするのは装備の幅を増やす為、か。

理屈は分かるが生憎、フリフリとした華やかな洋服には頓着が無くてな」

 

「相変わらず戦闘民族ねえ。白薔薇ちゃんも似合ってるわよ?そのエプロン」

 

「しかしなるほど、要はアレだ!敵の目を欺く為の『身体作り』という訳か」

 

 

生まれが女であるだけであり「女子らしさ」なるものも、

それを示す戸籍もなければ血で繋がれた家族も無い。

 

私も馬鹿ではないため、一切合切それに理解が及ばぬ訳では無いのだが。

 

「ええ、尤も外行きは外套がほとんどなのですが…………

概ねそんなところです。何より家の中だけでもママに喜んでもらえるので」

 

「そうねえレーニエ、ムダ毛が増えてきたんじゃない?

折角だし白薔薇ちゃんに整えて貰いなさいな、お目目に刺さると良くないわ」

 

「任せろ……と言いたいところだが、どうしたものか」

 

女子らしき丸みというべきか、何かこう繊細さというか、

柔らかさのある髪型に整えてやるのは難しいのである。

 

「し、白薔薇ちゃん、何考えてるのか知らないけれど

───まさか切ることだと思ってないわよね?整えるって」

 

「む?」

 

 

何か不安気な面持ちで、マスターはいそいそと化粧棚から小瓶を取り出す。

 

「折角伸びてくれたのに切るだなんて、全くもう!

コレで整えてあげるのよ、髪は女の命より大事に扱わなきゃでしょう?」

 

「蜜蝋?ああ、なるほど」

 

尤も私としては、整髪料ほど使い勝手に疎い道具もないのだが。

 

「ママ?それくらいでしたらわたし、一人で、…………」

 

 

レーニエ殿の声は、そう言いかけてすぐ尻すぼみに消えてしまった。

 

(…………?)

 

怯えるようなその視線の先にあったのは、

いつもと変わらぬ柔らかなマスターの笑顔だけであったが。

 

「駄目よ?レーニエは手先の力加減が下手だもの。

この間だって、ほんの目を離した隙に髪が抜けてしまったじゃない」

 

───何時からか酔いを覚ましたかのような、抑揚のない響きだった。

 

「ご、ごめ、なさ……ママ……」

 

 

「今日の買い出しにしても……随分遅かったのね。

誰かに会ってきたのかしら?酷いことされなかったかしら?」

 

それがマスターや本人の趣味、

もとい一家の教育方針であるならばと、私は未だに尋ねていない。

 

「ごめんなさいっ、ごめんなさい!!ママに心配を…………

安心してくださいなのです、本当にただの寄り道で……!」

 

「いいのよ?だから謝らないで頂戴、ママは母親失格だわ」

 

 

───どうしてわざわざ男子に、女子の服を着せているのか。

 

「『かわいい娘』が無事に帰って来てくれて、ママはそれだけで幸せだもの」

 

 

♢ ♢

 

♢ 炎の宮殿:沐浴場

目の前を支配するものは、色も光も消え失せた真っ黒な景色。

 

暗闇は果てしなく広がっているというのに、

羽をもがれた鳥かのように身動きの自由が効かなかった。

 

 

歩こうとしても、唯一動くこの足は逆さになって宙を舞い、空を切るだけ。

 

───呼吸は出来るけれど、空気は薄くて重い。

 

息を吸い込み助けを呼ぼうとした。

「ここから出して」と、暗闇に向かいなおも懸命に吐き出した。

 

「……!……!!」

 

───しかし、誰も来なかった。

 

どれだけ肺を痛めてみても、その声は甲斐なくアタシの耳に木霊するばかりで。

 

それでも闇に飲み干されまいとかすかな勇気の光を見出し、

いかに惨めで情けなくても、アタシは声を振り絞る。

 

 

「たすけてえ!!」

 

「…………何やってんだお前」

 

 

壺を隔てて、向こう側から長い溜息が聞こえてくる。

 

「ボルダくん!?あ、あ、あんまり見な……じゃない、

見てないで助けて!つっかえちゃったの、タオル拾おうとしただけなのに」

 

「にしてもこうはならんだろ!!くっ、重…………」

 

