学マス短編集   作:学マスオタク

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秦谷美鈴「ある夕暮れの一室で」

 

 夕暮れ時のミーティングルーム。室内には俺の他に誰もいない。無機質な室内で、キーボードを叩く音のみが響く。

 学内に無数にあるミーティングルームの中一際日当たりの良いこの部屋は、すっかり俺の指定部屋になっていた。猛暑ゆえ、好き好んでこの部屋を選択するアイドル、プロデューサーがいないため、特に予約を取らずとも使い放題のこの部屋は、なんとなく他の部屋を選ぶのも日頃のルーティンを乱されたような気持ちにさせられる俺にとって、第二の自室のようなものだった。

 

 マウスの横へ無造作に置いたハンカチで額の汗を拭い、その横にこれまた無造作に置いたアイスコーヒーを持ち上げ、飲む。既にアイスという枕詞は不適切だった。一体どれだけの時間、この液晶と向き合い続けていたのだろう。

 好きで選んだ進路、仕事だ。充実している。その心に偽りはない。しかし、心の充足と反比例するように、こめかみに軋むものがあった。

 頭痛にはカフェインが効くと聞いたことがある。一次ソースも調べないまま慣れないコーヒーに手を出して、効果の程度もよくわからないまま飲み続けた。結果は、睡眠の質が低下し新たな頭痛の種を作っただけだった。

 それでも半ば習慣化してしまったコーヒーを片手に、俺はその日の授業を終えると毎日デスクの前に座り続ける。

 

「次のライブの企画書、ですか」

 

 聞こえてくるはずのないその声に、脊椎反射で振り返る。

 狼狽する俺の姿に、くすくすと鈴が転がったような音を立てて笑う女性の姿。

 

「いつ……入ってきたんですか、秦谷さん」

「ちょうど今し方、ですよ」

 

 誰も来ないものとたかを括って作業に熱中していたが、人が……それも、担当アイドルが入室したことにすら気づかないとは。

 頭の中で自己評価を少し下げつつ、デスクを立って秦谷さんに向き直る。

 

「すみません、少し熱が入っていて気づきませんでした」

「いえ。それはよいのですが……」

 

 ふわりと鼻を擽る甘い香りがしたと思えば、刹那の間に秦谷さんが俺の一寸先に入り込んでいた。

 見下げた秦谷さんの目尻が垂れている。秦谷さんは両の手を伸ばし、持ち上げるように俺の頬に触れた。

 夏だというのにどこかひんやりとした感触に心地よさを覚える。冷やされた頬が、次第に熱を帯びてきた。

 眼下にうつる、白くて細い腕。握りしめでもすれば折れてしまいそうなそれから逃れる術を、俺は持たない。

 

 頬から指が伸びてきて、俺の瞼を通り過ぎ、涙袋に触れる。紅潮した顔面が急速に冷やされては、また熱を取り戻していく。

 

「隈ができていますよ。しばらく、休めていないのではありませんか」

 

 そう言いながら、冷たい指先が俺の目元を下って頬を撫でる。秦谷さんの表情は変わらない。目尻が下がり、どこか不安そうな顔つき。

 休めていないことは事実だったが、それは俺の意思によるものでもある。心配してくれるのはありがたいが、どこか大きなお世話だと考えてしまう俺がいた。

 

「……次のライブは、演出や構成まで、俺が手掛けたいので」

 

 言外に秦谷さんを拒絶する。さらりと出た言葉は、自分でも意外だった。

 ライブ構成について、細部が気になると止まらなかった。あちらを立てればこちらが立たずとでも言うべきか、泥沼にはまった俺は、もがけばもがくほど抜け出せなくなっていた。

 

 プロデューサーは魔法使いであれ。アイドルに弱みを見せるべきではない。プロデューサー課の教えである。

 しかしそれならもっと、「休めている」「俺は元気です」と振る舞うべきだったのではないか?

 休めていないことを否定もせず肯定もせず、ただ彼女を拒絶するような言葉を選んだのは、一体なぜなのか。

 

「困ります」

 

 秦谷さんから帰ってきたのは、これまた肯定でも否定でもなく……彼女自身の意思表示だった。

 秦谷さんの白い手が頬から離れた。同時に、熱を持っていた顔が冷え込むように感じる。

 

「プロデューサーは、私のペースを尊重してくださいますよね」

「ええ」

 

 秦谷さんが顔を上げた。少し上目遣いの瞳が、今度は怒気を孕んでいるように見える。

 

「あなたは、私のプロデューサーです。私と一緒になって、歩いて頂点を取りに行くんです」

「はい。ですから、無理にレッスンを増やすのではなく──」

「一緒に歩く誰かが足早になると、私の歩くペースが乱されます」

 

 はっきりとした物言い。俺を見ているようで、どこか俺の向こう側にある何かを見ているような感じがする。

 もうここまで来れば、俺にもわかっていた。秦谷さんは今、俺にかつての月村手毬を重ね合わせている。

 

「決めたんです。もう、見て見ぬ振りはしないと」

 

 秦谷さんが俺を通して何を見ているのか、俺が気づいていることに彼女自身もきっと気づいている。彼女の後悔という轍を、俺がなぞっている。これこそが彼女の逆鱗に触れていたわけだ。

 そして、俺にとって秦谷さんが生活の一部にいるように、彼女にとっても俺は、生活の一部だったのだ。

 

「ですから今は、私と一緒に、少し休みましょう。プロデューサー」

 

 そう言って微笑むと、秦谷さんがもう一度、その手を伸ばして差し出した。

 あくまで諭すような彼女の口調。陽だまりを歩くよう進むことがベストパフォーマンスの秘訣である秦谷美鈴。

 俺は、きっとそうではない。勉強も運動もプロデュースも、量を積んできたからこそ自信を持てるし結果を出してこれた。そう確信している。

 

 抗いがたい彼女の誘惑。俺の仕事は、秦谷美鈴の歩くペースを守ること。俺の仕事でその歩幅を乱してしまうのは、きっと意味がないだろう。

 そう心の中で言い訳を探す。結局俺は、誰かに休めと言ってほしかっただけなのかもしれない。

 

 手を伸ばせば、そのまま秦谷さんの持つ世界観に吸い込まれてしまいそうだと思いながらも、俺はその手を取った。

 秦谷さんはより一層その笑みを深めると、まるでダンスをリードするかのように俺の手を引く。眠さで意識が朦朧としていたせいもあるかもしれない。気づけば俺は、ミーティングルームのソファーに横たわっていた。

 視界にふわりと揺れるスカートの端が映り込み、秦谷さんもソファーへ腰を下ろす。いつのまにか放されていた秦谷さんのたおやかな手が、俺の髪をさらりと撫でた。

 

 視線だけを持ち上げ、秦谷さんを見上げる。先ほどまでと変わらない、深い微笑み。微笑みの向こう側は、よく感じ取れない。

 俺の体重で沈み込むソファーに対する居心地のよさと、ほのかに香る花の匂い。

 今も窓からは燦々と照りつける夕暮れの日差しが、俺の体に差し込んでいる。暑い。でも心地良い。

 秦谷さんに手を引かれるように誘ってくる闇が、秦谷さんの周囲を包み始めた。

 瞼が閉じ切る寸前、狐を描いて微笑みを模っていた秦谷さんの唇が、言葉を紡ぐ。

 

「おやすみなさい。私のあなた」

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