旦那が観光に行きます。
マクスウェルとの会談を終えた翌日の夜。
ロンドンの喧騒から離れ、ヘルシング機関の地下室にある一室で、狩人は静かに「灯り」を灯した。
チロリ……と、使者たちが持ち上げるランタンの炎が揺らぐ。
狩人はその光に手を触れ、意識を沈めた。
この世界は騒がしすぎる。政治、宗教、陰謀。血の匂いこそヤーナムと似ているが、ここには静寂がない。
だからこそ、彼は時折こうして帰還するのだ。彼の魂をつなぎとめる、夢の淵へ。
視界が霧に覆われ、やがて白い花畑と、空を突く巨大な樹木が現れる。
「狩人の夢」
どこからともなく聞こえる、優しく悲しいハミング。
ここだけが、異界の狩人にとって唯一、心を無防備にできる場所だった。
(……人形)
狩人の視線の先に、いつもの定位置に佇む人影があった。
あの母のような、姉のような、絶対的な受容存在。
狩人は無意識に足早になる。張り詰めた神経が解け、母性を求める幼児に近い甘えの感情がふつふつと湧き上がってくる。
その声を聞くだけで、肩の力が抜けるようになる。狩人は何も言わずその背の高い影に歩み寄り、子供のように抱きついた。
冷たくて硬い関節の感触と、古びた布の匂い。それを求めて、胸元に顔を埋める───
はずだった。
「…………?」
違った。
鼻腔をくすぐったのは、古い布の安心するような埃の匂いではない。
鉄錆びた血の臭い。
そして、頬に触れたのは硬質な関節球体ではなく、分厚い革のコートの感触。
狩人の抱擁を受け止めた「相手」は、ビクリともせず、むしろ余裕たっぷりに狩人の頭上から笑い声を降らせた。
「フン……。
狩人の思考が凍りついた。
ゆっくりと、恐る恐る顔を上げる。
そこにあったのは、無機質な人形の美貌ではない。
長い黒髪、不敵に歪んだ口元、そして悪戯心に満ちた赤い双眸。
「……私に抱かれたいのか、
アーカードは白い手袋をはめた手で、狩人の三角帽子をヒョイと取り上げると、まるでペットを愛でるかのように、ワシワシと狩人の頭を撫で回した。
「よしよし。昨日のヴァチカンとの会談は疲れたか? ん?」
「……………………」
狩人は固まった。
思考停止。
彼の脳内で、啓蒙が限界突破し、発狂寸前のノイズが走る。
(なぜ? ここは夢だ。なぜコイツがいる? なぜ私を撫でている?)
狩人は弾かれたように飛び退いた。
数メートル後方へステップし、帽子を奪い返して被り直す。マスクの下の顔は、おそらくこれまでにないほど引きつっているはずだ。
「あ……あら、狩人様。おかえりなさいませ」
工房の裏手から、本物の人形がひょっこりと現れた。
彼女は狩人とアーカードを交互に見つめ、小首をかしげて微笑んだ。
「おやおや、驚かせてしまいましたか? アーカード様は、近頃度々この『狩人の夢』を訪ねて来てくださるのですよ」
「な……」
狩人は絶句した。
「でも、偶然にも狩人様とはすれ違ってばかりで……。やっとお会いできましたね」
人形の声は、いつも通り慈愛に満ちている。
まるで「お友達が遊びに来てくれましたよ」とでも言うような口調だ。
狩人は震える指でアーカードを指差した。
「……何故だ」
絞り出すような声。
「何故、狩人ではない貴公がここに入れる? ここは選ばれた者か、あるいは悪夢に囚われた者しか……」
アーカードは墓石に腰掛け、面白そうに足を組んだ。
「なぁに、興味が湧いたからさ」
「興味だと……?」
「扉というものは、開け方さえ分かれば入れるものだ。貴様が俺の前で、あの上位者とやらの力を使っただろう?」
アーカードが指差したのは、狩人の額だ。
「あのチェダー村での初遭遇。貴様が星を降らせた時、俺の中の『目』も開いたのさ」
「……それで、啓蒙を得たと?」
「そうらしいな、ククッ。俺の中には数百万の命がある。その中には、魔術師もいれば、狂人もいる。貴様の言う『瞳』とやらを宿すには、十分な器だろう?」
狩人は頭を抱えた。
この吸血鬼は、吸血鬼としてのスペックが高すぎる。啓蒙すらも「面白い知識」として消化している。
「なら……」
狩人は問いを重ねる。
「どうして人形を視認できる? 彼女は…そうか、啓蒙を…」
「…その通りだな。」
アーカードはふと真顔になり、人形を一瞥した。
「それに、心を認識するのは啓蒙に限った話しでないだろう?」
人形はその言葉を聞き、嬉しそうにスカートの端をつまんでお辞儀をした。
「ふふ。アーカード様はお話し上手ですね」
(……馴染んでいる)
狩人は深い溜息をついた。
この夢の聖域性は、この赤い男によって完全に崩壊した。
「それにしても、こんな所があるとはな」
アーカードは立ち上がり、遠くに見える歪んだ月や、雲海から突き出る岩柱を見渡した。
「美しい悪夢だ。ロンドンのジメジメした霧とは違う、死と静寂の匂い」
アーカードは狩人に向き直り、ニヤリと笑った。
「なぁ狩人。ここにある墓石……ここから、お前の言う、『ヤーナム』とやらに行けるのだろう?」
狩人はハッとして顔を上げる。
「……何をするつもりだ」
「観光さ」
アーカードは悪びれもせずに言った。
「何、お前のような化け物を生み出した街。一度見てみたいと思っただけだ……連れて行け」
狩人は拒絶しようとした。
だが、考えてみれば、この男は一度言い出したら聞かない。
それに、もしここで断って、勝手に夢の中を暴れ回られたり、人形に危害(あるいはセクハラ)を加えられたりするよりは、管理下で案内する方がマシだ。
それに、狩人自身も、ヤーナムの様子は気になっていた。
考えてみれば夢には来てもヤーナムには訪れてなかった。今どうなっているのか、吸血鬼がどのくらいまで侵攻しているのか、汚染されたヤーナムがどうなっているのか。
「………建造物を破壊しない限り、行かせぬことはない」
狩人は渋々、条件をつけた。
「歴史的建造物だ。貴公のように暴れると、すぐに崩れる」
「
アーカードは肩をすくめたが、その目は子供のように輝いている。
「わかった。行きたいのであれば来い」
狩人は「ヤーナムの市街」と刻まれた墓石の前に立つ。
人形が二人に近づき、優しく祈りを捧げた。
「行ってらっしゃいませ。狩人様、アーカード様」
「あなた方の目覚めが、有意なものとなりますよう……」
「クク……夢の中で目覚めを祈られるとは、皮肉が効いている」
狩人が墓石に触れると、使者たちが湧き出し、二人を霧の中へと包み込んでいく。
ロンドンの最強の吸血鬼が、死都へ訪れる。
それは、ヤーナムの獣たちにとって、かつてない「悪夢」の始まりでもあった。