学マス短編集   作:学マスオタク

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秦谷美鈴 「まだ、呼ばない」

「プロデューサー、わたしのことを、美鈴と、呼んでいただけませんか?」

「秦谷さん、唐突ですね」

「まあ……わざわざ苗字で呼び直すなんて、いけずな方」

 

 初星学園のミーティングルーム。いつも通り集合したその場所で、秦谷さんが突然そう切り出した。

 口元に手を当て、くすくすと秦谷さんが笑う。

 我ながらいつも唐突に物事を起こす自覚はあるが、どうやら我々は似たもの同士らしい。

 秦谷さんのことなので、おそらく何かしらのきっかけはあるのだろうが……秦谷さんから唐突に話を切り出されるときは、決まって嫌な予感がするのだ。

 

「一体どうしたんですか、秦谷さん。今まで呼び方など、気にされたことはなかったと記憶していますが」

「あさり先生」

 

 伏し目がちに呟くその声色で、嫌な予感は確信に変わった。

 

「先ほど、根尾先生と話していらっしゃるのを見かけました」

「はい、秦谷さんのサボりに関してのご指摘ですね」

「まあ」

 

 至極どうでも良さそうに、関心のなさそうに、それが些事であることを表現してくる。

 

「その際、プロデューサーは先生のことを、あさり先生と呼んでいらっしゃいました。その時、思ったんです」

「伺いましょう」

「先生を下の名前で呼べるのであれば、担当アイドルを下の名前で呼んでも、何の不都合もないでしょう、と」

 

 どういう理屈だそれは。声に出すと必ず突っ込まれるので、内心だけで処理する。

 秦谷さんの表情は柔らかい。しかし、もうそれなりに長い付き合いの俺にはわかる。目が笑っていない。本気で俺に下の名前を呼ばせたがっている。

 最近は秦谷さんともかなり打ち解け、心の距離はかなり縮まっていると自覚していたが……、しかしこれ以上物理的に距離は縮めたくない、というのがプロデューサーとしての本音だ。

 大前提として、彼女はアイドルなのだ。プロデューサーとはいえ、男性でもある以上、最低限の公私は分けなければならないし、ましてや必要以上に親し気な様子を見せるなどもってのほかだろう。

 よって、ただでさえ距離が近い傾向にある彼女との距離をこれ以上詰めるのは、体裁的にも厳しいものもあるし、何よりも――

 

 方針は決まった。秦谷さんを下の名前で呼ぶわけにはいかない。一度たりともだ。一度その線を踏み越えてしまえば、きっと他の事象に対するセーフティラインまで下がってしまうことだろう。

 

「秦谷さん、俺は――」

「承知しています。プロデューサーとしての体裁を、気にされていらっしゃるのでしょう?」

 

 秦谷さんの言葉が、俺に二の句を紡がせない。

 秋の肌寒い風が、頬を撫でる。首先にぞくりと走る悪寒。予感が、首元から頭の先へと駆け巡る。

 

「大丈夫です。今、周りには誰もいませんし、一度だけです。たった一度だけ、美鈴、と呼んでいただければ、それで構いません」

「なぜ、そこまでたった一度の呼び方に拘るのですか?」

 

 あまり、聞きたくはなかった。聞いてしまえば、知ってしまえば、その先にある抗いがたい誘惑に、魅了されてしまいそうだったから。

 だがこうして聞いてしまっている時点で、既に手遅れ、もう逃れられない深みにはまってしまっているのだろう、とも思う。聞き返した時点で、自分の行動にロジックはなかった。

 

「妬ましく思ったからです」

 

 耳を澄ませてギリギリ聞き取れる程度の声量で、秦谷さんが呟く。

 肌寒くなってきた季節だというのに、なんだか普段よりも色素の濃い頬で、口元で、言葉を紡ぐ。

 

「あなたには、わたしだけを見ていてほしいんです。ほかの女性にはよくて、わたしにはだめだなんて……、許せませんから」

 

