方舟航行記録   作:不知火さん

3 / 4
"愛飢え"を。

 

 

 

 "あいうえお"

 私達の言語を操る文化圏なら、初めに習う言葉の羅列だ。

 いいえ。言葉どころか、ただの母音。その形式的な指導に過ぎない。

 

 五十音を頼りに、マス目の右上から指なり指示棒なりで指し示し、口腔を開いて、「あ」、と。

そこから先へ発展するために教わる、口と舌の位置のチュートリアルだ。

 

 確かに偶然なのだろう。そこに意味合いを持たせる意味はなく、先に言ったように唯の羅列だ。

 

 でも──────

 

 

 

 

 

────────────────────────

 

────────────

 

──────

 

 

 

『先生は、飢えたことはありますか?』

『......唐突だね、ノア』

『思いついてしまったもので。ご迷惑でしたか?』

『いいよ。ちょうど一段落したところだしね』

 

 

 ぱらぱらと雨が降る。この陽気の日だけはとんとなりを潜めてしまうキヴォトスの喧騒が、何処か名残惜しい。

 

 先生はキィと椅子を回転させ、軋む音を立てながら立ち上がる。その様子を見て、私は先んじてそちらへ向かい、マグを二つ手に取った。片方はお気に入りのブランド品。もう一方は、同じブランドの別製品。ロゴだけが同じの陶器と陶器がぶつかる甲高い音が木霊する。

 彼は私の行動を見て、『敵わないなぁ』と言いつつ、立ち上がりかけていた体を止め、再度腰を下ろした。

 

 

『先生の事であれば、大方は察しがつきますよ』

『大きく出るね。ちなみに今のはどうして?』

『データです。全て統計ですよ♪』

 

 

 珈琲豆を選定し、選び取る。水を中心に摂取していた私は何処へか。香りに目を向け始めてからは、新しい景色が広がったように思う。飲料だけではなく食事まで。素材の味そのままを味わおうと調味料をなるべく使用しない調理にも香りを楽しむ概念が入ったことによって、随分と一般的な範囲での"薄めの味"に近づいた気がする。

 また、先生に振る舞う機会があれば───そんな考えを巡らせながら熱湯を注ぎ入れた。

 

 

『あのような話の流れ......業務中に小休憩に入ろうとする際、先生は73%の確率で珈琲を口に含みます』

『へ、へぇ』

『しかし、本日の先生は今から16分22秒前にカップの中身を飲み干していらっしゃいました。それを先生も認知していることは、10分51秒前に空になったマグに手を掛けて戻していらっしゃった際に確認済みです』

『......』

『その先生が席を立ち、あまつさえ椅子を回し、足先を給湯設備(こちら)の方へ向けたとなれば......あとは説明しなくても良いのではないでしょうか』

 

 

 スプーン2杯程の粉に熱湯を注ぎ込み、ひと回し。ふわりと立ち上る香りが、拡散と言う現象の教本だ。

 その香りを一身に受けながら、私は先生の待つデスクへと歩み寄り、ソーサーとカップとティースプーン、砂糖とミルクを添えておく。彼は『出来た当番だねぇ......』とぼやきながら、ミルクのパッケージを開け始めた。

 

 

『それにしても本当にノアは良く見ているよね。記録している、と言った方がいいのかな』

『客観的な視点を常に持ち続ける、と言うのはまだ先生には及びませんが、密度と記憶力であれば、私の方が勝っておりますので♪』

『......その二点で私が君を超える事は、金輪際ないだろうけどね』

 

 

 『あ。美味しい』と口にしながら珈琲を飲む彼は、そういえばと言ったようにカップから口を離す。

 

 

『それで、なんだったっけ。飢えたことはあるか......だっけ?』

『はい。先生は、飢えたことはおありですか?』

『う~ん、空腹、ならあるけれど。有難い事に、飢える、とまでなったことはないかもね』

『ああ、そうではなく』

『なら、何に?』

『もっと、こう......愛、とか』

 

 

 ぶっ、と。先生が口に含んだ液体を吹き出した。慌てて駆け寄り、シミになる前にと、机と衣服を拭う。一通りさっと済ませれば、漸く落ち着いたらしい彼は最後に咳を零しつつ、『ごめん、急に。ありがとう』と申し訳なさげに微笑んでくれる。

 

 私は彼のこの顔が、堪らなく好きだ。

 

 

『......それはそれとして。珍しいね』

『私が語る内容として、でしょうか』

『まあ、そうかな』

『酷いです、先生。私とて年頃の乙女なのですから、そう言った事を気にしても良いではありませんか。それとも───』

 

 

 ずい、と。隣の席に座る先生の方へ身を乗り出してみる。

 

 

『──────私には、不似合いな話題だと?』

 

 

 彼は咄嗟に体を仰け反らせ、少しばかり頬を赤くした。

 

 

『そんなことないよ。ノアもそういう子だってのは知ってるから。君は大人びているけれど、普通の女の子で、私の大切な生徒だ。でも、そう言った話題がノアから出て来たことは無かったから』

『そうでしょうか......?』

『......そちらの方が珍しいね?ノアがした会話の内容を覚えていないなんて』

 

 

 そう言われて私はハッとする。私は先生に対して話すとき、少なからず親愛を向けて話していたため、そう言った話をしたことがあるものとして記憶していたけれど......この人は本当に......

