♢ 砂の王国:居住区
ノラさんの店を後にし、明かりも減って深まり始めた夜を見上げる。
「今日はお星様がよく見えるね。ボルダくんが晴れにしてくれたおかげかな」
無論、天気を操るような魔力は僕には無いが。
「高い塀に囲まれているのに、この国は空が広いな。
アドリーは星が好きなのか?」
「ふふっ。アタシは砂漠でしか見た事ないんだけどね」
耳に届くのは変わらず呑気な声と、
静かな風の裏側でさくさくと砂を踏み締める二人分の音。
「でも、素敵だと思うんだ」
(…………?)
はたと止まった音の方、僕の振り返った先でアドリーは続けた。
「ぼんやり窓を覗いても、狩りに行くときも───
大好きなこの国で見たお星様は、いつでも空から見守ってくれるから」
暫し呆然とした目を見てか、はっと照れくさそうに黒髪を弄る彼女。
「ごめんごめん、つい夢中になっちゃって。
ギーメルさんのとこに行くんだったよね?」
僕もまたその様子に、在りし日の故郷を思いやる。
王との話を盗み聞いたあの時、何か思うところがあったのだろうか。
「ええと、ボルダくん……?」
「僕も分からなくはない。ゆっくり歩けばいいんじゃないか?」
「!───うんっ」
輝きを取り戻し緩んだ赤い瞳に応じ、再び北へと視線を直す。
(……ああは言ったが、あまり遅くなると王が心配するだろうな)
後方からぱたぱたと駆ける足音が僕の隣に追い付く。
巫女や精霊、神器や幻魔、聞いておきたい話は勿論山程あるのだが、
今はさっさと用事を済ませて彼女を宮殿に帰すのが吉だ。
「あ、見えてきた!あそこの建物」
指さす先に遠く目を凝らすが、街灯の他に殆ど明かりもなく、
目立つような建物の影も見当たらない。
「えー……すまん、どれだ?」
「四角い小屋があるでしょ。闘技場は階段を下りた先にあるの」
気付けば数歩先に立って僕を呼ぶアドリーが目印となり、
言葉通り特に看板や装飾もなくいかにも無骨といった風体の小屋へと辿り着く。
「ふふ、確かに場所は分かりにくいかもね。
お父様によれば今は昔と違って夜にしかやってないんだってさ」
昔というのは、アドリーも生まれていない二百年以上前の事だろうか。
(…………なるほど)
入ってみると一見無人の小屋だが、その隅にぽつんと見える階段の下から、
僅かに吹く風と人々の声が漏れて聞こえた。
「ギーメルさんも居るといいね。とりあえず下りて見よっか?」
「ああ、……酒場ほど騒がしい場所じゃないといいが」
♢ 砂の王国:地下闘技場
「案内が無ければ気づかなかったろうな……
そもそも闘技場というのをよく知らないが、どんな所なんだ?」
下るにつれてこつこつと足音の反響する先から、
熱気を帯びた人々の声と明るく広い空間の気配が近づいてくる。
「うーん?アタシも正直あんまり───
ノラおじ様達はカケゴトって言ってたかな」
直後、そんな僕達の疑問を一気に晴らしたのは。
「「!?」」
先程よりも一層血気を帯び轟いた音は、
幾重にも重なった歓声、或いは怒号のようにも思えた。
「な、何?アタシ達何かしちゃった!?」
どぎまぎと焦るアドリーの顔までは階段の暗さで見えなかったが、
それよりも騒ぎの方から差す明るさから目が離せない。
「違う、この先だ……急ぐぞ!!」
「えっ?ま、まってよ!なんでそんなに焦って」
走り出した自分にさえ正体は掴めなかったが、嫌な気配が過ぎったのだ。
戦ではない、憎悪でもない、それらに似て非なる何か───
「「うおおおお〜〜っ!!!」」
(な、…………何だ、これは……?)
