無人島での生活が始まってから、悪魔超人軍の拠点には少しずつ変化が起きていた。最初はただの野営地だった。
ゼロ・オリジン号を停泊させ、森や山を探索し、食料を確保する。それだけだったはずの場所に、簡易的な建物が建てられ、食料を保管する場所が作られ、鉱石を加工するための設備が整えられていく。
そして何より大きく変わったのは、キテレツ斎の工房だった。木材を組み合わせただけの簡素な建物ではあるが、その内部には大量の工具や設計図、鉱石、薬品、そして様々な発明品が並べられている。キテレツ斎が発明家として活動を始めたことで、工房は日を追うごとに物で溢れていった。
「これは……本当に凄いわね」
工房の片隅で、カレンは一冊の本を手にしていた。
分厚い本だった。表紙には大きく『奇天烈大百科』と書かれている。
キテレツ斎がこれまでに考案した様々な発明品を記録した百科事典だった。
カレンはページをめくっていく。
「……空を飛ぶための道具。怒りを熱エネルギーに変換する道具……」
そこに記されている発明品は、どれも普通ではなかった。
単純に便利な道具というだけではない。
中には、悪魔の実の能力によってしか実現できないのではないかと思えるような発明品まで存在している。
「これ……本当に全部、キテレツ斎さんが作ったの?」
思わずカレンが呟く。
悪魔超人軍に加わる以前から、キテレツ斎は様々な発明を生み出してきた。
ただし、その発明品の多くは世に出ることなく、本人の頭の中や書物の中に眠っていた。
それが今、奇天烈大百科という形でカレンの目の前にある。ページをめくるたびに、新しい発明が現れる。
「……凄い」
思わず何度も同じ言葉が口から漏れる。
だが、そんな発明品を眺めていたカレンの手が、あるページで止まった。
「……獣の涙?」
そこには、一つの薬について記されていた。
薬瓶の絵。その横には、キテレツ斎による説明が書かれている。
『獣の涙』
人間を一時的に動物へと変身させることができる薬。
その効果は一時的なものであり、一定時間が経過すれば元の人間の姿へ戻る。
「人間を……動物に?」
カレンは目を丸くした。
さらに説明を読み進める。
「一時的に肉体そのものを変化させる……」
カレンはそこで何かに気付いた。
「……待って……もしかして……」
本を持ったまま、カレンは考え込む。人間を動物へ変化させる。それならばとカレンの脳裏に、一つの可能性が浮かんだ。
カレンはバンドウイルカの人魚だった。
ヒューマンオークションから紆余曲折たり、最終的には悪魔超人軍1人として旅をしている。
しかし、彼女には他の仲間たちにはない大きな問題があった。
無闇に陸地へ上がれない。
正確には、人魚であるカレンは下半身が魚の形をしているため、普通の人間のように二本の足で歩くことができない。
人魚というだけで目立ち色々な輩から狙われてしまう。もちろん、水のある場所ならば何も問題はない。海、川、湖。
水さえあれば、人魚として自由に動くことができる。だが、島へ上陸すると話は変わる。仲間たちが町へ向かう、市場を見て回る、店に入る、森を歩く、山を登る。
そういったことが、カレンにはできない。
カレンはそれを理解しているので船番をすることが多い。
「もし……これを使えば……」
カレンは獣の涙のページを見つめる。
人間を動物へ変える薬。
ならば逆に。人魚の身体を一時的に人間の形へ変えることができるのではないか。そうすれば。
「私も……二本の足で歩ける?」
胸が高鳴った。今まで何度も夢見たことだった。
地上を歩いてみたい。自分の足で、仲間たちと同じ場所を歩いてみたい。砂浜を歩きたい。森を歩きたい。町の中を歩きたい。市場を見て回りたい。靴を履いてみたい。
そんな、人間にとっては当たり前のこと。
それがカレンにとっては、ずっと憧れていたものだった。
「……聞いてみよう」
カレンは奇天烈大百科を抱え、工房の奥へ向かった。
「キテレツ斎さん!」
「ん?」
