島に滞在するようになってから、しばらくの時間が経っていた。
当初は、次の島へ向かうまでの一時的な滞在場所に過ぎなかった。食料を確保し、島の地形を調べ、鉱石を見つければ採掘する。必要な物資を集め、記録指針が次の島を示すまでの時間を過ごす。
それだけの予定だった。しかしいつの間にか、この島は単なる一時的な滞在場所ではなくなっていた。
悪魔超人軍にとって、旅の途中で立ち寄る場所であると同時に、新たな物を生み出す場所になりつつあった。
そんな島で、孔明は一人、少し離れた場所にある岩場に腰を下ろしていた。
膝の上には一冊の本がある。表紙には何も書かれていない。
まだ正式な題名すら決めていない本だった。孔明はその本を開く。
そこには、これまでの旅の記録が細かく書き込まれていた。
最初のページには、悪魔超人軍に加わった頃のこと。
その後に訪れた島。
戦った海賊。見た生物。島ごとの気候。地形。食べた物。仲間たちの様子。
そして、航海中に見た海の景色。単なる出来事の羅列ではない。
孔明は、それぞれの出来事について自分が何を感じたのか、何を考えたのかまで書き残していた。
「……随分と増えたものですね」
ページをめくりながら、孔明は小さく呟いた。
自分でも驚くほどの量になっている。
最初は航海士として必要な情報を書き留めるだけだった。
海流。風向き。天候。 島の位置。
航海に必要な情報を記録しておけば、それで十分だと思っていた。
だが、いつからか、それだけではなくなっていた。仲間たちがどんなことをしていたのか。 どんな会話をしたのか。どんな場所を訪れたのか。どんな敵と戦ったのか。そういったものまで、自然と記録するようになっていた。
孔明は一ページを開いた。
そこには、この島について書かれている。そこには美しい森があった。
珍しい鳥がいた。食べられる木の実があり、仲間たちがそれを採取していた。
海岸ではハヤトと宗次が競争するように魚を捕まえていた。
貴虎はそんな二人を呆れた顔で見ていた。
カレンは海に入って魚を追いかけていた。
ワトソンは島に生えている薬草を調べていた。
キテレツ斎は珍しい鉱石を見つけると、目を輝かせていた。
そして悪魔将軍は――。
孔明はそのページを見て、少しだけ笑った。
いつも通り、皆を見守っていた。
必要な時には指示を出し、危険があれば真っ先に動く。
それでいて、仲間たちが自分で考えて動くことを邪魔しない。
孔明はその姿を思い出しながら、さらにページをめくった。
旅を始める前。
彼女が想像していた海とは、もっと違うものだった。
荒々しい場所。命の奪い合い。
欲望を持った海賊たちが支配する世界。もちろん、それらも間違いではなかった。
海には危険がある。
海賊もいる。海軍もいる。巨大な怪物もいる。
自然そのものが、人間を簡単に殺してしまう。
だが、それだけではなかった。
海には音があった。
波の音。風の音。船が水を切る音。帆が風を受ける音。仲間たちの声。遠くで鳴く海鳥。雨が甲板を叩く音。夜の静寂。朝日が昇る瞬間の、海の静けさ。それらを一つ一つ思い返す。
孔明は、以前先生から言われた言葉を思い出していた。
もっと多くの音を聞いてください
世界には、まだ君の知らない音色がある
あの時は、その意味がよく分からなかった。
音色というものは、楽器から生まれるものだと思っていた。音楽を奏でるための音。それが音色だと思っていた。
「……先生」
孔明は海を見る。
「こういうことだったのですね」
波が岩にぶつかる。
ザァと静かな音だった。孔明は目を細める。
海は、同じ音を二度と奏でない。同じ場所であっても、風が違えば音が変わる。
波が違えば音が変わる。時間が違えば景色も音も変わる。
そして、そこに誰かがいるだけでも変わる。
旅とは、そういうものなのかもしれない。
知らない場所へ行き。知らない人間と出会い。知らない景色を見て。知らない音を聞く。
その一つ一つが、旅をする者にしか聞けない音色なのだ。
「なるほど……」
孔明は小さく笑った。
そして、本に新しい一文を書き加えた。
旅とは、世界が奏でる音色を聞くことなのかもしれない。
その時だった。
「そんなものまで書いていたのね」
突然、背後から声がした。
「おや」
孔明が振り返る。
そこに立っていたのはロビンだった。
彼女は孔明の手元にある本を見ている。