階段を駆け下りた先で、再びその歓声が全方位から聴覚を支配したと同時。
真っ先に視界に飛び込んだのは、
天井から無数の鎖で吊るされた大きな篝火、ではなく。
「「はぁああッ!!」」
その炎の下に紅く輪郭を揺らめかせ、客席の円に囲まれた舞台で、
二つの人影が激しく火花を散らしながら剣戟を繰り広げる光景だった。
「おお、よぉっし入った!!」
「さすが団長!そのまま勝っちゃってください!!」
(……───)
「おい!!このままじゃ二連敗じゃねぇか、ふざけんな!」
凍りついた目の奥の思考に、何も浮かばなかった。
「こっちはテメーに賭けてんだぞ!!」
放心した脳に流れ込む情報と目に映る景色は繋がりを持つ事無く、
手足の小指一つさえ機能を忘れ、現実から一人取り残される。
「だははっ、当面金には困んねーな!酒追加で持ってこい!」
どうして誰も、止めようとしない。
「あっはははは、いいぞ殺れ!殺っちまえ!!」
これは何の為の戦で───
何故お前達は嬉々として、それを傍観している?
「ぐ、くそッ……女、ごときに」
「口を開くな。───敗者風情が」
聞き覚えのある凛声にはっと見開かれた僕の視界は、
気付けば直視し難い現実を押し退けて舞台に立つただ一人へと向いていた。
「おおっと、死闘の末ついに決着!勝ち抜いたのはまたもや王国誇る近衛団ッ、
人呼んで『砂漠の白薔薇』!!ギ〜〜メル〜〜ッ!!」
「「うおおおおお〜〜っ!!!」」
剣先を納め一礼を付すギーメルの退場を見送るかのごとく、
熱い血気と茹だる空気が歓喜と怒声に満ち溢れた。
引き換え、対戦者と思しき満身創痍の男性に浴びせられたのは。
「何負けてんだ、金返せ!!」
名も呼ばれずただ罵声と塵を投げ込まれながら、よろよろと舞台を去る。
「遅えよ!出てけ出てけ、戦うしか脳無え兵士崩れが!」
(…………っ!!)
沸き上がりかけた黒い感情を奥歯に強く噛み締め、
忘れかけた目的を逸れまいと気を保つ。
「見失うぞ、僕達も追い掛け───?」
見渡すも、隣にいたはずの姿がどこにも無い。
遠くに行ったのならまずいと、目視でアドリーを探そうとした瞬間だった。
「ギーメルさん、ギーメルさんっ!!」
舞台の袖、垂れ幕の陰から焦りの混じった彼女の悲鳴が響き、
人混みを掻き分けて声の鳴った方へ急ぐ。
「アドリー!何があった?!」
「ボルダくん!大変なの、ギーメルさん酷い怪我で」
床に転がる血濡れの剣の主、膝を着くアドリーに肩を貸されていたのは、
先程まで毅然と舞台に立っていた姿ではなく。
「はぁ、巫女様がなぜこの様な場所に……くっ」
「だっ駄目、無理しちゃ!動かないで」
鎧を脱いだ横顔、髪の赤銅は身震いを押し殺すような汗に濡れ、
傷口を巻く包帯に流血の跡が滲んでいた。
そして初めて、素顔の彼女と目が合った。
「!お前───」
「貴様……はっ、なるほど。それが勝者のする顔か」
呼吸の途切れを隠すように好戦的な声色を保ちながら、
暗幕に光る黒鉄の眦がぎろりと僕を睨みつける。
「わざわざこんな場所に……何の用だ、無様な私を憐れみにでも来たのか」