じたばたと救助を求める足を彼の両手に捕まえられ、

ようやくすぽんと引っこ抜かれるアタシの身体。

 

「「あ───」」

 

逆さまになった目と目を合わせ、それは湯気の中へと墜ちてゆき。

 

「あばぶ!!?」

 

 

浅い湯船に大の字になり浮きも沈みもしないまま、白い天井を眺めていた。

青く清らかな、睡蓮の花の香りに囲まれながら。

 

「こんな気持ち…………かな?アヒルのママさんって」

 

 

…………

 

 

アタシとともに、壺の底からタオルは無事に救出された。

 

「大丈夫大丈夫っ、恥ずかしくないよ!落ち込まないで」

 

「誰のせいだと!?あんなの、……はあ……弱点だらけじゃないか、僕」

 

両足だけ二人でお湯に浸からせながら、

心なしか量が増えてしまったようなボルダくんの鼻血を拭き取る。

 

「お前にキレても仕方ないか、元はと言えばローゼさんの」

 

「あああ───思い出させないで、アタシが全部悪かったから!」

 

 

お酒(ホンモノ)を優雅にたしなみ、

きっと今頃は大人な時間を過ごしているであろう二人。

 

一旦、おっぱいのことは忘れよう。

遠足のお弁当並に摘めるくらいを分けてもらったミートパイが、アタシにはある。

 

それに相応しく、丁度よさげな行き先がアタシ達にはあるのだ。

 

「『風の集落』ってところだよね?ボルダくん」

 

彼が幼き頃に身を寄せ、いまでは故郷と呼ぶ場所。

 

「ああ、エルフ達みなで仮にそう呼んでいる。

着いて来させるようで悪いが、王国の結界維持のためにもお前を借りるぞ」

 

「いーのいーの!二人にも用事は伝えてあるから。

それに正直、楽しみなんだよ?ボルダくんの故郷なんだし」

 

彼を慕ってくれているという小さな子達の姿も、

背中に羽根を生やしたエルフや緑生い茂る森の景色も。

 

お父様の古い友達であったという彼の父親が、

妻子に未来を託すべく知識を遺した図書館も。

 

王国の外で知らない事ばかりの世界が、そこにあるから。

 

「ふふん、それでなに渡してあげるの?仲良しの双子ちゃんにはさ」

 

「…………は!?なっ、何でお前があいつらの誕生日」

「た、たたた誕生日なの!?『お土産』って書かれてたような」

 

 

それに誰かに言われた通り、もしかしたら───

 

(このくらいなら許してくれる…………よね?お父様)

 

知りたいのはそんな世界の姿なんかより、

世界の見方を知らせてくれる、キミのことかもしれないから。

 

 

…………

 

 

「ふわああ……ぁ」

 

誘う眠気を追い出すように、アタシは孤独に伸びをした。

 

図らずも今日一度目の入浴を終え、

満たされた小腹も相まって、このまま眠ってしまいたくもなる。

 

 

壁伝いに腰を下ろした沐浴場の扉の隣、

腰掛けカバンと立てかけられた杖と弓。

 

「目覚めたばかりのはずなのに疲れた」らしく、

足湯ついでに湯浴み中のボルダくんの荷物である。

 

そしてそのカバンの中に、

紐もほどかず詰められたお昼代のポーチが見えた。

 

アタシがどこかに置き忘れぬよう、

ボルダくんの鞄に預けていたのだ。

 

(そういえば使わずじまいだったな、結局…………あ!!)

 

置き荷を漁るようでなんとなく気が引けるけれど、確認しておかなければ。

 

先程路地で出会った、亜麻色頭巾の小さな子ども。

 

ボルダくんの銀貨袋は無事だったものの、

こちらの中身を抜かれていたらお父様に合わせる顔がない。

 

(!よ、よかった、こっちも無事)

 

お父様から預かっていたポーチの中身は普段通り、

銅や銀色は一枚もなく、金一色で埋められている。

 

しかしアタシの目に留まるのは、山積みの金貨などではなく。

 

「いゃあああああ!?!」

 

出来れば、ニセモノだとしても二度と見たくなかった、

鮮やかな緑色にきらめく小さな『羽虫』の似姿だった。

 