机に向かって作業をしていたキテレツ斎が顔を上げる。
「どうした?」
「これ」
カレンは奇天烈大百科を開き、獣の涙のページを見せた。
「獣の涙?」
「はい。これって……人間を動物に変える薬なんですよね?」
「ええ。正確には一時的に肉体の構造を変化させる薬です」
キテレツ斎は説明する。
「動物の持つ特徴を一時的に人間の身体へ反映させる。逆に言えば、身体の構造を変化させる薬ということです」
「だったら……」
カレンは少し緊張しながら尋ねた。
「私に使ったら……人魚から人間の姿になることはできませんか?」
「……人魚から……人間へ?」
「はい」
カレンは自分の下半身を見る。
「私は人魚だから、地上では自由に歩けない。でも、この薬で身体を変えられるなら……下半身を魚じゃなくて、人間の足にできるんじゃないかと思って」
キテレツ斎は黙って考え込んだ。
すぐに無理だと答えなかった。それだけで、カレンの胸には期待が生まれる。
「……理論上は可能かもしれないな」
「本当!?」
「ただし、いくつか問題があります」
「問題?」
「獣の涙は、本来、人間の身体を一時的に動物へ変化させるために作った薬だ。人魚に使用することを想定していない」
キテレツ斎は本を確認する。
「人間と人魚では身体構造が違います。特に下半身の変化は単純な変形では済まないでしょう。骨格、筋肉、血管、神経、さらには体内の水分バランスまで変化する可能性がある」
「……」
「それに、薬そのものを大量に作るのも難しい」
キテレツ斎は少し困ったように笑った。
「材料が不足していて今の設備では、安定した状態で大量生産することはできない」
「そうですか……」
カレンの表情が少し曇る。
「ですが、今の設備でも少量なら作れます」
「……!」
カレンの顔が再び明るくなった。
「本当に!?」
「ええ。安全性については慎重に調整する必要がありますが、一度分くらいなら試作できるとも」
「お願いします!」
カレンは勢いよく頭を下げた。
「どうしても……試してみたいんです!」
「分かりました」
キテレツ斎は笑った。
「ただし、無理はしないこと。少しでも異常を感じたら、すぐに使用を中止だ」
「はい!」
こうして、キテレツ斎による獣の涙の調合が始まった。
材料を確認する。薬品を計量する。加熱する。冷却する。そして何度も調整する。元々存在していた薬とはいえ、人魚に使用する以上、そのまま使うわけにはいかない。
「人魚の身体に合わせるなら……」
キテレツ斎は薬を見ながら考える。
「変化する部位を限定した方がいい。全身を動物化させる薬ではなく、下半身の構造変化を優先させる」
科学者としての知識も総動員する。
人魚の身体についても調べながら、薬の濃度を調整する。
「……これなら」
やがて、小さな薬瓶が完成した。
透明な液体が入っている。
「出来た」
「これが……獣の涙」
カレンは薬瓶を見つめた。
それだけで胸がいっぱいになる。
「飲めばいいのね」
「ええ。ただし、変化が始まったら身体に違和感がないか確認してください」
「分かったわ」
カレンは薬瓶を受け取った。
少しだけ震える手で蓋を開ける。。
「……いただきます」
薬を飲み干した。なにか起きるかもと思ったがなにも起きない。
「……あれ?」
「すぐには変化しないようだな」
キテレツ斎がカレンの下半身を観察する。
すると。
「……っ!」
カレンの身体がわずかに震えた。
下半身に熱が集まる。
「な、なんだか……変な感じ……」
「慌てないで、薬が効いてきたんだ」
キテレツ斎が身体の変化を確認する。
魚の尾がゆっくりと形を変えていく。鱗が消えていく。尾の内部で骨格が変化し、筋肉が組み替えられていく。
カレンは自分の身体を見た。そこにあったのは、今まで見たことのないものだった。
「足……」
二本の足。人間と同じ形をした足。カレンはしばらく言葉を失った。
「私の……足?」
「どうやら成功した様だ。人魚用は初で心配だったが上手く行ってよかった」