「違う。アドリー、すまんが押さえててくれ」
噛み付く元気はあるようだが、どの道こんな状態では何も聞き出せない。
「!やめろ、貴様なんぞにッ、回復を頼る義理は」
「ま、まだ言うのこの人、力強……っ?!」
半ば振り回されそうになりつつもアドリーがなんとか取り押さえる間、
未だに痛々しく抵抗するギーメルに構わず杖を向ける。
「ベホイミ(苦しみ無く、安らかなれ)」
「くっ、…………」
治癒を受ける前よりも何やら苦痛そうに表情を歪めてはいたが、
ともかく抵抗する気力は失ったらしい。
「面目ありません、巫女様に御見苦しい所を」
小さく首を振りつつ、アドリーは恐る恐る闘技場の舞台の喧騒に目をやる。
「アタシなんていいから、なんであんな怪我……
ここって一体、勝ち負けって一体何なの?」
「…………おい。巫女様に何を吹き込んだ?」
一方平静を取り戻し、ギーメルがちらりと僕を捉える。
「僕に聞くなよ。お前の知り合いからここの事を聞いて来たんだ」
「はぁ、……あのくそジジイめ」
また大層腹立たしそうな様子で息をつきながら、床に落ちた剣を拾い鞘に納めた。
「悪いが先に身を清めさせて貰う。巫女様を連れて外で待っていろ」
それだけ念を押してすぐに踵を返し、舞台袖から通路へつかつかと消えていく背中。
直後にガン、と何かが壁を殴ったような音が響いた。
「相当嫌われてるな。僕」
「…………ごめん、さすがに何も言えないかも」
♢ ♢
前を歩いて貰っているボルダくんの手に導かれ、
怖い程の熱狂の余韻に笑い合う人々の目を避けて闘技場の通路を歩く。
(…………本当に何なの、ここ)
この国の夜の顔を、アタシは何も知らなかった。
お父様が夜更かしを止めていたのは、きっとその為なんだろう。
「前を見て歩け。お前目立つんだから急ぐぞ」
「あ……ご、ごめん」
一緒に星空を見上げていた彼の目とは、まるで違って見えた。
何かに失望したような、或いは空間に溢れる悪意から辛うじて気を逸らすような。
少しは仲良くなったつもりでいたけれど、
なんてアタシはまた一人、勝手に寂しく思ってしまう。
彼の事も、彼女の事も、アタシはまだ何も知れてはいないのだろう。
「……気を落とすのは早いだろ」
そんな思考を見透かすように、
気付けば闘技場の出口に着いて彼がこちらを向いていた。
「え?!ぼ、ボルダくんってエスパー……?」
「違うわ!妖精じゃあるまいし。お前が分かりやすすぎるだけだ」
畳み掛けられて呆気なく言葉を失う。
彼と知り合ってから毎度のように思うけれど、
ちくちくした発言のトゲだけはどうにかならないかな。
「お前の頬は風船か。なんでそんなに膨らむんだ」
「知らない!今のはキミのせいでしょ」
紅く照った闘技場の灯りを背に、外気へ繋がる階段をこんこんと踏む。
「しかし暑かったな。お前は平気そうだが」
「まあね、……そっか。キミは森で育ったんだっけ」
柔らかく頷いた彼の目に映る景色に、
アタシは見えて居るのだろうか。
こうやって一歩ずつでも、彼との距離が縮まればいいけれど。
(…………!?)