 

 

『......いつもいつも、肝心な所で鈍感なんですから』

『なんで!?』

『もう、知りません』

『この会話!この流れ!前にやらなかったっけ!?』

 

 

 慌てふためく彼を尻目に珈琲を口に含む。流石に彼も覚えていたらしい。わなわなと手指を動かす彼が面白くて、『なんて、冗談です♪』と微笑めば、彼も安心したように息を吐いた。

 

 

『それで、とんでもなく話題が逸れて行くけれど......なんだっけ、愛に飢えたことはあるか......だっけ』

『はい。どうなのかな、と』

『う~ん、そうだね。端的に言ったらいつも満たされてはいるよ。けれど、常に渇望もしているのかもしれない』

『常に満たされているのに、渇望する......?』

 

 

 『うん』と短く繋いだ彼が目を配る。その視線が、私を見つめた。

 

 

『私はさ、出来た人間じゃないから』

『......十分に。いや、十二分に出来た人間だと思いますが』

 

 

 それはもう、出来過ぎている。

 生徒の為なら。生徒の未来の為なら、己が命を顧みない。

 何時如何なる時も生徒を優先し、その協力を惜しまない。

 

 私は何かの宗教の信徒ではないけれど、彼の事をなんと形容するかを問われれば、真っ先に"聖人じみた精神性"と答えてしまうかもしれない。

 勿論それが彼の全てではない。もしそれだけならば、多くの生徒から彼に向けられる感情は親愛や信頼、......恋情などではなく、畏敬や崇拝となっていた筈だ。

 

 彼の優しさ自体が心苦しい時もある。けれど、やはり矛先が自分に向いた瞬間は嬉しいものだ。

 

 そんな私の想いはいざ知らず。彼は困ったように頭の後ろを掻いて苦笑いを浮かべる。

 

 

『ありがとう、ノア。確かに私は生徒たちの為なら。君たちの未来の為ならどれだけでも頑張れるし、その自信もある。そう言った面を指して、私の事を頼りになるとか、優しいだとか。皆、そんな風に語ってくれるよね』

『そうですね。先生は確かに私生活を中心として、余り健康的ではない面があったり、時に言動に怪しさが滲む事もあったりしますが......それを差し引いても余りあるくらい、素晴らしい一面をお持ちだと思います』

『ははは、なんだかこそばゆいやら耳が痛いやら......兎も角ね。そう言った所以外で......そうだな』

 

 

 どう説明したものか、と頭を捻っている様子。そうしている内に、彼の視線が机の上にある大きな自立式のコルクボードに留まる。それを愛おし気に人差し指でなぞった。

 

 

『これとかね』

『それは......皆さんの......』

 

 

 そこにあるコルクボードには、折り重なるようにして留められた写真の数々や、辛うじて判読可能な程に重ねられて張られた付箋が飾られている。その中には私の[[rb:早瀬 ユウカ > 可愛い親友]]の書いたらしい文字まであった。先生もその"領収書は整理してあります"とだけ書かれた付箋を指して、『本当に有難いよね』と笑う。

 

 

『私はさ。生徒の皆が笑って、時には泣いて。それでも、自分の道を自分の意志で選んでくれるのが一番の喜びなんだよ』

『だからこうして、皆が育んだ思い出をおすそ分けしてくれたり、皆と思い出を分かち合ったりって風に。そうだな、君風に言うのであれば、コルクボードやアルバムの中身は、皆が"記録"して私に共有してくれた思い出の証なんだよ』

『それを貰える度に、微弱ながら力を貸せたのかなと思うし、満足もする』

『けれどね、足りないんだ』

 

 

 嚙み締める様に、彼は言う。

 

 

『こんなおじさんがどれだけの力になっているかなんて分からないけれど。少しでも力になれているのなら、もっと見たいんだよ』

『まだまだ生徒たちの。君たちの青春の記録(ブルーアーカイブ)はこんなものじゃないはずだろうってね』

『だからそういう意味では、君たちから貰う信頼(あい)に飢えている、と言えるんじゃないのかな』

 

 

 『なんて、クサかったかな』と言いながら。心の底からの吐露の様に、彼はそう宣った。私はなんだか、呆れてしまう。それを人間が出来ていると言わずしてなんと言えばいいのだろうか。貴方を形容する無数の言葉の中に、確かにその言葉はある筈なのに。

 

 

『......先生は随分と自己評価が低いのですね』

『そう、かな。近頃よく言われるけれど』

『はい。皆さんが言っていらっしゃる通りです。他人に幸せになって欲しい、なんて願いをまるで己の傲慢であるかの様に語ってしまったら、世の中の"善い人"は根絶されてしまいますよ』

『ノアは大げさだなぁ』

 

 