 

「我を呼ぶのは、其方の声かッ!?」

 

───どこからともなく、枯れた声の響きにはっと振り向けば、

暗い闇夜の色をした衣の影が現れた。

 

「お父様?!と、ととと取って、取ってえ!!」

 

必死に目を逸らすアタシが指をさした方へ、

仮面を整えながら手を伸ばすお父様。

 

ようやくこの後、ボルダくんのお土産を見繕う時間が取れる。

 

彼が入浴で不在の今、頼みの綱はお父様しか居ない。

虫退治が済めば、この金貨はその買い物に使いたいのだ。

 

「なるほど……すまぬ、護符の見た目に驚いたのだな?

少々甘く見ておった。虫嫌いがそれほどまで、とは」

 

 

突然途切れた声と同時に、ぴたりとその動きが止まる。

 

「お父様?ま、まさか取れなかったり」

 

「否。取れぬと云うよりは『金貨に張り付き、離れぬ』のだ」

 

 

(あ…………駄目だ、終わった)

 

お父様でも取れないとなると、いよいよ金貨は使えない。

 

初めましてのご挨拶も兼ね、

ボルダくんの集落のため色々買い物したかったのに。

 

「酒で清めた手にも応じぬか。しかし案ずるでない、我が娘よ」

 

「!」

 

項垂れかけたアタシの目に、辛うじて希望が灯ったとき。

 

衣を染める紫黒はお父様の腕を血のように伝い、

青白く火を纏わせながら掌の元へ集ってゆく。

 

「───陽を覆え。『幽世夢死(ヨルノトバリ)』」

 

 

短い詠唱の直後、その手で包まれたケプリは、

いとも容易く金貨の元から離れ動きを止める。

 

「ありがと、お父様!焦って金貨ごと燃やすとこだったよ」

 

「ケプリは太陽神の使いゆえ、闇夜で隠せば眠りにつく。

其方等が出掛ける間は、仮面の中で休ませておくとしようか」

 

買い物のことは話していないはずだけど、

お父様は虫の取れた金貨のポーチを黙って渡してくれた。

 

ほんと、アタシのことなら何でもお見通しなんだろうな。

 

「そのつもりだけど、ワルモノ探しはもういいの?」

 

「今日は近衛団の連中に任せるがよい。

其方等が戻る頃には、既に陽も落ちておるであろうしな」

 

「なんだかんだ結構、信頼してるんだね。ギーメルちゃん達のこと」

 

 

お父様の沈黙を、アタシは肯定と受け取る。

 

「ね、出かける前に一つだけ聞きたくて…………

ボルダくんとギーメルちゃん、仲良く出来ると思う?」

 

しかし、アタシの問いが可笑しかったのか、

無言を解いたお父様は途端に薄く笑い始めた。

 

「異な事を。我や其方、子守りを任せたノラ以外で、

彼奴が『あれほど心を開いておる』のは滅多に見られんぞ」

 

「───えっ」

 

 

仮面で見えない口元は、言葉以上の意味を語ってはくれない。

 

ただ一つだけ、その口から出た言葉の真意は、

「喧嘩するほど仲が」とかそういう意味では無さそうだった。

 

「ならば我から問うが、良いのか?

其方からも彼奴を知ろうとせねば、ボルダに先を越されてしまうぞ」

 

「う、うるさい!さっきだって、秘密の女子会したんだもん」

 

 

まあでも、未だに彼女から呼び捨てにして貰えなかったり、

憎まれ口を叩き合うほどの無遠慮さがないのは図星だけど。

 

「言う割には効いておるようだがな…………

丁度良い、少し問題を出してやる。彼奴の欲しいものについてだ」

 

彼女が、一番欲しいもの?

 

「はい、はいはい、ギーメルちゃんは簡単だよ!