「ロビンではありませんか」
「航海日誌?」
「ええ」
孔明は本を閉じた。
「正確には航海日誌を兼ねた記録帳ですが」
「ずいぶん分厚いわね」
ロビンが興味深そうに本を見る。
「これまでの旅を全部?」
「可能な限り感じたものを」
「へえ……」
ロビンは少し感心したように声を漏らした。
「そんなものまで書いていたのね」
その言葉に、孔明は少し呆れたような顔をする。
「私は航海士ですよ」
「そうね」
「航海士が航海日誌を書くのは、それほど珍しいことではありません」
「そういうものなの?」
「少なくとも、私にとっては当然です」
孔明は本を軽く叩く。
「航海に関する情報を記録しておかなければ、次に同じ海域を通った時に困りますからね。風向き、潮流、天候、危険な海域……記録しておけば、次の航海に役立ちます」
「なるほど」
「それに後から読み返すのも悪くありません」
「旅の思い出かしら?」
「そうとも言えますね」
ロビンは少しだけ目を細めた。
孔明がそんなものを書いていたとは知らなかった。
航海士としての記録なら理解できる。
だが、この本にはそれだけではない。 仲間たちとの出来事まで書かれている。 悪魔超人軍という集団について。
島について。 海について。 そこには、孔明が見てきた世界が詰まっているように見えた。
「随分、楽しそうね」
「ええ」
孔明は素直に答えた。
「楽しいですよ」
「……そう」
ロビンは海を見る。
しばらく二人の間に沈黙が流れた。やがてロビンが口を開く。
「ねえ、孔明」
「はい?」
「あなたは……ここにいて、どう?」
「ここ、とは?」
「悪魔超人軍よ」
孔明は少し考えた。それほど難しい質問ではない。だから、すぐに答えられた。
「落ち着きますね」
「意外ね」
「そうですか?」
「海賊でしょう?」
「ええ、まぁ、いちおうはそういうことになっていますね」
悪魔将軍は自分たちは海賊ではなく悪魔超人軍と言っている。
だから孔明も海賊でなく悪魔超人軍の一員だと認識している。
「もっと騒がしいものだと思っていたわ」
「私も最初はそう思っていました。ですが、実際には少し違いました」
「どう違うの?」
「普通の海賊たちとは違って、静かなところがあります」
「静か?」
「もちろん、騒ぐ時は騒ぎますが」
孔明はこれまでの仲間たちを思い出した。
宗次が大量の食事を食べてザウスに怒られていたこと。ハヤトが何かに挑戦して失敗したこと。
貴虎が真面目な顔で仲間たちを注意していたこと。カレンが楽しそうに海へ飛び込んだこと。
リグレットが新しい武器を試していたこと。キテレツ斎が工房に籠もって発明に没頭していること。
ワトソンが薬草を調べていること。そして悪魔将軍が、皆を見守っていること。
「皆、自分のやるべきことをしています」
「……」
「戦う時は戦う。働く時は働く。休む時は休む。食事の時には食事をする」
孔明は少し笑う
。
「不思議な集団ですよ」
「そうね」
「ですが、その不思議さが心地良い」
ロビンは黙っていた。
「普通の海賊ならば、もっと欲望を剥き出しにするでしょう。金、名誉、権力。そういったものを求める者も多い」
「悪魔超人軍は違う?」
「少なくとも、私が知る限りでは」
孔明は頷く。
「将軍は強さを求めていますが、それだけではありません……諸国漫遊を目的に楽しんでおります」
「……」
「ですから、私は居心地がいいですよ」
その答えに、ロビンは少しだけ笑った。
「そう」
それだけ言って、彼女は海へ視線を戻した。
だが、今度は孔明がロビンを見た。
「では」
「?」
「今度はこちらから聞いてもよろしいですか?」
「私に?」
「ええ」
孔明は本を閉じた。
「ロビンさんは、悪魔超人軍と冒険をしてみて、どうでした?」
ロビンの表情が止まった。ほんの僅かな時間だった。
だが、孔明には分かった。彼女の目が揺れた。
ロビンは海を見る。夜の海。月明かりを受けた水面が静かに揺れている。
「……楽しい冒険よ」
しばらくして、ロビンは答えた。
声は穏やかだった。嘘ではない。孔明には、それが分かった。ロビンは本当に、この旅を楽しんでいる。
島を巡ること。仲間と過ごすこと。未知の生物を見ること。海を見ること。危険な場所を冒険すること。それらを楽しんでいる。だからこそ、彼女の答えは嘘ではなかった。
「……」
孔明は何も言わなかった。
