ざあざあと降りしきっていた雨はここ数日、途端に鳴りを潜めた。
連日深夜に限って降り注ぎ、安眠を阻害していた彼らは何処へやら。クロノス放送のキャスターが言うところ、どうにも梅雨が明けようとしているらしい。
平年の記録であれば7月下旬に凭れ掛かるはずのそれより随分と早い梅雨明け。雨水に変わり、今は夏の始まりを告げる様な日差しが、皆の下へ燦燦と照っていた。
彼の所へいたずらを含めた電話を掛け、アドレスを登録して貰った日は、既に遠い。
ミレニアムの制服に袖を通し、当番へ向かおうとして、私はふと足を止める。
このまま歩いていけば、公共交通機関を使用したとてシャーレに着く頃には酷く汗が滲んでしまうだろう、だなんて事を気にしてしまったからだ。
......彼はきっと、そんなことは気にしないだろう。気付いたとて指摘をしないだろうし、そもそも気付くかどうかすら怪しい。
でも、それをエチケットとしてだけではなく、"ただ彼にそう思われたくはない"なんて理由で厭ってしまうほど、私の心持ちは彼に占有されてしまっていた。
スっとジャケットの袖から腕を引き抜き、半袖のシャツだけになる。そうして軽く日焼け止めを塗ってから、ジャケットを小脇に、玄関扉へそっと手を掛けた。
......鞄の中に、あるものを携えて。
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『先生、こちらの書類の確認、終了しました』
『助かるよ。ありがとう、ノア。それじゃあその辺りに置いておいてくれるかな』
『ふふっ、それには及びませんよ』
『ありがと......え?』
『だって、複数点不備がありますから♪』
『そんなぁ』
『可愛い口調で繕ってもいけません。ほら、手伝いますからあと少しだけ頑張りましょう?』
私の発した言葉に少し耳を赤くしながら頷く彼を見て、満足感を得つつ、メモ帳にそっと"18:47 先生が耳を赤くし照れる"と書き込んだ。先生は不備の修正に追われて気が付いていない様だったので、"尚、先生は気付かず。職務に集中している様子"と付け足しておいた。
暫く作業を進めていれば、修正まで含めて終了したのか、ぐっと伸びをした。
『お疲れ様です、先生。確認させていただきますね』
『ああ、よろしくね、ノア。いやあ、普通は逆だと思うんだけどね』
『そうかもしれませんが......では、私の行った作業のチェックの方をお願いする形にしましょうか?』
『それは......自信ないなぁ。他の生徒の時はよくやってるんだけど、ミスを見逃してはリンちゃんによく怒られてるし』
『なら、大人しくチェックされておいてください』
『はい。そうさせて頂きます』
肩をすくめて笑う先生はおどけた調子だが、どこか疲れが見えている。
それを裏付けるように、指摘した箇所とはまた別の場所で違うミスを起こしていた。
彼の様子を窺えば、瞬きの回数が普段より少ない代わりに一回当たりの閉目時間が長く、傍目から見ても疲れている......と言うより、参っている、と言う表現が正しい様に思える。
これ以上の指摘は彼を追い込むだけだろう。いけないことだとは思うが、こっそりと修正して書類束をトントンと揃えた後、会話を投げる。
『......体調でも悪いのですか?』
『え?いや、そんなことはないけど......』
じぃっと、もう一度綺麗な瞳を見据える。キヴォトスでは珍しい黒瞳の奥に、薄い茶が見える程に。
そうすれば観念したように、彼はため息をつきながらもう一度肩を竦めた。
『ノアには敵わないね』
『そんな事を聞きたいのではないのですが......』
『分かっているよ。実は───』
そう言って彼が語ったのは、ごくありふれた事情だった。
『......要するに、暑さで気が滅入っていると』
『そうなんだよね。いや、シャーレの中は涼しいんだけれども。最近は夜も寝苦しいし、かと言ってエアコンはまだ、もう少し耐えられそうな気がしないでもないし、でも朝の出勤時から暑いしで。シャーレとの寒暖差含めて、正直頭がぼーっとしてるんだ』