とにかく勝負に勝つことと、お父様に褒めてもらうことでしょ?」

 

「最後まで聞け。そのためには、まず何が必要だ?」

 

まずい、ため息混じりにヒントまで出されてしまった。

アタシはまだまだ、彼女を何も知らないらしい。

 

「えーっと…………あ!もしかして、剣とか」

 

「左様。あの小娘はいつぞやの褒美に『折れぬ剣』、

更には『手元を離れぬ剣』が欲しい、と申しておった」

 

「折れない、手元を離れない、剣?」

 

 

剣と聞いて、彼女の戦う姿をはっと思い出す。

 

風のように身軽でいて、繰り出す一太刀は重く、

思えば、彼女の振るう馬力に耐えられる剣も凄いのだ。

 

「ていうか、折れないって…………

もしかしてあの剣って、何回か壊れてるの?」

 

「今持たせておる玉鋼製の剣で、十六代目になる。

一年に五回折った末には『ソードブレイカー』と呼ばれたそうだ」

 

不名誉なあだ名だが、彼女は雰囲気だけで喜びそうだ。

 

「単に手入れや、物持ちが悪いわけではない。

彼奴の戦い方の趣向に、武器が合っておらんのだ」

 

「なんだか可哀想だよ……あげなかったの?そういう武器」

 

「───その時ではない、と思ってな。

彼奴にあのとき与えたものは、彼奴自身が目覚めさせるべきだ」

 

お父様の言葉はいつも通りに難しくて、

少なくとも今のアタシでは理解できなさそうだった。

 

「ありがとね、お父様」

 

けれど、気持ちを感じ取れただけでも今は嬉しい。

 

気難しそうに振舞っていても、お父様はいつも家族想いで、

アタシのお友達作りを後押ししてくれるのだから。

 

 

「すまん、僕の鞄取ってくれないか?」

 

なんて思っていると、後ろの壁からこんこんと小さくノックの音が鳴る。

声に振り向けば、銀髪に風を当てながら彼が顔を出していた。

 

「ボルダくん!お湯加減どうだった?」

 

「ん、邪魔したかなと思ったんだが……誰かと話してなかったか?」

 

「ちょっとだけお父様と、…………あれ??」

 

不思議そうな彼に合わせて視線を元に戻してみると、

数秒前まで在った姿は、影も形も無くなっていた。

 

「瞬間移動でも使えるのか、エルバ=メヘトは」

 

「あはは!どーだろ、確かに神出鬼没かも。

昨日もだけど、いつも後ろから出て来るから分かんないや」

 

 

変なところで恥ずかしがり屋なお父様ではあるけれど、

きっと「若い者」の時間に気を配ったつもりなのだろう。

 

「…………どういう顔だよ。ずいぶん不満げじゃないか」

 

「んーんー、別に?大人ぶるのはいーけどさ。

行ってきますくらい言わせてくれてもいいのになあ、って」

 

鞄を持ってあげながら、ぐいと彼の手を引っぱる。

 

「お、おい待てっ、まだ乾かしてる途中なんだが」

 

「いーから!お土産買いに行くよっ」

 

砂漠を見守る神様は、恐らくアタシを試している。

いまから選ぶプレゼントも単なるお使いなどではない。

 

新しい場所でも、もっと友達を作ってみせる───

 

大人に揶揄われてばかりで、今日のアタシは燃えていた。

 

 

♢ ♢

 

♢ 砂の王国:隊商地区

雲ひとつない晴天の続く砂漠の昼間というものは、

正午を過ぎてしばらく経ったあたりが一番暑いという。

 

精霊の森の涼しさが、いよいよ恋しくなってきた。

 

(遅い…………まさかあいつ、国中回ってるんじゃないだろうな)

 

アドリーは、王国の人々への挨拶回りで忙しいらしい。

 

目ぼしいものは一通り会計を済ませたことだし、

あいつを待つ間に少し中身を見てみることにする。

 

 

金貨袋の膨らみが半分ほどに減った代わりに、

時間をかけた甲斐もあり、土産のラインナップは充実させられた。

 

ビードロ模様のティーセットや睡蓮の花の香水、

赤青二色のブローチ、このあたりは間違いないだろう。

 

問題はアドリーの選んだ品々だが。

 

(どれどれ、玉ねぎ型のピアスに…………なんだこれ?てるてる坊主か?)

