正直ボツにしようか悩みました。
深夜、ヘルシング機関本部、執務室。
円卓会議、女王への拝謁、そして少佐からの宣戦布告。
怒涛の一日を終え、インテグラル・ファルブルケ・ウィンゲーツ・ヘルシングは、バルコニーの手すりに寄りかかり、夜風に当たっていた。
指先にはシガリロ。紫煙がロンドンの夜闇に溶けていく。
「……ふぅ」
深く、重い吐息。
彼女は鉄の女だ。だが、鋼鉄にも金属疲労は溜まる。
相手は50年の時を掛けて準備してきた亡霊たち。そして、人知を超えた「上位者」の因子。
背負うものの重さが、今夜ばかりは鉛のように肩に食い込んでいた。
「……眠れんのか」
不意に、背後から静かな声がした。
インテグラは驚かず、ただ視線だけを動かす。
「……気配を消すのが上手いな。どうした?夢に帰って休まないのか?」
そこには、狩人が佇んでいた。
いつもの狩装束に身を包み、腕組みをして壁に寄りかかっている。
狩人はマスク越しに、インテグラの横顔を見つめた。
冷たい月の光を浴びたその凛とした姿。
彼の脳裏に、かつて異邦の地で相見えた一人の女傑、「時計塔のマリア」の面影が過る。
強く、美しく、そして誰よりも深い業を背負った女性。
(……似ているな。血の繋がりはなくとも、魂の形が)
「……夜には慣れている」
狩人は短く答え、インテグラの隣に立った。
「貴公こそ、休める時に休んでおくべきだ。……じきに、眠れぬ夜が来る」
インテグラは口元を歪め、空を見上げた。
「……そうだな。眠れぬ夜、か」
彼女は自嘲気味に呟く。
「奴ら……ミレニアムは、人間を辞めることを『進化』だと呼んだ。血に酔い、獣になり、狂気に堕ちることを肯定した」
「……狩人。お前のトコロの人間たちも、そうだったのか?」
それは、弱音ではない。
だが、人間としての根源的な問いだった。
「人は……弱いままの人間は、その圧倒的な狂気の奔流に、耐えられると思うか?」
狩人はインテグラを見据えた。
その瞳に、迷いはない。ただ、確認するような静けさがあるだけだ。
「……意志が鉄のように固いなら、獣にはならぬ」
狩人は断言した。
「ヤーナムでは、多くの者が獣になった。聖職者も、狩人も、民衆も。……だが、彼らは『恐怖』に負けたのだ。あるいは『力』に溺れた」
狩人は一歩近づき、インテグラの葉巻が消えかけているのに気づくと、懐からマッチを取り出した。
シュッ。
慣れた手つきで火を点け、インテグラの口元に差し出す。
「……貴公からは、灰と鉄の匂いがする」
狩人は火を灯しながら言った。
「血の匂いではない。乾いた、強靭な意志の香りだ。……私は嫌いではない」
「貴公は、人間だ。そして、これからも」
それは、異界の狩人からの、最大級の賛辞と保証だった。
インテグラは紫煙を吸い込み、少しだけ表情を緩めた。
「……フン。お世辞が上手いな、狩人」
「ククク……全くだ。お嬢さんを口説くのが随分と上手くなったものだ」
バルコニーの影が不自然に伸び、そこからヌゥッと真紅の帽子が現れた。
アーカードだ。
彼はニヤニヤと笑いながら、インテグラのもう一方の隣に実体化する。
「盗み聞きとは趣味が悪いぞ、アーカード」
インテグラが睨むが、アーカードはどこ吹く風だ。
「聞こえてしまったものは仕方があるまい? それにしてもインテグラ」
アーカードは顔を近づけ、主人の顔を覗き込んだ。
「なんだその顔は? 不安か? 恐怖か? それとも……絶望か?」
その言葉は挑発的だが、声色はどこか弾んでいる。
彼は楽しんでいるのだ。絶対的な強者である自分を仕える主人が、人間としての弱さを抱えながら、それでも立とうとする姿を。
その葛藤こそが、彼が人間を愛する理由なのだから。
「……馬鹿を言え」
インテグラは葉巻を指で挟み、強く煙を吐き出した。
「私の命令一つで、世界が動く。数百万の命が左右される。……その重圧に、少々興奮しているだけだ」
「ふははは、そうだ、そうでなくてはな…」
アーカードは高らかに笑い、インテグラを後ろから抱こうとするが、狩人の冷ややかな視線に気づき、手を止めた。
「……なんだその目は。減るもんじゃあるまいし」
「……貴公の手は冷たすぎる」
狩人が淡々と言う。
「人間を冷やすな」
「チッ……過保護な化け物め」
アーカードは肩をすくめたが、その表情は満更でもない。
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インテグラは、ふと自分の状況を客観視した。
夜のバルコニー。
右には、最強の「不死者」。
左には、異界の「上位者」に連なる狩人。
世界を滅ぼしかねない二体の怪物が、自分の左右に侍り、自分の言葉を待っている。
その事実に、インテグラは不意に肩の力が抜けるのを感じた。
(……これ以上、気負っても仕方があるまい)
(私には、こいつらがいるのだ)
インテグラは短くなったシガリロを灰皿に押し付け、ふぅ、と長く息を吐いた。
「……私は眠るぞ。疲れた」
「ほう?」
アーカードが意外そうに眉を上げる。
インテグラは背を向け、ひらりと手を振った。
「これだけの番犬が二匹も揃っているのだ。……戸締まりを気にして夜なべをする必要もあるまい?」
「泥棒が入る隙間など、万に一つもないだろうからな」
それは、彼女なりの信頼の言葉だった。
お前たちがいる限り、私は安心して「ただの人間」として眠ることができる、と。
「ククク……違いない」
アーカードは喉を鳴らして笑い、帽子を目深に被り直した。
「ゆっくり休め、
狩人もまた、静かに一礼した。
「……よき夢を」
その声は、夢の中の人形のように穏やかだった。
インテグラは執務室のドアを開け、一度だけ振り返った。
バルコニーには、真紅と漆黒の影が二つ、ロンドンの夜景を背に並んでいる。
その光景を瞼に焼き付け、彼女は静かにドアを閉めた。
カチャリ。
鍵の掛かる音が、夜の静寂に溶けていく。
バルコニーには、微かな葉巻の香りと、妙に頼もしい化物たちの気配だけが残された。
嵐の前の静けさ。
女王は今夜、久しぶりに泥のように深く、安らかな眠りにつくだろう。
to be continued…