 秦谷さんの唇が、ほんの少し弧を描く。

 口ぶりから察するに、秦谷さんは俺の内心などとうに理解している。

 プロデューサーとアイドルとしての関係として、踏み込むべきではないと自分で敷いているラインを知った上で、そこを跨がせようとしている。

 俺のプロデューサーとして踏み込むまいとしている覚悟を、決意を、それも些事だと切り捨てて、自分の願望通りに動いている。

 まるで、ただ椅子から立ち上がるように自然に。

 

 正直俺には、名前呼びが彼女にとってどれだけの意味を持つのかなんて、分からない。

 普段は大人びていても、まだ高校生になって1年も経っていない女性なのだから、呼称に特別な響きを感じることはあるだろう。しかし、それを俺にも当てはめようとしてくるのは、自らの傲慢をそこに充てても呼ばせそうとしてくるのは、どんな感情に由来するのだろう。

 ほかの女性がよくて、彼女はだめだなんて許されない。可愛らしくも、恐ろしくもある独占欲。

 その根底にあるのか親愛なのか、恋慕なのか。

 しかし、それだけは問えない。そこを問えば、良くも悪くも、今度こそ踏み込んではいけないラインを越えてしまうことになる。

 

「はい、いけませんね」

 

 だから俺は、これ以上彼女の懐に入るわけにはいかない。

「俺は、あなたのプロデューサーですから」

 

 あくまでも、俺と彼女はプロデューサーとアイドルの関係だ。

 それだけではない情が湧いているのは自覚があるし、彼女もきっとそうなのだろう。しかし、この胸の奥にある感情に、名前を付けるわけには決していかないのだ。

 彼女の名前を呼ぶ。ただそれだけだったとしても、この関係性を前提にしている以上、それを揺るがしかねない行為はできない。

 

 秦谷さんは、不服気だ。内心俺が断るのなど分かってはいただろうが、むすっと頬を膨らませている。

 だから。

 

「今は、プロデューサーだから、ですよね」

 

 否定できない。淡々と、事実のみを述べる。

 

「では、その今が終わるなら、どうなりますか?」

 

 その視線は、既に答えを知っている人間のものだった。

 

「冬の、HIFの話をしましょうか」

「……冬の、HIF?」

「はい」

 

 秦谷さんの目が冴えている。

 

「今は、アイドルとプロデューサーだからだめ、と」

「ええ」

「ならば、その今が終わったら……」

 

 息を飲む。

 続きの説明は、いらなかった。

 しかし、秦谷さんはそのまま続ける。

 

「あなたは今年度で、初星学園を卒業する。その後100プロに就職することも、既に聞いています」

「はい。何も間違っていません」

 

 どこから聞いたのかはまるで分からないが、これも事実だ。

 俺は今年度でこの学園を卒業し、100プロで、今度は職業としてのプロデューサーに従事する。

 秦谷さんとの契約は、それまでだ。

 

「あなたが卒業するタイミングで、わたしとあなたの契約は切れますよね」

「そうですね」

「そのとき、もしわたしが――100プロの欲しがるアイドルだったら?」

 

 視線は逸れない。そして、それも事実だ。

 

「可能でしょうね。初星学園に籍を置きながら、100プロや、そこに所属する俺と契約を結ぶことも」

 

 彼女の目標に向かう姿勢も、その手順も、あくまで俺の感情を優先したうえで正しい。

 

「ですから、回りくどい説明はいりません」

 

 小さく、笑う。

 

「十王会長に勝ってこい。それで全部上手くいく。そう、仰ってくだされば」

 

 ……まったく。

 彼女は、最初から分かっていたのだ。

 名前を呼ばれないことも。俺が、心に引いた線を越えないことも。

 それでも、その先を見据えている。そうなって当然だといわんばかりに。

 

「分かりました」

 

 短く、答える。

 

「冬のHIF。期待しています」

 

 秦谷さんは、満足そうに息を吐いた。

 

 ――今は、まだ呼ばない。

 だが、その可能性までを否定する理由は、もうどこにもなかった。

 

 

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