 

道具鞄の底から、眉毛のついた白い布のお化けがこちらを見つめている。

 

他はといえば「ステテコ」の文字が編まれたおむつ、

毒々しいピンクのハート眼鏡、鳴き声付きのブリキの鳥。

 

しまいには、赤黄緑の三色揃った前衛芸術的なお面

───これに関しては明らかに呪われてそうだが。

 

『見てみて!「三色セットでお得」だって!よろず屋さん様様だね!』

 

『わ……わかったから、その幼気な目で見るのやめろ!』

 

どのみち、僕が難色を示そうものなら露骨に萎れ始めるせいで、

結局お土産のほとんどがアドリーの要望で埋め尽くされている。

 

「…………はあ」

 

とはいえ、あいつの感性はリリとメロと近しいものを感じるし、

正直僕だけで選ぶよりは自由なものが買えた気もする。

 

「ボルダくーんっ」

 

聞き慣れてきた呑気な声と、ぱたぱたと砂を走る音。

 

「遅いぞ!全くお前、どこで油売って」

 

 

悪態を着きながら振り向くとそこには、

金の角と牙をギラつかせた鬼の哭き顔が待ち構えていた。

 

「うおおッああああ!?!」

 

「ぷ、あっははははっ!よかったわ、大成功ね」

 

体を支える冠杖は転ばぬ先には立ってくれず、腰から尻もちをつく。

 

「くそ、こういうの一番苦手なんだよ!

散々人のこと待たせといて脅かしやがって」

 

「悪いわね僕ちゃん、待ち合わせ中だったかしら?

にしても、ほんとに目が悪いみたいね。試しにちょっぴり真似してみたの」

 

「は?何言って…………」

 

 

よく目を凝らして見てみれば、

悪趣味なお面の髪色はアドリーのような黒ではなく。

 

「!ローゼさん、なのか?」

 

「まあ!お姉さん嬉しいわ、ちゃんと覚えててくれたのね」

 

鬼の顔を外し、にこりと柔らかく咲く笑顔。

砂を払いながら何とか立ち上がった僕の腕を、ローゼさんは突然に掴む。

 

「え?ちょ、ちょっと待ってくれ!これだとアドリーが迷子に」

 

僕の心配する声に返事がかえって来ることはなく、

非力な僕は葡萄酒色の彼女に連れられ路地裏へ進む。

 

この国というのは、強引なタイプの人間しか居ないのだろうか。

 

「実はウチの娘が、アタシちゃんに会いたいらしくて。

もうじき出掛けるんでしょう?その前に探しに来たのだけれど」

 

「ああ、なるほど…………僕じゃないのかよ!?脅かす必要無かったろ」

 

「うふふふっ、冗談冗談!僕ちゃんにも用があるのよ、

個人的にね……そうねえ、このあたりでいいかしら」

 

 

ガーランドが貼り骨董品やら服飾品の並ぶ、路地裏の景色。

 

「『時間は金なり(ブランディ=クラスタ)』」

 

───それら全てが褪せるような黄金色が、世界を染め上げた。

 

(…………!?)

 

 

世界中から音が消え、色が消え、風が止んだ。

 

空を見あげれば雲は動きを止めており、

元来た道を振り返ってみれば、市街地に歩く人々は直立不動の像と化している。

 

「なん、なんだよ、僕に……ッ、世界に何をした…………!?」

 

「三分半だけ、ウチの話を聞くために時間を貸して頂戴。

いまこの時を刻んでる間だけは、何を話しても、誰にも聞かれないわ」

 

 

目の前にいる人物が何者なのかは、分からなかった。

 

「『黄金の爪に魅入られし者』。聞き覚えがあるわよね?」

 

分かるのは、僕達の追っている王国の異変に深く関わる人物であること。

 

「酒場で話したウチの商人仲間、隊商地区を牛耳る奴隷商人

───『ドン=カベルネ』は黄金の爪を触媒に、とある研究を進めてる」

 

エルバ=メヘトの語る秘宝が、ギーメルの運命を左右した者の手にあること。

 

「魔物と人間をかけあわせて合成獣(キメラ)を創る研究よ。

正確に言えば、『厄災』とやらを作り出す人体実験と言うべきかしら」

 

その者の野望がいわゆる、人の歩む道を外れたものであること。

 

「残念だけど、単独で研究を止めることは出来ない。

産んだ子どもの両方を、実験のための人質に取られてるウチにはね」

 

 