『一先ず夜はエアコンをきちんと適正温度にて可動して貰うとして。気持ちは分かりますよ』
『本当かなぁ』
『何処に疑う余地があるのでしょう......?』
『だって、その格好で言われてもさ。説得力が無いと言うか』
先生が私の格好を見やる。確かに、出会った頃からさほど変わらず、制服のジャケットにスカートとタイツだ。殿方からすれば差異分からないのも無理はない。
『これでも対策はしているんですよ?ジャケットの下は夏用の半袖制服ですし、タイツだって通気性を重視したものに変えています。それに、先生もおっしゃっていた通り、シャーレの中は冷房も効いていますから』
それから───、と。
シャーレに来るまでは半袖で来ていたし、オフィスに入る前に化粧室で無香料のシートを使って汗を拭っていたのは言わない事にした。
『女の子、って感じだなあ。正直私はシャーレの冷房の温度、もう2~3度くらいは下げていいと思っているよ』
『シャーレ内オフィスの空調設備の設定温度は27度と記憶していますから......24度、と言う事でしょうか』
『そうだね。私は真夏の自室は23度とかにもしちゃうよ』
『随分と電気代が嵩んでしまう過ごし方をしていますね。ユウカちゃんに怒られちゃいますよ?』
『ははは、それはちょっと勘弁願いたいかな』
『なら改めてください。と言うのはおいておいて、先生の気落ちに関してはいかがしたものでしょうかね』
『そういえば本題はそれだったね。と言っても、慣れるしかないんじゃないかな』
ふむ、と。思考を巡らせる。
記憶力は良くても、当て嵌まる事例に遭遇していなければ対処法は直ぐに捻り出せる訳ではない。
むむむとしていれば、窓に映る自分たちに気が付いた。
どことなく疲労と、やり切った達成感に包まれた心持ち。あとは帰宅するだけだという、堕落した希望がひしめく雰囲気だ。
『本日の業務は終了していますよね?』
『え?ああ、うん。あとは消灯して冷房を切って、戸締りするだけかな』
『なら、少し散歩をしませんか?』
『散歩?今から?』
『はい。初夏の夜の散歩も中々に良いものですよ』
『そっか。なら、ご一緒させて貰おうかな』
『ではセキュリティの方はお任せしますね』
『うん。電気の方はお願いね』
最低限以外の電力を落とした辺りで、先生がセキュリティを起動してオフィスから出てくる。
そのまま温い空気の漂う廊下を歩いて裏口へ進む道中、『この感じがなぁ。お手洗いに行く時も少し億劫で』とぼやく彼の言葉に笑みを零しながら戸を開けば、やはりむわっとした温度が心を焼いた。
『やっぱり蒸し暑いね。それで、どこに行くの?』
『そうですね。少し歩いたところに公園がありますから、そちらに向かいましょう』
『了解。お供するよ、ノア隊長』
『御冗談を。後ろではなく、隣を歩いてくださいね』
夜の街を共に歩く。学生の帰宅時間はとうに過ぎ去り、制服姿はぽつぽつと。まだ注意するような時間でもないが、繁華街にいるとすれば眉を顰めたくなる時間帯だ。先生はこの時間にこの辺りの住宅街を歩く経験がないのか、周囲へ目を配りながら物珍しそうにしている。
そうしていれば、目的地の公園に辿り着いた。
『さて、着いたけど......どうするの?』
『逸り過ぎですよ、先生。急いては事をし損じる、とも言うでしょう?』
『それはそうだけれど』
彼はどこか不満げに、可愛らしく唇を尖らせて見せる。
前々から思っていたが、終業後の先生は普段よりどこか子供っぽい気がするのは、気のせいではないだろう。
『時間の浪費がそんなにお嫌いでしたか?』
『ノアと居られる時間を浪費だなんて思うわけないじゃないか』
『~ッ!?』
この人はいつもこうだ。普段は少し抜けた可愛らしい方なのに、唐突に剥き身の刀を振り下ろしてくる。
思わず紅潮した頬を隠すように俯くが、続く言葉はいつもの先生だった。
『私はただ、こんな時間に女の子を出歩かせているのを教育者としてどうかって思っているだけだよ』
『..................そう言うこと、でしたか』
『ノア、大丈夫?なんだか顔が赤い気が......』