ロビンの答えは、全てではない。彼女自身も、それを理解しているようだった。
「楽しい冒険ですか」
「ええ」
「それは本心ですか?」
ロビンは少し驚いたように孔明を見る。
「もちろんよ」
「そうですか」
「疑っているの?」
「いいえ」
孔明は首を横に振る。
ロビンの事は疑っていない。言っていることが全てでないという事をただ見抜いていた。
「ただ、全てを語っているわけではないと思っただけです」
「……」
ロビンが黙った。孔明は追及しなかった。
航海士として、様々な人間を見てきた。海の上では、言葉だけでなく表情や仕草も重要になる。
天候の変化を読むように、人の変化を読む。それもまた航海士に必要な能力だと孔明は考えていた。
そして今。ロビンの中には、何かがある。楽しいという気持ちと同時に。
別の何かが。孔明は少しだけ考えた後、静かに口を開いた。
「空白の百年を知りたいのですね」
「……!」
ロビンの身体が僅かに強張った。
ほんの一瞬。しかし、確かに反応した。孔明はそれを見逃さなかった。
「……どうして、そう思うの?」
「これまでの旅とオハラで起きた事件から推理すれば、ある程度は」
「ある程度?」
「ロビンが歴史に関するものを見つけた時の反応です。古代文字。古代文明に関する遺物。失われた歴史を思わせるもの、そういったものを見つけた時だけ、貴女は少し違う顔をする」
「よく見ているのね」
「航海士ですから」
「便利な言葉ね」
ロビンは小さく笑った。だが、その笑みはすぐに消えた。
「……ええ」
ロビンは海を見たまま答える。
「知りたいの」
それは、とても静かな声だった。
「空白の百年について」
孔明は何も言わずに聞いている。
「この世界から消された百年。何が起きたのか。なぜ、それが隠されているのか。誰が隠したのか。そして」
ロビンは一度言葉を止める。
「その時代に何があったのか」
その声には、長い間抱えてきたものがあった。
孔明は理解した。これは単なる好奇心ではない。
彼女にとって、空白の百年は「興味のある歴史」などではない。
彼女が追い続けてきたもの。生きていく理由の一つ。自分自身が生き残った意味。そして、この世界の真実に触れるための鍵。
「悪魔超人軍と一緒に旅をするのは楽しいわ」
ロビンは続けた。
「本当に楽しいのよ」
彼女は少し笑った。
「今まで知らなかった場所を見ることができる。知らなかった人たちと出会うことができる。危険な目に遭うこともあるけれど、それも含めて冒険だと思っているわ」
「それで?」
「ここにいることが嫌なわけじゃないの」
「それは存じ上げております」
「……でも」
ロビンの声が少しだけ小さくなる。
「私は、知りたいの」
孔明は黙っている。
「空白の百年を」
ロビンは拳を軽く握った。
「ずっと追いかけてきたものだから」
夜の海から風が吹く。ロビンの髪が揺れる。
「悪魔超人軍は、そういうものを積極的に調べているわけではないでしょう?」
「そうですね」
孔明は否定しなかった。
「将軍が歴史に興味がない、という意味ではありません。ただ、現在の旅に必要なことを優先している」
「そうよね」
「我々の目的は、世界の歴史を解き明かすことではありません」
「分かっているわ」
ロビンは笑った
。
「だから困っているの」
「困っている?」
「ええ」
ロビンは自分でも少し可笑しそうに笑う。
「ここにいれば、きっと楽しいと思う」
「はい」
「仲間たちも悪くない」
「そうですね」
「居心地も悪くない」
「それは何よりです」
「……でも」
ロビンは再び海を見る。
「ここにいたら、私は知りたいものを知ることができないかもしれない」
その言葉には、迷いがあった。
悪魔超人軍を嫌っているわけではない。むしろ逆だ。
だからこそ迷っている。もし、居心地の悪い場所ならば簡単だった。嫌な環境ならば、離れる理由はいくらでもある。
だがここは違う。皆が自分を仲間として扱ってくれる。無理に過去を聞かれることもない。必要以上に踏み込まれることもない。危険な時には助けてもらえる。そして何より。この旅は楽しい。だからこそ。
「……どうしたらいいのかしらね」
ロビンが呟いた。孔明はしばらく黙っていた。やがて、静かに本を閉じる。
「ロビン」
「何?」
「貴女がしたいことをすればよいのではありませんか?」
ロビンが孔明を見る。
「簡単に言うわね」
「ええ。簡単なことですから」