目の前にいる人物が善か悪かは、どうでもよかった。

 

「ウチにはそれぞれ『魔物と人間の』双子がいるの。

人間の子は人質に、魔物に生まれた子は、闘技場の血で実験体にされてるわ」

 

考えるべきは、僕達は血というものの認識を問い直すべきであるということ。

 

「黄金の爪を手にしたボスの狙いは『火竜』の心臓。

船が王国に着いて間もなく、アタシちゃんへの殺害命令が出たわ」

 

アドリーの信じる人間という生き物が、

厄災そのもの以上に憎悪すべき悪になりうるということ。

 

「中和しないままお酒で割って内臓を溶かす劇薬も、

濃度を高めて料理に混ぜて、竜を殺せる毒も使った」

 

かつて僕が憎んだ人間という生き物が、

大切なもののために誰かの大切を奪えるものであるということ。

 

「けれど十年間、どれを試してもアタシちゃんには効かなかった」

 

アドリーという少女が、彼女自身も知らない強さを秘めているということ。

 

「指定された毒薬を使って失敗した、───事実を事実のまま、

ウチはボスに伝えるだけ。アタシちゃんが『酒で眠らせられる』ことは伝えてない」

 

 

知識の運命の旅人として歩むことを決めた僕は、

目の前にいる人物を、掛け値なしに憎悪するしかないのだと。

 

「あの子達を救うことが出来るなら誰にでも協力する。

アタシちゃんを『殺せないままで済む』のなら、それ以上の方法はないわ」

 

時間の止まった黄金色の世界の中で目に焼き付いたのは、

ローゼという名の人間が背負う業の色だけだった。

 

 

「…………教えろ。なぜ、アドリー達にではなくて、僕に話そうと決めたのか」

 

「一つ目───単純に僕ちゃんが、賢い子だと思ったから。

疑念も信頼も知っているなら、『秘密そのものを人質にして預ける』価値があるの」

 

第三者を介した秘密の保持、だろうか。立場的にも、確かに僕はうってつけだ。

 

「二つ目───ウチらはお互い、お金が大嫌いだから。

最低限、商談には信頼がなくちゃね。あくまで商人としての業務提携契約だもの」

 

成果を金で測る必要がないなら、負担の分担や利益も単純なもので済むだろう。

 

「三つ目───無条件に信頼されるのが、怖くて仕方ないから。

無償の隣人愛だなんて、タダの陶酔と変わらないもの」

 

「…………」

 

「クスッ、たとえ気に入らなくても、最終的には僕ちゃんが決めるのよ。

お互いの目的を叶えるためなら妥協も必要だと思うけれど、ね」

 

 

ローゼという名の人間の振る舞いに、ようやくある程度合点がいった。

 

冗談や嘘を混ぜた口調も、人を「名前で呼ばない」ことも、

彼女自身が疑念も無しに信頼されることを嫌うためであると。

 

「理由まで、理解する気は無いけど。納得出来ればそれでいい」

 

「助かるわ。そろそろこれで最後よ、僕ちゃん」

 

僕達、いや、僕と彼女が互いの目的をそれぞれに叶えられる目標。

 

それぞれの私情により救済すべきものを殺害しない方法で、

手段としての「殺害」を含め、双方に共通する障害を抹消すること。

 

「アドリーも、子どもも死なないように、研究とやらを止めればいい。そうだな?」

 

「───商談成立。『秘密』って便利な商売道具でしょ?

多く持たせておけば置くほど、信頼の押し売りができるものね」

 

 

黄金色に染め上げられていた世界が、元の色彩を取り戻し始める。

 

(迷惑な話だな。やっぱり、商人は嫌いだ)

 

世界中に音が戻り、色が戻り、風向きが蘇る。

 

空を見あげれば雲は流れ、元来た道を振り返ってみれば

───市街地に歩く人々は何事もなく歩く、ごく普遍的な日常の世界。

 

 

「ほら、アタシちゃんを迎えに行ってあげなさいな。

あ……契約外だけれど、出来れば娘と会わせてあげてくれない?」

 

「…………その前に、一つだけお前に忠告しておきたい」

 

アドリーは、信じたいものに正直であるがゆえに、

皆も互いに無条件に信じ合うことが出来るだけだ。

 