『大丈夫です。運動不足ですかね、少々疲れてしまったようで』
『それならいいんだけど。あ、そういう事なら飲み物でも買ってくるよ』
『水でよかったよね』と言いながら、公園の脇に設置された自販機へ歩いていく彼の背中を、紅潮覚めやまない顔で伏し目がちに追う。
全く、突然言われるのには慣れないですね、と思う中で、私の好みの味を覚えてくれていたのがなんだか嬉しかった。
戻ってきた先生は、私へとペットボトルを手渡す。もう片方の手にも水のボトルが握られていた。
『水とかほとんど買わないんだけど、ノアと居る時くらいはね』
『あ、お代を......』
『いいよいいよ。いつもお世話になっているから』
私の反応を水で流してしまう。私も喉まで出かかった反論を、いくら言った所できっと無意味だろうと、渡された水で飲みこんだ。
『......それで、先生。どうでしょう?』
『え?何が?』
『案外普通にしておられますが、茹だりますか?』
『......確かに。意外と涼しいんだね、夏夜のキヴォトスって』
サっと風が吹いた。頬を撫でるそよ風は、今が夏である事を伝えると共に、その暑さを拭っていく。
『本日の風向きと気温、湿度と前線位置からして、この時間帯は良い風が吹くと予想をつけていましたが......大当たり、でしたね』
『データからの予測か。凄いね』
『こんな時くらいにしか役立てられませんけれど』
『そんなことはないと思うなあ......』
二人して苦笑する。それだけで、心が満たされる様な気がした。
『向こうの東屋で座りませんか?』
『確かに。ノアも疲れていると言っていたしね』
それは方便なのですが......と考えている随に、先生は東屋の方へ歩いていく。
少しだけ足を速めて、先生の横へ並ぶ。そうして腰を下ろせば、『は~』っと息を吐きつつ、大の字に寝転んだ。
『お疲れですね』
『そりゃあもう。でも、ノアも同じでしょ?凄いよね学生って。授業終わった後に部活とか委員会とかやってるんだから。加えて当番の日はシャーレにまで来てもらってさ』
『それを言ったら先生も朝から晩までお仕事じゃないですか。ミレニアムに行って、ゲヘナに行って、トリニティに行って......偶に倒れてしまっている事もお仕事でしょうか』
『それは言わない約束でしょ......』
『過労と栄養失調で倒れるなんて、もう許しませんからね?』
『その節は本当にありがとう。看病までしてもらっちゃってさ』
かつてシャーレの当番に就いた際、不意の呼び出しや暴動の鎮圧込みで、朝から夕方まで外回りで仕事をしていた先生が過労で倒れてしまったことがある。その時はまあ、色々あって泊まり込みで看病することになってしまっていたのですけれど......その話は、今はよしておきましょうか。
兎も角先生は生徒の呼び出しや頼み、細やかな暴動までから目を離せず、呼び出されれば直ぐに駆けつけてしまう。それによって遅延した書類仕事を夜遅くまでやって、時にはシャーレの仮眠室で夜を明かす事もある。それも私が把握している限りだけで、両手両足の指では到底足りない頻度で行っていると来れば、心配にもなるものだ。
『礼には及びませんよ。先生にはいつも助けていただいておりますから』
『......それを言うのも、こちらの台詞だと思うけど』
『なら、持ちつ持たれつと言う事ですね』
『そうだといいけどなぁ』
『そうなんですよ。きっとそうです』
『ノアが言うなら、きっとそうなんだろうね』
"ノアが言うなら"、なんて。
そんな一言だけで高鳴ってしまう私の胸の内は、一体どうなってしまっているのでしょう。
覚えのない感情がぞぞっと吹き上がり、もっと知りたい、もっと記録したいと叫ぶ餓えた好奇心が顔を覗かせた。
しかしそんな声は、突如として響く音に阻まれた。
話の間隙を縫い断続的に響き始めた水音が、次第に勢いを増していく。
ざあざあと降りゆく雨粒は、東屋を世界から覆い隠した。
『あ~、天気予報見てなかったなあ』
『傘なんて持ってないよ~』と言いつつバッグを漁る彼に声をかける。