「……」
「貴女は空白の百年を知りたいのでしょう?ならば、知りたいことを調べればいい」
「でも、悪魔超人軍にいる限り――」
「それならば、離れればいい」
「……!」
ロビンが目を見開いた。
孔明は淡々と続ける。
「悪魔超人軍にいることが悪いとは思いません。しかし、悪魔超人軍に所属していることが、貴女の人生の全てではないでしょう」
「……」
「貴女には貴女の目的がある」
孔明は海を見る。
「私には私の目的があります」
「あなたの目的?」
「ええ」
孔明は自分の本を持ち上げた。
「私は航海士です。そして、この旅を記録しています。私はこの旅で見たものを知りたい。聞いたものを記録したい。世界がどんなものなのかを、自分の目で見てみたい……そうすることで美しい音色が聞こえる」
孔明はロビンを見る。
「貴女も同じでしょう?貴女は歴史を知りたい」
「ええ」
「ならば、それを追えばいい」
ロビンは何も答えなかった。
「悪魔超人軍を離れることに罪悪感を持つ必要はありません。誰かに命令されたわけでもない。ここにいることを強制されたわけでもない」
孔明は少し笑った。旅というのは、自分が行きたい場所へ行くものではありませんか?と言った。
「……孔明」
ロビンは俯いた。
胸の奥にあった迷いが、少しずつ形を変えていく。悪魔超人軍に残る。
それは、とても楽な選択だった。今の仲間たちと一緒に旅を続ける。知らない島へ行く。新しい景色を見る。それは楽しい。きっとこれからも楽しい。だが。自分には、追いかけなければならないものがある。空白の百年。それを知ること。それだけは、どうしても諦められない。
「……私は、欲張りなのかしら」
ロビンがぽつりと言った。
「どうしてです?」
「楽しい旅も続けたい。でも、歴史も知りたい」
「欲張りでいいのでは?」
「え?」
「人生は一つしかありませんから」
孔明は穏やかに言った。
「やりたいことが二つあるのなら、二つとも追えばいい」
「そんな簡単にできるかしら」
「できるかどうかでなくやるかやらないかですよ」
孔明は少し考える。
「ただ、一つだけ言えることがあります」
「何?」
「やらなかったことは、後から必ず遺恨を残す」
ロビンは黙った。
「私は航海士ですから、後悔というものはあまり好きではありません」
「航海士だから?」
「ええ。航路を間違えたなら、修正すればいい。しかし、最初から進むことを諦めてしまえば、目的地に辿り着くことはありません。貴女が本当に知りたいのであれば、知るために動くべきです」
ロビンはしばらく孔明を見ていた。
やがて、ふっと笑う。
「あなたって、思ったより厳しいのね」
「そうですか?」
「もっと引き留められると思っていたわ」
「なぜ?」
「仲間だから」
「だからこそです」
孔明の返事は早かった。
「仲間だからこそ、貴女がやりたいことを止める理由にはならないでしょう」
「……」
「それに」
孔明は少しだけ悪戯っぽく笑った。
「貴女が本当に悪魔超人軍を離れたいのであれば、将軍に相談すればよいのです」
「将軍に?」
「ええ」
「怒らないかしら」
「私は将軍さんではありませんので……ただ、貴女はこの船に乗っているのであって悪魔超人軍の一員ではない。貴女の口からなりたいとは言っておらず、将軍もまた貴女を悪魔超人軍の1人と認めていません」
孔明の言葉を聞いてロビンは思わず笑った。久しぶりに、自然な笑い声が出た。
「確かにそうね」
二人はしばらく海を見ていた。
先ほどまでとは、少しだけ空気が違っていた。
ロビンの迷いが完全に消えたわけではない。
悪魔超人軍を離れることになれば、仲間たちとの別れが待っている。
それは寂しい。怖くもある。だが。自分が何をしたいのか。それだけは、もう分かっていた。
ロビンは海へ視線を向ける。広い。どこまでも広い海だった。その向こうには、まだ見たことのない島がある。
まだ知らない人々がいる。自分が長年追い求めてきた歴史が、どこかに眠っている。
「……空白の百年」
ロビンは小さく呟いた。孔明は何も言わなかった。
ただ、彼女が自分自身の道を見つけようとしていることだけは分かった。
「ありがとう、孔明」
「いえ」
「少し、楽になったわ」
「それなら何よりです」
孔明は立ち上がった。
「では、私はそろそろ戻ります。さすがに眠たいです」
孔明は本を抱え、歩き出した。