「『僕の友達を』殺す気だったお前には、一生、あいつの気持ちは分からない」

 

「まあ。ふふっ、随分嫌われちゃったわね」

 

 

♢ ♢

 

♢ 砂の王国:地下闘技場

天蓋に吊り下げられた紅い篝火に照らされてなお、

間合いの際から鋭く見据える白銀の目に輝きは無い。

 

「手加減はしてくれるなよ?レーニエ殿」

 

「ご安心を、殺すつもりでかかります。毒も仕込んでありますので」

 

近寄らぬまま、突きもせずしてこの身を刺し貫く殺気。

交わす言葉の合間に爆ぜる薪の音に、ばちりと熱が冷やされる。

 

 

解かれた羽毛のような長髪が、ふっと輪郭を崩した刹那。

 

「!」

 

読んで字の如く私の「目」の前に迫る針をかわすが、

重心を予測してか、第二、第三と空を割く音が耳元を掠める。

 

目潰しを初め頸動脈から喉元へ、執拗に急所を狙う針。

 

恐らくは刺されたのだという痛みを感じる暇も無く、

先がわずかでも皮膚を裂き、血に触れれば死に至る毒。

 

目測を一つ誤れば、即ち死を意味する。

 

「初手からいい速さだッ、レーニエ殿!!」

 

「ぐ…………余裕が、おありのようですね……ッ」

 

至近距離で響く声は着地の勢いを利用して独楽の如く回り、

脇腹の秘孔を重点的に狙ってくる。

 

あえて一歩踏み込んで連撃の懐へ潜り込み、

手を使わぬよう全身を柳としならせ空に流す。

 

左眼への刺突には首を傾け、膝の裏への一刺には跳躍。

 

「!!───」

 

着地を狙ったのは刺突ではなく、心臓部への投擲。

咄嗟に半身になり、胸元を掠める位置でやり過ごす。

 

「ふっ、そうきたか!殺気の居所を逆手に取ったな」

 

「今日こそは…………手を使わせてみせますッ、白薔薇さん」

 

 

距離を取られつつも、曇りなき白銀色の目は、

微塵の躊躇いもなく私だけに向けられている。

 

ぞわりと熱を帯びた風が、頬を撫でる。

 

本気で命を狙われるというのは何たる栄誉か。

 

 

「嬉しいなッ、これほど楽しい綱渡りはそう無いぞ!!」

 

レーニエ殿の背に回された手首、

ほんの僅かなその震えの直後に「彼女」は砂塵を蹴った。

 

砂煙にぼやけた真白な影は地面に留まらず、

右に左に柱を踏み、壁を駆けるようにして距離を詰め始める。

 

(上、後、斜角…………速いが、やはりな。読み易い)

 

意図的に視覚をくらませ、死角を縫うように放たれる高速の突き。

 

しかしながらその悪癖としては、

「急所を執拗に狙う」上、殺気があまりに正直すぎる。

 

心の中で呟いた、その時と時を示し合わせたかのように。

 

───不意にふっと、世界からその気配が消えた。

 

視界には残像すら残らず、

肌をチリつかせていた先程までの殺気が霧消した。

 

(しまっ、…………逆だ、『意識を向けさせられていた』のか!?)

 

予測する材料のない「無」の接近に、本能が警鐘を鳴らす。

 

空気が揺れるも、振り返る暇はない。

首筋の急所に冷たい針の感触が触れようとした、瞬間。

 

「く、っ!!」

 

私は咄嗟に、禁じていた手を解いてしまった。

 

「!!あう、…………っ」

 

反射的に放った裏拳が細い手首を弾き、踏み込んだ速度と、

レーニエ殿自身の突いた反動がぶつかり合う音がした。

 

同時に華奢なその身体は木の葉のように宙を舞い、

どさりと音を立てて壁の際へと飛ばされた。

 

地面に突っ伏し動かず、かすかに痙攣する真っ白な身体。

 

「れ、レーニエ殿!?すまない、つい手が」

 

駆け寄っても返事がなく、冷や汗が指先に伝わる。

 

 

手を差し出そうとした瞬間、髪の隙間から光が見えた。

 