『ごめんなさい、私が散歩なんかに誘ってしまったから......』
『いや、ノアのせいじゃないよ。誘ってもらえたのは純粋に嬉しかったし。私はただ、自分一人ならともかく、ノアまで濡らして帰らせたら大変だなと思っているだけで』
『あらあら。それでは、もう暫く雨宿りでも如何でしょう?』
『......生徒を夜遅くまで外出させたままにしておくのは不本意なんだけど、仕方がないか』
諦めた様に体を起こしたまま片胡坐を組むと、ふわあとあくびを漏らす。
疲れと眠気からか、いつもより多少気を抜いているらしい。
そんな中、雨を見ながら彼が口を開く。
『なんだか、海を思い出すな』
『海、ですか?』
『うん。全然違うんだけどさ。気分的には、こうして二人でぼーっと水を眺めてると、何となくね』
『ふふ。なかなか良い感性をしていますね、先生』
『ミレニアムプライスに優勝までした詩人に言われると、何だか箔が付いた感じがするよ』
『嫌味ですか?』
『ジョークって言うんだよ。私も欲しいな、最高の睡眠導入グッズ』
意地悪を言う軽く先生を窘めながら、私は傍に落ちていた木の棒を手に取った。
そのまま棒の先を用い、碌に掃き清掃もされていないらしい地面に固着した砂を押しのける様に筆記を始める。
『何を書いているんだい?』
『今、思い出した詩です』
『へぇ、どんな?』
"The rain is raining all around,-雨は降る そこらかしこに"
"It falls on field and tree,-雨は降る 野原や木にも"
"It rains on the umbrellas here,-雨粒は この傘にも"
"And on the ships at sea.-海をゆく船の上にも"
『綺麗な詩だね』
『ロバート=ルイス=スティーヴンソンです。宝島や、ジキル博士とハイド氏の』
『聞いたことある名前だ!』
『でしょう?なんだか、連想具合が先生の言動の様だと思いまして』
『確かに。降る雨を見て、今目の前の草木や傘に跳ねている雨粒はどこかの海を往く船の上にも弾けてるんだなあ、なんて考えもしないよね』
『"空は繋がっている"とはよく言われますが、雨や天候に対してはあまり言いませんよね』
『本当にね』
『そのようなことを第一感で思える様な感性を磨ければいいのですが......私見を交えるのは、書記としては落第ですかね』
『......そんな事は、ないと思うよ』
先生の瞳が、私のそれに刺さる。
いや、そんな物騒な表現ではない。"撫ぜる"、"触れる"、の方が自然だろうか。
『ノアは自分の事を、書記として無地の観測者であるべき、なんて言うけれど』
『きちんとそういう考えを持って自分の世界を構築している時点で、君には君の、素晴らしい感性があると私は思うな』
『もちろんその姿勢を否定する訳じゃないからね』、なんて言ってからりと笑う彼の手が、私の頭頂へと被せられた。
そんな唐突は束の間、誰かにやる癖がつい出てしまった、と言った顔で咄嗟に腕を引いてしまう。
『ごめんね、突然。嫌だったよね』
『......そんなことはありませんよ。寧ろ、暖かくて心地が良かったです』
『そ、そう?なら良かったけど』
慌てた彼の顔は面白い。
けれど、その反応だけで私の心には少しの影が奔った。
この仄暗い気持ちを発散する様に、口から嫌味が迸る。
『先生は私が撫でられるのを厭うとお考えでしたか?』
『ああ、いや、まあ......一般的に?』
『一般、ですか』
『普通に考えて10代の女の子は不用意に、それも成人男性に触られるのは嫌でしょ?』
『その一般論は正しいと思います』
『だよね?だから......』
『であるならば、先生にはどうやらその一般論の規範からは逸脱して目を掛けている生徒がいるようで』
『それは......』
図星と言った様に狼狽える。
いつもなら不敵な笑みで面白がる所ですが......残念ながら、今の私の胸中では、そんな事は出来なかった。
『誰ですか?』
『いや』
『誰でしょう?』
『えと、その、怖いって』
