沈黙が、教室に落ちた。
里香の姿は完全に現れてはいない。
だが、乙骨の背後――
“そこにいる”という感覚だけが、はっきりと残っていた。
重い。
空気が、押し潰すように重い。
誰もが、無意識に呼吸を浅くしていた。
「……ふぅ」
その沈黙を破ったのは、五条だった。
間の抜けたような吐息。
緊張感を壊すようでいて、実際には壊れていない。
「いやー……」
五条は、床に走った亀裂を見下ろす。
「やっぱり迫力あるね」
「ふざけんな!」
真希が即座に声を荒げた。
「どう見ても洒落になってないだろ!!」
「冗談じゃないよ」
五条は軽く肩をすくめる。
「事実。
今の、下手したら校舎半分、消し飛んでた」
乙骨の胸が、強く締めつけられた。
(……え)
視線が、床に落ちる。
割れたコンクリート。
壁に刻まれた無数のひび。
(……これ、僕が……?)
何かをした記憶はない。
ただ、名前を呼ばれただけだ。
それだけで、これだ。
「憂太」
五条が、少しだけ声の調子を落とす。
乙骨は、びくりと肩を震わせた。
「分かってる?」
首を振ることしか、できなかった。
「君に憑いてる呪いはね」
五条は、淡々と続ける。
「今の呪術界でも、かなり危険な部類」
一拍。
「正式には――
特級過呪怨霊」
言葉が、脳に届くまで時間がかかった。
「……とっ、きゅう……?」
声が、かすれる。
「そ」
五条は、あっさり頷く。
「呪術師でも、命がけで相手するレベル」
乙骨の思考が、追いつかない。
(……そんなものが)
(僕の、そばに……)
「だから」
五条は、乙骨の前にしゃがみ込む。
目線を合わせる。
「このまま放っておくと、君か、周りの誰かが死ぬ」
はっきりとした断言だった。
曖昧さは、ない。
「……っ」
乙骨は、唇を噛みしめる。
「……僕は……」
喉が、震える。
「どうすれば……」
答えは、すぐには返ってこなかった。
五条は立ち上がり、後ろを振り返る。
「真希」
「……何だよ」
「準備」
真希は舌打ちしながら、呪具を手に取る。
「おいおい……」
パンダが、身構える。
「まさか……」
「そのまさか」
五条は、軽く言った。
「実地授業」
乙骨の顔から、血の気が引く。
「……え?」
「百聞は一見にしかず」
五条は笑う。
「自分がどれだけ危険か、ちゃんと知っとこう」
真希が、低く言う。
「覚悟しろよ」
狗巻が、一歩前に出る。
「……こんぶ」
パンダは、深く息を吸った。
「死なない程度には、手加減する」
(やめて……)
乙骨は、後ずさった。
身体が、言うことをきかない。
その時だった。
「……ユ゛ウタぁァァ……」
背後から、声。
粘つくような、歪んだ音。
乙骨の全身が、硬直する。
「……コワいノォ……?」
空気が、変わる。
黒い呪力が、ゆっくりと濃くなる。
「ダイジョウブ……」
「ユウたァ……」
乙骨は、震える指で振り返る。
里香が、そこにいた。
完全な姿ではない。
だが、圧だけで十分だった。
「イジメる……ノ……?」
低く、重い。
「……コロす……」
真希が、歯を食いしばる。
(……本物だ)
パンダが、息を呑む。
「冗談じゃねぇ……」
狗巻は、静かに距離を取る。
乙骨の喉から、声が絞り出される。
「……や、やめて……」
「出てこないで……!」
必死の叫び。
里香の動きが、止まる。
「……ユ゛ウタ……?」
不満そうな、間。
「……ヤ……」
「……デナい……」
呪力が、ゆっくりと引いていく。
圧迫感が、薄れていく。
教室に、静寂が戻った。
五条は、その一部始終を黙って見ていた。
(……なるほど)
制御は、できていない。
だが――拒否は通る。
「決まりだね」
五条が、手を叩く。
「乙骨憂太」
改めて、その名を呼ぶ。
「君は、呪術高専で呪いの使い方を学ぶ」
乙骨は、俯いたまま、小さく頷いた。
選択肢は、ない。
だが。
(……それでも)
(ここに、いるしかない)
恐怖に押し潰されそうになりながら、
乙骨憂太は、最初の一歩を踏み出した。
呪いと共に、生きる道へ。