両頬を封じ込めるようにぱんと押さえる。
冷静になれアタシ。こんな時に何を考えているんだ。
「……何だか知らないが気合いを入れてるみたいだな」
心の中で念仏のようにそう唱えながらも、
ようやく地上の空気を肺に入れる事が叶い心が休まる。
「はぁ。緊張で叫んじゃうかと思った」
「怖いこと言うな……まぁあんなの見たあとだ、気持ちは分かるが」
さっきまで居た闘技場には、
昼間にアタシの踊りを見に来るお客さん達の姿もあった。
勿論、ギーメルさんの戦いを応援していたであろう衛兵さんの姿も。
(お父様の国のためにって、みんなは言うけど……
好きで戦ってる人なんてホントに居るのかな)
怖い想像が浮かびかけ、途中で髪ごと振り払う。
攻めてきた魔物と必死に戦うみんなの顔を忘れた訳じゃない。
勇敢なみんなだから、お父様も信頼を置いているんだ。
「人混みに疲れたなら少し休むか。ギーメルが来るまで時間はあるだろ」
「…………ボルダくん」
不意に呼ばれて驚いたのか、
彼の銀髪が小屋の外からの僅かな灯りに揺れて煌めく。
「どうした改まって、───トイレか?」
「違うってば!その……少しおしゃべりしたくて」
ギーメルさんから話を聞いたら、多分このお散歩は終わってしまうだろうし。
「アタシはここがいいな。この時間は人も上がってこないみたい」
翡翠を磨いたような瞳と短い息で応えた後、
音もなく座る彼の隣にアタシも続いて腰を下ろした。
「何でもありなら僕から聞こうか。
僕と王のお喋りはどこから聞いてたんだ?」
「うっ。いきなり鋭いとこいくね」
とはいえ、言い出しっぺのアタシが答えないわけにはいかない。
「キミのお父様がお父様のお友達で、……あれっ」
「いや良い。とりあえずどこから聞いてたのかは分かった」
こんがらがったアタシ向けに整理しつつ、
父親と旅の目的について改めてボルダくんは聞かせてくれた。
その中でも気になったのは。
「ええっ、人間───ううう?!」
言いかけた途端に、真っ青な顔で両頬をぎゅっと押さえられる。
「声が大きい……!お前と同じで僕にも秘密はあるんだよ」
「わわ、わかったから!ほっぺ伸びるから!!」
これまで一貫して名乗っていた「エルフ」の種族だけでなく、
彼は人間の父親の血と錬金術師の才を受け継いで旅をしているらしい。
「とにかくこれで公平だ。僕の事も秘密に出来るな?」
そう言って立てた彼の小指が何を意味するものなのか、
不意に真剣な彼と目が合い、跳ねた自分自身の鼓動でようやく気付く。
「!うん、…………約束、だね」
満足気によしと頷く彼の宝石みたいな目の奥は、
せっかく今度は真っ直ぐにアタシを映していたけれど。
「?!ちょっと待て、なんで今目逸らした
───破ったら冗談じゃなくて本気で矢千本飲ませるぞ」
「ちっ違う、あと怖いんだってば!!」
彼との距離が縮むにはまだ、自身の勇気も少しだけ足りないらしい。
「よし、確か次は僕が聞く番だったな」
「?あれそうだっけ、…………まあいっか」
次の質問を待っていると、
その前に彼は腰に掛けた弓と背に携えた杖を見せてくれた。
「うわ、弓まで見せられると余計脅しに見えちゃうけど……」
「いや違う、『神器』って言うんだが───
アドリーの首に下げてるのはこれと同じような物なのか?」
自分の目では見えないけれど、ぴくりと耳が跳ねた気がした。
「!どうやらそうらしいな。精霊の火(アグニース)の神器か」
「そうみたい、……『勾玉』っていうんだけど。
まだアタシがちっちゃい頃にお父様から貰ったの」
火の精霊様の力を借りるお守りだと言って渡してくれたっけ。
「これ自体は武器じゃなくてさ。戦う時に火の呪文を使えるんだよ」
かっこ悪い話だが、魔物が攻めてきた時もこれを握って呪文を使い、
あの時着ていた衣装を除きこれだけが燃えなかった。
「確かに、精霊の風(ウェンリル)と扱い方は似てるみたいだな。
その言い方だと武器もあるのか?」
「うん。でもアタシのは……正直あんまり武器っぽくなくって」
「?」
萎んだアタシの声に小首を傾げる彼の目はなぜか好奇心に溢れていて、
ここまで言って隠させてくれる雰囲気ではなかった。
「わ、笑わないでね、かっこよくは無いから」
「……それだと逆にハードルを上げている気もするが」
勿体ぶろうとした意味もなくなり、すっかり覇気を失ったまま真実を伝える。
「宮殿の踊り子って言ったけど、アタシの武器は『扇』なの。
理想はもっとこう、なんだろ……キミの杖や弓みたいにさ」
「!なんだ、かっこいいじゃないかっ」
「そうだよね。できればギーメルさんみたいな剣───えっ?ほんと!?」
予想に反した彼の答えは聞き返すまでもなく、
お星様みたいにきらきらとした期待の眼差しが物語っていた。
(あれ、これ余計ハードル上げちゃった気が……)
「普段バレずに持ち歩けるし、風との相性も良さそうだろ?
