朝の禪院邸は、異様な静けさに包まれていた。
人の気配はある。
使用人も、分家の術師も、いつも通り動いている。
だが――
空気だけが、重い。
中庭に集められた分家筋の術師たちは、誰一人として声を出さなかった。
その中央に立つ男――
禪院直哉は、静かに周囲を見回していた。
「……つまり」
穏やかな声。
「総司には、干渉するな、と。
親父はそう言うたわけやな」
「……はい」
答えた分家の男は、視線を伏せたまま頷く。
直哉は小さく息を吐いた。
「随分と思い切った判断や」
口元には笑み。
だが、その目は冷えている。
「才能があるのは分かっとる。
せやけどな……禪院いう家は、
“好きにさせる”ためにある場所やない」
その時だった。
「その考え方が、もう古い」
背後から、低い声がかかる。
直哉は驚かない。
最初から、来ると分かっていたかのように振り返る。
そこにいたのは――
禪院総司。
その隣には、真依が控えている。
直哉は総司を見て、薄く笑った。
「……やっぱり来とったか」
視線を上下に動かす。
「相変わらず、えらく堂々としてるな。
ここがどこか、分かっとるんやろ?」
総司は答えない。
ただ、直哉を見る。
「忠告しとく」
直哉は声の調子を変えない。
「禪院ではな、
立場いうもんが何より大事や」
「それを無視して動く人間は、
大抵……長生きせえへん」
真依が、わずかに身を強張らせた。
直哉はそれに気づき、真依に目を向ける。
「……君は」
どこか嘲るような目。
「姉と違って、分を弁えとる。
その点は、悪くない判断やと思うで」
総司の視線が、初めて鋭くなった。
「――俺の物に、勝手に口を出すな」
声は低い。
だが、はっきりとしていた。
直哉の眉が、わずかに動く。
「“物”か」
小さく笑う。
「そう言うところが、
当主に目を掛けられる理由なんやろな」
その瞬間。
空間が、沈んだ。
目に見える変化はない。
だが、直哉は即座に理解する。
(……来た)
投射呪法を起動しようとした――
その思考が、途中で止まった。
身体が、動かない。
いや、違う。
動く意味が、消えている。
直哉は、自分が“そこに立つ必要のない存在”に
されていることを悟った。
(拘束……やない)
呪力で縛られているわけでもない。
術式で抑えられているわけでもない。
場の主導権そのものを、奪われている。
総司が言う。
「勘違いするな」
「禪院がどうなろうと、
俺は何とも思っていない」
直哉の目が、わずかに見開かれる。
「利用する気もない。
守る気もない」
「俺にとって重要なのは、俺の物だけだ」
圧が、増した。
直哉の足が、自然と沈む。
膝が折れる。
――跪いたのではない。
立っている理由を、失っただけだ。
「……っ」
歯を食いしばる。
(何や……この感覚)
格下だと思っていた相手に、
否定されたわけではない。
最初から、眼中にない。
それが、何よりも堪えた。
総司は、直哉を見下ろさない。
興味を失ったように、視線を外す。
「お前は、俺の物じゃない」
「だから、守らない」
圧が消えた。
直哉は、地面に手をついたまま、しばらく動けなかった。
総司は、真依にだけ声をかける。
「行くぞ」
「……はい」
迷いのない返事。
二人は、そのまま中庭を後にした。
少し離れた縁側。
その一部始終を、黙って見ていた男がいる。
禪院直毘人。
盃を傾けながら、静かに息を吐いた。
「……なるほどな」
(囲われる気も、従う気もない)
(だが、誰よりも“王”に近い)
直毘人は、苦笑する。
「禪院も……厄介なもんを抱えたわ」
だが、その表情はどこか楽しそうだった。
夜。
総司の部屋。
真依は正座したまま、俯いていた。
昼の出来事が、頭から離れない。
「……私は」
小さく口を開く。
「今日、皆から……
“総司様の物”として見られていました」
総司は、否定しない。
「事実だ」
真依は、ゆっくりと息を吸う。
「……それで、構いません」
顔を上げる。
「私は、
捧げることでしか生きられません」
総司は、淡々と言う。
「捧げた以上、
壊されることはない」
それは情ではない。
約束でもない。
当然の帰結だ。
真依は、深く頭を下げた。
「……全てを捧げます」
総司は、答えない。
ただ、そこにいることを許す。
同じ夜。
直哉は、自室で天井を見つめていた。
(……最初から、
見下されとったわけやない)
(存在を、数えられてすらいない)
拳を、強く握る。
恐怖と、屈辱。
そして――
初めて知った、決定的な差。