カレンの足を見たキテレツ斎も安堵したように息を吐く。
「一応、身体的な異常はありません」
「……」
カレンは恐る恐る足を動かす。
右足。左足。ちゃんと動く。指も動く。
「立っても大丈夫かしら?」
「その足ははじめてですから、最初はゆっくりと」
「ええ」
カレンは床に手をついた。そして身体を起こす。
ふらふらする。今まで魚の尾で身体を支えていた彼女にとって、二本の足で身体を支える感覚は未知のものだった。
「わ……」
一歩。右足を前へ出す。
「歩けた……歩けた……!私……歩いてる!」
カレンの目が大きく開く。嬉しさが込み上げてくる。
何度も夢に見た。仲間たちと一緒に地面を歩くこと。
自分の足で好きな場所へ行くこと。それが今、現実になっている。
「凄い……!」
カレンは工房の中を歩き回った。まだ少しぎこちない。
何度も足をもつれさせる。それでも歩ける。カレンは歩くことが出来る喜びを噛みしめる
「これが……足で歩くってことなんですね……本当に凄い……!」
カレンは笑っていた。
その声を聞きつけた仲間たちが工房へ集まってくる。
「どうしたんですか?」
ハヤトが中へ入ってきて、目を丸くした。
「カレン!?」
「見てください!」
カレンは嬉しそうに二本の足を見せる。
「歩けるんです!」
「ええ!?」
宗次も驚く。
「人間の足になってる!」
「キテレツ斎さんの発明品、獣の涙の効果です」
キテレツ斎の作った薬のおかげで足を手に入れたとカレンは嬉しそうに報告する。
「足に関しては一時的なものだ」
「これはすごいな」
貴虎も驚いた様子でカレンを見る。
「これなら地上を自由に歩けるのか?」
「ええ!今ならどこへでも行けるわ!」
カレンは笑顔で答えた。
その言葉を聞き、悪魔将軍も工房へやって来た。
「何事だ?」
「将軍!」
カレンは嬉しそうに駆け寄ろうとして足がもつれた。
悪魔将軍は倒れそうになったカレンを支える。
「その二本の足、キテレツ斎がなにかしたな。カレンよ、足を手に入れた様だがまだ歩くことに慣れていないようだな」
「ご、ごめんなさい……」
「謝る必要はない。初めてなのだから当然だ」
悪魔将軍はそう言ってカレンを立たせる。
「歩けることが嬉しいのは分かる。だが、無理をするな」
「……ええ!」
カレンは満面の笑みで頷いた。
その後、カレンはしばらくの間、拠点の周囲を歩いてみることになった。砂浜まで行く。森の入り口まで行く。小さな坂を上る。今までなら弾むか摺り足の様に歩くしかなかった。だが今回は自分の足で進んでいく。
「……凄い」
砂浜に立ったカレンは、足元を見つめた。
白い砂。波の音。海から吹いてくる風。自分の足。
「本当に……歩いてる」
カレンはゆっくりと砂浜を歩いた。一歩。また一歩。砂に足跡が残る。それを見た瞬間、胸がいっぱいになった。
「私の足跡……」
これまで海の中を泳いでいた彼女には、自分の足で地面に残す足跡など存在しなかった。
それが今はある。カレンは何度も歩いた。
砂浜を端から端まで歩いてみる。少し走ってみる。
転びそうになって笑う。仲間たちも、その様子を温かく見守っていた。
「嬉しそうですね」
孔明が微笑む。
「人魚にとって、地上を歩くのはある意味、夢であるからな」
悪魔将軍も頷いた。
だが、その時間は長く続かなかった。
「……あれ?」
カレンが立ち止まる。
「そろそろか……」
カレンの動きがぎこちなくなった。
キテレツ斎はなにが起きたのかを理解した。
「なんだか……」
カレンの足に力が入りにくくなっている。
「薬の効果が切れそうになっているんだ」
キテレツ斎そういった直後。カレンの足が再び変化し始めた。
二本の足が一本へと戻っていく。人間の脚が消え、魚の尾へと戻っていく。
「あ……」
カレンは驚きながらも、その場に座り込んだ。
変化が終わる。そこにいたのは、いつもの人魚のカレンだった。
「……戻っちゃったわ」
カレンは自分の下半身を見つめる。