実戦以外でもお前を使って色々実験出来るかもしれない……!」
「今日一番澄んだ目で怖い事言うのやめて?!」
なんだかメガネが似合いそうだなんて思いながら話していると、
不意に階段の方から人の足音が聞こえて来る。
「お待たせ致し───曲者?!巫女様に近付くな!」
「誰が曲者だ!!アドリーで燃やすぞ」
「ぎ、ギーメルさん落ち着いて!あとキミもアタシの事道具にしないで!?」
…………
水浴びと一緒に部下への挨拶を軽く済ませて来たらしく、
地下闘技場で見たような彼女の荒々しさは少し落ち着いたようだった。
「頭を冷やして来て正解だった。三度目の屈辱は無いぞ」
「無意味に噛み付くのは懲りてないか。アドリーが同席で幸運だったな」
(…………)
落ち着いたように、見えるだけかも知れないけど。
「もう一度聞くが私に何の用だ。ノラの爺さんにパシリでも頼まれたか?」
「幼稚な発想だな。戦うしか能がないのもあながち間違いじゃないらしい」
「たわけが……近衛団を愚弄するか」
前言撤回、肉弾戦から冷戦に変わっただけだった。
「落ち着いてってば!せめて闘技場の事聞いてからにしようよ」
「……今は剣を収めてやる。巫女様に感謝しろ」
「王に言いつけられるのが怖いんだな。恥をかかなくてよかったじゃないか」
(二人とも悪口でだいぶ損してると思うよ……)
ばちばちと散る二人の火花をどう収めるか悩んでいると、
やはりというか、腰を崩して先に沈黙を斬ったのは彼女だった。
「恐れ多くも我が王に無礼を働きよくものうのうと。
巫女様への馴れ馴れしい呼び名も許可を得ての事だろうな」
「さあな。生憎だが生涯主君と呼べる存在は一人と決めているんだ」
とにかくまずい、放っておけばここが第二の闘技場になりかねない。
「貴様の話など聞いておらんわ、使節がこのザマでは里の程が知れる」
「慎め……!お前に僕達の何が分かる」
「ぎ、───ギーメル『ちゃん』!!」
声を上げた瞬間、空気の唸りがぴたりと止んだ。
「ゆっくり話せるんだし、せめて仲良くお喋りしたいの!
立場なんてアタシは望んでないしさ、名前で呼び合おうよ……!」
仲良くなったつもりでいるなんて、やっぱり嫌だ。
本当の意味で知り合う事も叶わないまま、好きや嫌いを決めてしまうのは。
「そ、それは?!恐れながら……どういう」
「優しく布を着せてくれたとき、せっかく名前で呼びあえたのに
───キミにとっては違った?それとも、アタシとお友達は嫌?」
たとえボルダくんから奇行扱いされてしまっても構わない、
今は彼女の剣を納める鞘になれればそれで十分。
円満を望むなら、アタシ自身が素直になる事から始めればいい。
「断じて、そんな事は!ア……アドリー、様」
覇気の抜けた響きが最後の一音を結ぶと同時。
凛と結われた赤髪の尾が色味を霞ませるほどに、
愛らしく眉の歪んだ彼女の頬から怒りと真逆の火が噴いていた。
「〜〜〜〜んふふっ……!