それは、ひどく出来のいい擬態。

 

白い影は地面を這うような低空の姿勢から、

私の胸元へ飛び込み、逆手に持った毒針を突き出してきた。

 

「ッ、…………!!」

 

間一髪の反射が働いたおかげで、重心を落とし切りかわした。

頭上に空を切った針の追撃に意識を絞る。

 

体勢を立て直さねば、立ち上が───

 

 

はらりと目の前を覆う白い景色、布越しに「ごつん」と響く鈍い音。

 

「…………あ……がぁ……っ!?」

 

その次に私の頭頂部から、

殺気の欠けらも無く、声にもならない悲鳴が聞こえる。

 

ここまでのどんな不意打ちよりも、私の血の気は引いていた。

 

「れ、レーニエ殿ッッ!!!」

 

 

カランと力無く砂に転がる針とともに崩れ落ちて、

うずくまり始めた彼───彼女に触れもできずに膝を着く。

 

「申し訳ない!!急所を狙い返したわけではなくて、えぇと……

意識を集中させすぎて……と、とにかくわざとではないのだ、決して!!」

 

我ながら見苦しく垂れる言い訳。近衛の威厳がどこにあろうか。

 

「ふ、……不覚、…………お気になさらず、たまたまですから」

 

 

…………

 

 

ようやく冷や汗の引いた顔に、うっすらと赤みが戻った頃。

 

レーニエ殿は転んだ砂を払いつつ、

おずおずとした足取りで私の正面に座り直す。

 

「反省なのです。これでもわたしなりに、実戦のつもりだったのですが。

殺意をごまかすことはできても、意識の揺らぎは消せなかった」

 

白銀の目と沈んだ声は、ただ静静と篝火の方を向いていた。

 

「結局今日も『殺せずじまい』、挙句、白薔薇さんに醜態を。

わたしには…………やはり才能がないのでしょうか」

 

 

あくまでもその論調は、自らの落ち度であるという風であったが。

 

「無論、私も負けることは嫌いだが、それそのものは恥ではないさ。

かつて私も───あのジジイには、嫌になるほど砂を噛まされた」

 

口が悪くて酒臭い、恩師の顔が目に浮かぶ。

 

「『腰が入っとらん』だの『剣は飾りか』だの、何度も吹き飛ばされたのだ。

あの頃の私に比べれば、レーニエ殿はよほど理知的で筋がいい」

 

「…………!白薔薇さんにも、そんな時代が」

「ああ、そうだ。黒星の数は……ちっ、途中から数えておらんな」

 

視線を逸らして吐き捨ててやると、レーニエ殿は不意に頬を緩ませる。

 

「ふふっ、都合のよろしい思い出なのです」

 

誠に遺憾ではあるが、ひとまず空気が和らいだ気はした。

 

「落ち込む必要もなかったようです。わたしが強くなるのは、

認められたいからではなくて───ママを、守るためなのですから」

 

「…………レーニエ殿」

 

互いにとっての唯一の帰る場所であり、

血で繋がれた替えの利かない居場所。

 

家族というものは、彼女達にとって何より守るべきものなのだろう。

 

「ママの敵が『世界から一人残らず消えるまで』、

この手が汚れたっていい。だからまずは、手を汚せる強さが必要なのです」

 

 

手段を選ばず、卑怯を厭わず急所を貫く戦い方は、

歪なまでの愛がゆえだと、改めて思い知らされる。

 

「───己にとっての勝利の形が見えている者は、やはり強いな」

 

先刻整えたばかりの白金色の長髪は、撫でるたびに柔らかくて。

 

「お、おやめなさってください……!子ども扱いは、イヤなのです」

 

「ははっ!いつでも止めてやるぞ?私に針を当てられたらな」

 

 

首をすくめるレーニエ殿の耳たぶが、

少しだけ赤くなっているのを私は見逃さなかった。

 

(そう言う私は…………見えて、いるのであろうかな)

 

燃える篝火を背に立って、レーニエ殿に微笑んでみせる。

 

「今度は、負けませんからね」

 

白く小さな手のひらを手放さぬよう、小指を結んで約束をした。

譲れぬものがある限り、終わることの無い戦争を。

 

「───ああ。楽しみだ」

 

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