結界の内側で、空気が変わった。
誰かが合図を出したわけじゃない。
ただ、五条悟が一歩、踏み出しただけだ。
それだけで、真依は直感する。
(……さっきと、違う)
呪力の量が増えたわけじゃない。
圧が露骨になったわけでもない。
なのに、
足元の感覚が、わずかに狂う。
五条は、笑っていた。
「大丈夫大丈夫。
さっきより、ほんのちょっとだけだから」
“ちょっとだけ”。
その言葉を、
真に受けていい類の相手じゃないことを、真依はもう知っている。
五条が、踏み込む。
速度は変わらない。
動きも、派手さはない。
だが――
“来る”のが早い。
認識と同時に距離が詰まる。
反応しようとした時には、すでに間合いの外に立たれている。
総司は、下がらない。
王庫が、再び開いた。
今度も出てくるのは、2級呪具だけだ。
刃、杭、短剣。
だが、数が違う。
射出。
間断なく、連続で放たれる。
さっきのような間合い制圧ではない。
動線そのものを潰しにきている。
五条は、それを避けない。
跳ねもしない。
“ずらす”。
ほんの数センチ。
致命になる軌道だけを、自然に外していく。
「うんうん」
五条が、楽しそうに頷く。
「分かってる分かってる。
近づく気、最初からないよね」
総司は答えない。
射出の密度が、さらに上がる。
だが、やみくもじゃない。
五条が動いた“後”を狙っている。
読んでいるのではなく、想定している。
(……先を見てる)
真依は、ようやく気づく。
反射でも、勘でもない。
この二人は、同じ時間を生きていない。
五条が、一度だけ前に出る。
総司の射出が止まる。
その判断が、あまりに早い。
次の瞬間、
五条の拳が、総司の目前をかすめた。
当たらない。
だが、距離は確実に詰められている。
「惜しい」
軽口。
「今の、普通は下がるんだけどね」
総司は動かない。
王庫から、別の呪具が現れる。
短い刃。
投擲用。
射出――ではない。
一瞬だけ、遅らせる。
その僅かな間で、総司は横にずれる。
五条の視線が、その動きを追う。
「……あー」
五条が、納得したように息を吐く。
「“詰められない位置”を、ずっと保ってるんだ」
評価だ。
だが、驚きはない。
まるで、
そこに来ることを最初から知っていたかのように。
総司は、刃を戻す。
王庫が閉じる。
それ以上、攻めない。
五条は、そこで止まった。
一歩、下がる。
「はい。ここまで」
戦闘が、終わる。
唐突だった。
だが、異論を挟める者はいない。
「これ以上やるとさ」
五条は、肩をすくめる。
「“模擬”じゃなくなる」
笑顔のまま。
けれど、その言葉には、確かな線引きがあった。
総司は、頷きもしない。
ただ、何事もなかったように立っている。
真依は、しばらく動けなかった。
派手な技は見ていない。
特別な呪具も、出てきていない。
それなのに。
(……遠い)
今の数分で、
はっきりと突きつけられた。
総司は、まだ上を見ている。
五条は、そのさらに先に立っている。
そして、自分は――
ようやく“下から見上げた”だけだ。
五条は、ふっと真依に目を向ける。
一瞬だけ。
教師の顔で。
「焦らなくていいよ」
軽い声。
「今のは、見えなくて正解だから」
慰めではない。
事実の提示だ。
総司は、その言葉に反応しない。
ただ、王庫を完全に閉じ、
結界の出口へと向かう。
背中は、いつも通り。
変わらない。
だが、真依には分かる。
あの背中は、
追いつくための目標じゃない。
――追いつけない高さを、
ただ、示されただけなのだと。
結界が、解除される。
日常の音が戻ってくる。
それでも刻まれた隔たりだけは
消えることなく、そこに残っていた。