ギーメルちゃんごめん、おかわりしちゃダメ?」
「怖っ、……どんな表情筋してるんだお前」
込み上げる甘い痺れ、しかしここで焦ってはいけない。
「ワガママ言ってごめんね。闘技場の話……今なら聞いてもいいかな?」
「…………」
アタシの意図を汲んでか、冷静を保ってくれているボルダくんを見習って、
努めて真剣に同じ方へと眼差しを向けようとした。
柔らかく見えたその笑顔に、ぴくりと胸の奥が跳ねる。
「アドリー様、まずはお聞かせ願いたい。私の試合は勇ましかったかな?」
「ちょっと待って、しあいって……
ギーメルちゃんが戦ってた舞台のこと?」
「ああ。面目ない、あれだけでは自己紹介が足りなかったようだ」
静かな夜の空気の中で向いた黒鉄の目の奥にアタシ達を交互に映し、
徐に片膝をついた彼女は逆手に腰の柄を取る。
「『砂漠の白薔薇』は我等が王の盾にして、国を護る鋼の剣。
ギーメル=リザレーシュ───近衛団の長たる私の名だ」
これが見本だ、と言わんばかりに、
赤髪の隙間に覗く視線は彼へと細く向けられていた。
「闘技場は国全体に力を示す格好の舞台。
ボルダ、貴様も観ていたのなら試合の仕組みくらいは分かるだろう」
紅く炎に揺らめく舞台、剣戟を囲む人々の怒号。
「観客に見せるため、そう言いたいのか?僕達にはまだそこが分からないんだが」
「は?貴様一体何を見て」
「ギーメルちゃんごめん……正直アタシも」
全て見た上で、理解できないのだ。
彼の唇の僅かな震えは、そんな気持ちを代弁してくれていたように思う。
「アドリーを介して聞いている……闘技場の仕組みは『賭け事』だと。
いい加減教えてくれ、観客は何を観にここへ」
「決まっておろう。血だ」
(っ、…………!!)
地下へ続く階段へと短く顎を向け、さも当然と告げる彼女。
「観衆どもは童の喧嘩が見たい訳ではない。
死力を尽くし、血を流し、勝敗を決する事に意味がある」
「…………ける、な」
ほんの小さくだが、ぎりりと歯の軋むような声が耳に届く。
「どうせまた……『金』だろ、人間が賭けるものというのは」
「賭けた方が勝てば増えて負ければそのまま没収だ。
だから強い方を応援する。何でもいいが、いちいち当たり前の事を」
がちゃん、と激しく複数の金属音が小屋に散らばり、
僅かに漏れたアタシの悲鳴は直後の怒声に掻き消された。
「ふざけるな!!金なんて何の温もりも無い金属の切れ端だろうが……ッ、
お前はこんなモノのために起こる戦を良しとするのか?!!」
声を荒らげるボルダくんが床に叩き付けた小袋。
『ご馳走様でした。思ってたより美味かったよ』
テントで彼と食べた熱い味が、引き攣った喉の奥で冷え切っていく。
「……何より私が嫌いなのは貴様のその目だ、
非力なエルフの世迷言とはいえこんな腑抜けに負けたとはな」
鉄を切るような舌打ちの後、唇を噛むボルダくんを睨んだ真っ黒な瞳に、
先程見せてくれた柔らかな笑顔の面影は無く。
「何が言いたいっ、僕達エルフが間違っているとでも……!
集落と親交を結んだ王の選択が誤りだったとお前は言うのかっ」
「戦なくして平和など無い……ッ、私事で我が王を語るな、
そんな美談は敗者の傲慢だ!!勲章のために戦い続ける兵士達への冒涜と知れ」
今更耳を塞ぐ資格はない。
正面から突き付けられる真実は、自ら知る事を望んだものだから。
「聞いてれば金だの勲章だの、国を護るためなんて聞いて呆れる、
強欲を満たす為に流れる血なんて認めてたまるか!!」
「撤回しろ、平和を履き違えた貴様に何が分かる!