「効果時間は思ったより短かったか。やはり、人魚に対して使う場合は調整が必要だな」
「……でも」
カレンは小さく笑った。
「歩けたわ」
「カレン……」
「短い時間だったけど……ちゃんと歩けた」
カレンのその顔には寂しさもあった。
もっと歩きたかった。もっと遠くへ行きたかった。町にも行ってみたかった。 森の中も探索してみたかった。仲間たちと一緒に、何の心配もなく島を歩いてみたかった。だからこそ、効果が切れたことは残念だった。だが同時に、希望も生まれていた。
「キテレツ斎さん」
「はい」
「もう一度、作れますか?」
「もちろん」
キテレツ斎は頷いた。
「ただし、次はもっと長く効果が続くように研究する必要がある」
「どれくらい?」
「まずは半日を目標にしよう」
「半日……」
カレンはその言葉を聞いて目を輝かせた。
朝から薬を飲めば、昼過ぎまで歩ける。あるいは昼に飲めば、夕方まで。それだけあれば、島を探索することもできる。
町を歩くこともできる。仲間たちと一緒に買い物へ行くこともできる。もしかしたら、これまで諦めていたことができるかもしれない。
「研究してもらえますか?」
「ええ。私も興味がある。人間でなく人魚に対して獣の涙を使用した場合、どのような変化が起きるのか。薬の効果時間を延ばせるのか。そして、安全性をどこまで高められるのか」
「ありがとうございます!」
カレンは頭を下げた。
「私も手伝います!」
「ああ、ありがたい。ただし、無理は禁物だ」
「はい!」
それからキテレツ斎は、獣の涙の研究を始めた。
薬の成分を調べる。人魚の身体構造について確認する。
効果時間を延ばすための調整を行う。副作用がないか確認する。
そして何より、安全に人間の姿を維持できる方法を探す。カレンもまた、自分の身体についてキテレツ斎に説明した。
人魚としての生活。水中での呼吸。魚の尾の構造。地上での身体の変化。二人で何度も話し合いながら、新しい薬の可能性を探っていく。
「いつか……」
研究の合間、カレンは工房の外から砂浜を眺めていた。
今はまだ、人魚の姿、水の中なら自由に泳げる。それも自分の大切な身体だ。
だから、人間になりたいということは、人魚であることを捨てたいという意味ではない。
もう一つの可能性が欲しかった。人魚として海を自由に泳ぐこと。 そして、人間の姿になって地上を歩くこと。その両方を楽しめるようになりたい。カレンは自分の胸に手を当てる。
「何の心配もなく、地上を歩いてみたいな」
その言葉には、強い願いが込められていた。
獣の涙は、まだ不完全だった。人魚に使用した場合の効果時間は短い。大量生産もできない。安全性についても、まだ研究の余地がある。それでも。一度でも成功したという事実は大きかった。カレンは知った。自分にも、地上を歩ける可能性がある。だから研究は続く。人間の姿でいられる薬を完成させるために。
「待っていてくれ、カレン」
工房の中でキテレツ斎は薬の調合を続ける。
「必ず、もっと良いものを作ってみせる」
「はい!」
カレンは笑顔で答えた。無人島で始まった新しい研究。
それは悪魔超人軍の武器やロボットを生み出すための研究とは少し違っていた。
誰かを倒すためでもない。戦争に勝つためでもない。ただ一人の仲間が、これまで見ることのできなかった景色を見るための発明。それもまた、キテレツ斎にとっては大切な発明だった。
そしてカレンは、いつか来るその日を思い描く。地上を歩く。仲間たちと並んで歩く。砂浜に自分の足跡を残す。町を歩き、店を見て回る。森を歩き、知らない景色を見る。
「今度は、もっと遠くまで歩いてみたいわ……」
カレンはそう呟いた。獣の涙によって初めて得た、二本の足。
ほんの短い時間だった。けれど、その短い時間はカレンにとって大きな意味を持っていた。
憧れだった地上が、ほんの少しだけ身近になったのだから。だから彼女は獣の涙の研究をする。いつか、何の心配もなく地上を歩ける日が来ることを。