『誰なのですか?』
『すみません、すみません、すみません!モモイとかミドリとかアリスとかユズとか、あとヒナとか......』
そこから複数人の生徒の名前が吐出される。ゲーム開発部の子たちは分かりますが、"ヒナ"と言うのはもしかしなくともゲヘナ学園の風紀委員長の事でしょうか。確かに先生の信頼を勝ち得ている、と言う話は以前アビドス砂漠で発生した事案や、虚妄のサンクトゥム戦の派遣場所に伴って聞き及んではいましたが、まさかそこまでとは。
ミレニアムの
『彼女らに失礼である事を承知で申し上げますが......先生はもしかして、外見が幼い女学生が好みなのでしょうか?』
『どう答えても角が立って揚げ足取られる聞き方しないでもらえるかなあ!?』
『でも事実でしょう?』
『......私からすれば、皆変わりなく平等に、可愛い生徒たちだよ』
『ふうん、そうですか』
皆、変わりなく、平等に。
少しモヤっとすると同時に、言質取ったりと考えた。
『それでは、もう一度よしなに』
私は先生の方へ持たれる様に頭を傾ける。
『よしなに、って今日日聞かないなあ......って、ノア?何のつもり?』
『皆、変わりなく、平等に可愛い生徒と、そう言うのであれば』
きゅっと、先生とは反対側の手で、彼の襟を掴む。
こんなに甘えるのは初めてかも知れない。からかい半分でもあるが、それでもここまでしたことはない。
先生は観念したように息を吐くと、再度私の頭へ手を乗せる。
暖かく、大きい。ヘイローの無い先生は、キヴォトスの人間である私よりも力が弱い筈なのに、どうしてこんなにも逞しく、頼もしく感じるのだろう。
手自体の質感故か、それとも積み重ねてきた実績か、時間か。いずれにせよ、その体積で幸福と言う水桶が溢れるのには十分だった。
先生の手が離れていく。その腕を掴んで再度頭頂へ押し付けたい気持ちをどうにか我慢して笑顔を浮かべる。
『満足です♪』
『そっか、なら良かったよ......』
取り繕った私の嘘を見抜くことはなく、先生はやつれた様な顔を見せる。
『......ご無理を申し上げましたか?』
『いやいや、そんな事はないんだよ。ただ、その......』
『......その?』
その先を聞くのが、少し怖い。
でも、内なる好奇と興味は止められなかった。
すると彼は一層顔を俯かせて......いや、少しばかり耳が赤いような......?
『......ノアは綺麗だから、緊張してしまって』
────────────ッ
『そう、です、か』
『何言ってるんだろうね。はは、なんて笑える事案でもないか。ごめんね、忘れてくれても───』
『忘れません』
今度は彼の眼に、私の瞳で触れる。
否。
瞳を。視線を、刺す。
そのレンズ越しの瞳へ、私のアメジストを焼き付ける様に。
『忘れられません』
『だって、私は記憶力には自信がありますから』
笑みを浮かべれば、彼も同じようにはにかんだ。
『そっか。そうだった。言う相手は選んだ方がいいなぁ』
『あら、他の生徒にも同じように思っているのですね』
『まあ、ノアには失礼かもだけど。皆可愛くて綺麗で眩しい、私の大切で大事な生徒だよ』
『そうですか。いや、そうですよね』
『そうだよ。......ああ、でも』
彼は空気に言葉を置く様に、そっと。言葉を発した。
『口に出したのは、ノアが初めてかも』
それを聞いた後、私は自分でも分かるくらいに赤くなって、固まって。
先生も自分の口からまろび出た言葉を咀嚼して、赤面して。
互いの視線を交える事はせず、正面を見つめた。
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また二人で暫く、無言で雨のカーテンを見る。
ざあざあと流れて東屋の淵まで届き始めた水流を見ていれば、また一つ針が振れた。
先生、貴方は気付いているでしょうか。
最初はほんのりとした暑さから距離を離していたのに、今は肩と肩が触れそうなこと。
そよ風が吹き抜ける間すら狭いこと。
......比例する様に、私の鼓動が早いこと。