無力を棚に上げて野次を飛ばし漫然と生きる観衆風情が……ッ!!」
(だからって、……嫌だよ、何でキミ達が)
憤怒の煽り合いは続き、彼女の納めた剣が今にも鞘から抜けてしまいそうなほど、
折角生まれかけた絆が崩れていく様。
それを仲間外れのまま、アタシは黙って観ているだけなんて。
「やめてよっ、二人がそれで喧嘩する意味はないはずでしょ?!」
「引っ込んでろ!!所詮人間なんて醜い生き物なんだッ、
戦いを金で考えるお前らに母様達の何が───」
ばちん、と弾けるような音と同時、掌に熱のこもった衝撃が走る。
純粋な驚きに染まったギーメルちゃんの表情、
視界の隅に乱れた銀髪が映り込み、ようやく自覚した。
「……ぐ、お前……」
「あ、アドリー様……?何を」
彼女の胸ぐらをボルダくんが掴もうとする刹那、
耐え切れなかったアタシの手がその頬を引っぱたいたのだ。
「人間、人間って……みんな同じ生き物みたいに言わないでよ、
ギーメルちゃんだって結局意固地になってるだけじゃない!」
どちらの味方をしたいわけでもない。
どちらの意見に賛成かなんて、今のアタシにはもっと無理だ。
「キミ達の言う理由なんて、一緒じゃなくても別にいいじゃんっ、
それだけで必死に戦ったみんなの事まで否定しないでよ……!!」
ただ、アタシを育てたこの国に流れる人々の血の温もりが、
冷水のような心無い言葉たちに解けてしまうのが嫌だっただけ。
「かっかっ!ワシが止めるまでもねえ、嬢ちゃんに任せて正解だったわ」
「!爺さんいつの間に───痛だだだ?!?」
しわがれた声の主を探すより早く現れた影。
ノラおじ様は片手で柄を握るかのように、
ギーメルちゃんの両手首を後ろからまとめて掴み拘束していた。
「ガキの喧嘩はガキ共の問題だからなあ。それにあんがとよ、
捕まえてくれてたお陰で呼ぶ手間が省けたぜ」
右から左へ耳を抜ける声にぽかんとしていると、
今度は脚をばたつかせて暴れる彼女の呻き声が聞こえてくる。
「離せくそジジイ、折れる!折れる!!」
「うるせえクソガキ。食い逃げの金額ワシが忘れねえうちに払いやがれ」
小屋の床に散らばっていた銀貨たちをもう片手で丁寧に拾い上げ、
隣の彼の手にぽんとノラおじ様の大きな手が乗った。
「落としもんだ。今度から財布の紐は締めときな」
「最初から全部聞いてたろ……悪かった。さっきの言葉は訂正する」
「えっウソ?全然気付か、……」
何気なくボルダくんに相槌を打とうとしたものの、
叩いてしまった後ろめたさが勝り、無意識に目が逸れてしまう。
「やめなお前さん、簡単に自分を曲げてちゃ女に信じて貰えねえぞ。
加減は丁度この馬鹿ぐらい負けず嫌いで良いんだよ」
「や、やめろ引き摺るな!!
アドリー様の前でこの様な辱めをッ、…………!」
小屋の前に立ち尽くすアタシ達二人を置いて、
ギーメルちゃんの喚き声は止むことなくただ遠ざかっていく。
「僕達も戻るぞ。お前が遅くなると王が心配するだろ」
目を合わせられないまま彼の声に呼ばれ、びくりと足が硬直する。
「?どうした、忘れ物でもしたか」
「ううん、その…………怒ってない……?」
勇気を振り絞って隣に向くと、意図を測りかねてか、
根に持った様子もない澄んだ緑色がきょとんと見開かれている。
「ああ、もしかしてさっきの……?まあ、おかげで頭が冷えたしな。
あの馬鹿力と揉み合いになった方がよっぽど恐ろしいぞ」
「そ、それでいいの?だってアタシ合わせて二回もキミのこと」
「しつこいなお前、……怒られたいのか?」
途端にくわっと強張る彼の顔が、何だか可笑しく見えた。
「人の顔を見て笑うな!!そっちの方が失礼だろうが」
「ごめんごめん。ふふっ」
遠ざかる小屋を後にして、彼と二人宮殿を目指し足を浮かせる。
(……アタシ、きっとキミより子どもなんだろうな)
勿論、彼とは同じ二百歳だけれど。
真っ直ぐ綺麗に並んで歩くと少し負けている身長や、
街灯側を譲って歩く彼に気付いたとき、特に意味もなく悔しかったのだ。