禪院家の朝は、いつも静かだ。
静かで、重い。
空気そのものが血統と序列で出来上がっているかのような、息苦しさが常にある。
使用人たちは足音を殺し、
術師たちは互いの力量を探るように視線を交わし、
長老たちは縁側に座ったまま、誰が「上」で誰が「下」かを無言で量り続ける。
その中で――
禪院総司という存在だけが、明らかに浮いていた。
「……今日も、あの坊は修練場に?」
「ええ。朝から、ずっと」
「子どもとは思えん集中力だな……」
小声で交わされる囁き。
だがそこに、嘲りはない。
あるのは、警戒と――恐怖だ。
総司は、まだ十にも満たない。
それでも禪院家の人間は、本能的に理解している。
あれは、子どもの形をした“何か”だと。
修練場の奥。
結界で区切られた空間の中央に、総司は一人立っていた。
手を振るうことはない。
呪力を大きく練り上げることもない。
ただ、立っている。
その背後の空間が、わずかに歪む。
見えないはずの“何か”が、そこに在るような圧。
空間に沈殿した呪力が、まるで王の玉座を避けるように後退している。
(……まだだ)
総司は、内心で呟く。
術式《王葬庫》。
それは“出す”術ではない。
“在る”だけで、周囲を従わせる術式だ。
幼い身体では、すべてを開くことはできない。
だが、わずかに“扉”を開くだけで――この場の空気は、彼のものになる。
「……ふん」
集中を解き、総司は視線を上げた。
結界の外。
そこに、気配が二つ。
一つは、隠そうとしていない。
むしろ、睨みつけるようにこちらを見ている。
――禪院真希。
呪力を持たない、禪院家の恥さらし。
それでも、目だけは死んでいない。
「……何見てんだよ」
真希が吐き捨てる。
だが総司は答えない。
答える価値がない、というより――
答える必要がない。
もう一つの気配は、さらに奥。
柱の影に、隠れるようにして立っている。
禪院真依。
総司の“所有物”。
彼女は、こちらを見ていない。
視線を落とし、ただ総司の存在を感じ取っているだけだ。
それでいい。
「……っ」
真希が、歯噛みする音が聞こえた。
総司はようやく、真希を見る。
その目には、何の感情も浮かんでいない。
「まだいたのか」
「……あ?」
その一言で、真希の呪力――いや、感情が爆発しかける。
「何だよ、その言い方!
おまえ、少し力があるからって――!」
「力が“あるから”じゃない」
総司は淡々と言った。
「俺は上で、お前は下だ。それだけだ」
真希の言葉が、喉で詰まる。
反論したい。
殴りかかりたい。
だが、身体が動かない。
理解してしまっているからだ。
この少年は、自分を同列に見ていない。
敵ですらない。
「……チッ」
真希は顔を背け、去っていった。
背中越しに、悔しさだけが残る。
総司は、視線を真依に戻す。
「来い」
短い命令。
真依は一瞬だけ肩を震わせ、それからゆっくりと歩み寄ってきた。
距離を測るように、三歩手前で止まる。
「……何だ」
「……呼ばれたので」
声は小さい。
だが、逃げはない。
総司は、その様子を静かに見下ろす。
(やはり、こいつは違う)
真希と同じ“出来損ない”。
それでも、根本が違う。
真希は、足りないくせに欲しがる。
真依は、足りないことを理解している。
「昨日言ったこと、覚えているか」
真依は一瞬、目を伏せる。
「……全部、捧げろ、ということですか」
「そうだ」
「……はい」
迷いは、もうない。
総司は、少しだけ目を細めた。
「後悔は?」
「……ありません」
本当は、怖いはずだ。
それでも、真依は否定しなかった。
なぜなら――
この少年の傍以外に、生きる場所がないと知っているから。
「ならいい」
総司は、そう言って踵を返した。
「俺の後ろにいろ。
それ以外は、考えなくていい」
真依は、小さく頷く。
その瞬間、彼女は理解した。
守られるのではない。
救われるのでもない。
“物”として、置かれる。
だが――
禪院家という地獄の中で、
それは最も安全な場所でもあった。
その日の午後。
禪院家の奥で、異変が起きる。
低級とはいえ、呪霊が結界の内側に侵入したのだ。
本来ならあり得ない事態。
「結界が……歪んでいる?」
「まさか、内部に術式干渉が――」
術師たちが動揺する中、
一人の男が歯噛みした。
「……総司だ」
誰もが、同じ名を思い浮かべていた。
意図せずとも、
彼の術式は周囲の“在り方”を変えてしまう。
そして――
その歪みに、呪霊は引き寄せられた。
「真依」
総司は、即座に命じる。
「俺から離れるな」
「……はい」
次の瞬間。
闇の中から、呪霊が姿を現した。
歪んだ四肢、濁った眼。
だが――
そいつが動くより先に。
「――触るな」
総司の背後、
虚空が、開いた。
見えないはずの“王の蔵”から、
刃の概念が零れ落ちる。
呪霊は、悲鳴を上げる暇すらなく、
存在ごと断ち切られた。
静寂。
術師たちは、凍りついたまま動けない。
総司は、振り返りもせずに言った。
「俺の物に、手を出すな」
それは警告でも宣言でもない。
ただの、事実確認だった。
真依は、その背中を見つめながら、理解する。
この人は、優しくない。
正しくもない。
でも――
自分を「物」として扱うこの王だけが、
確実に、自分を壊させない。
そう思った瞬間。
胸の奥で、何かが静かに定まった。
――続く。