そんなこんなと顔の火照りを取り繕った後、棒で先に書いた文の一部を搔き消して立ち上がる。
びっくりした様子の先生に、私はいつもの笑みを向けた。
『さて、こんなところで留まっていても時間が過ぎるだけです。そろそろいい時間ですし、お暇しませんか?』
『え、そうしたいのは山々だけれど、それが出来ないから雨宿りを......』
その言葉を遮るように、鞄からシャーレに来る前に入れたものを取り出す。
それは白く撥水性のある素材の包み。棒状のそれから中身を引き抜いて展開すれば、ばっと広がった。
『ノア、それ.......』
『はい♪折り畳み傘です♪』
『なんで?持っていたなら───』
『私、一度も"傘を持っていないから雨宿りをしよう"、なんて言ってはいませんよ?』
『ははっ、全く、敵わないな。本当に』
『お付き合い、ありがとうございました。リフレッシュにはなりましたか?』
『うん。とてもね。キヴォトスの夏の夜が案外過ごしやすい事も、眺める雨が乙な事も知れたから。今日はノアが先生だったかも』
『ふふふ、それなら良かったです。それじゃあ、帰りましょうか』
『そうだね。送っていくよ』
そう言って彼は自然に私の手から傘を掠め取った。
『あら、私が送っていこうと思っていたのですが』
『そう言う訳にはいかないでしょ』
『でも、私を送った後はその傘をどうなさるおつもりですか?』
『あ~、そ、それは......』
『なんて、冗談です。また、返しに来てくれればいいですよ』
『......なら、暫く借りても良いかな?』
『はい。そうなさってください』
『ありがとう。じゃあ、改めて帰ろうか』
次は、業務外で逢えるかもしれない約束を結んだ。
それが、とても嬉しい。
彼の横を、少しの身長差を込め、程近い距離で歩む。
こんなことで喜んでしまうなんて。幸福を感じてしまうなんて。生塩ノアも随分と落ちたものだ。
......堕ちてしまったものだ。
この体験を。この気持ちを、この感情を記録したくないのです。
記録し、後世で見た誰かや、それこそ私に伝わる形で、残したくないのです。
この感情は、今の私だけの物にしておきたいと、そんな意味もない独占欲が芽生えて仕方がないのです。
この記録は、刹那の媒体に。曇り硝子や砂の上で留めておきたい。
初めてなんです。こんなに、誰かの事で心が動くのは。
知っていますか、先生。
私が今日、きちんと天気予報を見て家を出発して来たこと。
知っていますか?先生。
私が今日、この時間帯の降水確率が非常に高いと承知で散歩に誘ったこと。
知ってますか、先生?
私が今日、この時間帯に降る雨が、通り雨だと知っていること。
先生。気付いてくれますか?
私が今日、貴方ともっと一緒に居たいから事を起こしたこと。
......私が今、貴方ともっと一緒に居たいこと。
親友の想い人。本人から聞いたわけではないが、ユウカちゃんが先生の事を一人の異性として意識していることくらいは見ていればわかる。
私も。きっと彼女と同じ想いを、同じ相手に抱いているのだから。
今は未だ秘め事だ。伝えるのかすら分からない。
どこか抜けていて、いつだって自分自身を勘定に入れない貴方に伝わるとも思えない。
でも。伝えたい気持ちと、伝わって欲しい気持ちと、届いて欲しい気持ちは本物だ。
東屋を出る前に削った語句は、最終節の"And on"。
"It rains on the umbrellas here,-雨粒は この傘に"
"the ships at sea.-海をゆく船に"
こうしてみれば、まるで別の解釈が生まれると思いませんか?
この雨と言う、貴方の感性が"海"と称した中を進む一つの傘が、雨に打たれる一艘の船であると。そう言う比喩に、見えてきませんか?
この雨が、通り雨だと知っている。
それでも、もし。この傘の下以外の全てが押し流されたとしたら
貴方と私は、
そんな想いを、見えぬ夜凪へ馳せながら。
私と貴方は、ただ一艘の
生塩ノアに脳を焼かれて、初めて書いたノアSS。
今でもお気に入りで、こう言った湿度の二人を見ていたいです。