 『そんなことはありません』と彼を窘める。子供っぽい反応でやめてよ、なんて言うものだから、思わず可愛いとすら思ってしまった。

 彼の元まで歩み寄ったついでに、窓の方へと歩を進める。そこにあったのは薄曇りが張られた窓。外側を濡らす雨粒は、室内に結露を滴らせる事は無い。

 

 

『ノアは、雨が似合うよね』

『......先生は、私が雨女だと?』

『そう言う訳じゃないよ』

 

 

 苦笑交じりに彼が窓際へと寄って来る。

 

 ふたり横並び。記憶の通り、心地の良い身長差。

 

 

『ノアとの時間は、どれも新鮮で思い出深いものだけれど』

『やっぱり、あの時の表情は、忘れられないなぁ』

 

 

 かっと、頬が熱くなる。

 彼の言う"あの時"とは、きっとミレニアムの廊下で、結露し曇ったガラスに詩を書いた時だ。

 思えばあの瞬間が───本当の意味で、好意の始まりだったように思う。

 

 

『あとは......ああ、そういえばノアの初当番の日も雨だったっけ』

『ふふふっ、いたずら心で電話を掛けた時でしたね。怪訝そうな声音をよく覚えています』

『スパム含めて電話がかなり来る上、あの時はそれこそ迷惑電話の後だったから。連投?いい加減にしろ!......って感じだったんだ』

『そのような形でした。......連絡先、登録していただけましたか?』

『当然だよ、生塩ノアさん』

『はい、結構です♪』

 

 

 ふたりして笑い合うその声が空間に反響する。しかし、窓の外に降りしきる雨音もそれに追従し、それを打ち消してしまう。秒速340m、刹那の共有だった。

 

 

『この前業務後に散歩をした時だって雨が降ったし。何だかこう話をしていると......本当に雨ばかりかもね』

『無論先生とお会いした日を統計すれば、晴れや曇りの日が多いのは確かですが......心なしか、雨が降る日に逢う頻度は高い気がしますね』

『やっぱりそう?』

『はい。地区によって大きく変わるので何とも言い難いですが、キヴォトスでの年間降水日数はここ数年であれば120日ほどですので......内、13日はお会いしておりますね』

『微妙に多いのか少ないのか判断しかねる日数......』

『まだ8月ですから。初めてお会いした日から96日、うち雨が降っていた日数と考えてみれば......』

『確かに、そう考えたら多いなぁ』

 

 

 そう言った先生は、珈琲を片手に、もう片方の手を私の頭頂へと置いた。

 何気なく、と言う所作に手慣れている気配を感じ取り、心に靄が掛かり始めたが......それは、手のひらから伝わる体温によって霧散した。代わりに胸中を席巻するのは暖かさと、多幸感だ。

 

 

『最近、してくれる様になりましたね』

『......しないと偶に不機嫌になるじゃない』

『そうでした?』

『そうなんだよ』

 

 

 この前の雨宿りから、先生は偶に頭を撫でてくれる様になった。私から(態度として)ねだる事もあれば、この様に先生から下さる事もある。距離が近づいた事が感触と体温で分かるこの時間は、近頃の至福の一つだった。

 

 

『それで、今日はどうしてあんな事を?』

『あんな事......ああ、"愛に飢えたことはあるか"、ですか?』

『うん。随分と急だったから』

 

 

 一口、珈琲を啜る音が響く。

 

 

『言葉遊び、です』

『言葉遊び?』

 

 

 私もマグカップを取りに戻り、また隣に並ぶ。

 

 

『言葉とは、刹那の伝達手段ですよね』

『そうだね。広義の意味では』

『秒速340mで伝わり、拡散し、同じ空間にいる人々皆に事項を共有できる、素晴らしいものです』

『火と言語は人類が産み出した偉大なる発明だと、私も思うよ』

『しかし、不確定な物でもあります。聞こえ方が違ったり、聞き間違えたり、同音異義であったり。ですから基本的に口約束と言うものは効力自体は存在する物の、その証明が非常に難しいため、改めて別の手段で契約を残しておく事が推奨されています』

『うん。何なら、ノア達がやっている仕事や私の仕事の一部もそう言った側面があるよね』

『えぇ、そうです。それくらい、あやふやな物なんです』

 

 

 窓に向け、は~っと息を吐き掛ける。結露し曇った板面を眺めていれば、端からじわりと削れゆく。

 

 

『我々が操っているこの言語は、"あ い う え お"、の母音から始まります』

『日本語だね。母国の言葉だから馴染み深くて助かってるよ』

『この語順、そのまま読んでいけば、あいうえ、が浮かぶな、と思いつきまして』

『あいうえ......愛飢え、か』

『はい♪』

『成程。確かに言葉遊びだ』

 

 

 新しい知見だ、とでも言いたげにうんうんと頷く彼に、少しだけ気分を良くする。我ながら単純極まりないと思うが......そうなってしまうのだから、仕方がない。

 

 

『母音だけで完成される単語。"お"だけ仲間外れにしてしまってはいますが......なんだか、運命的な物を感じまして』

『運命かどうかは分からないけれど、偶然にしては大分哲学的な言葉かも』

『母音とは元来、"発声時に舌や唇が空気の通りを塞がない音"の事です。つまり、愛飢え、と言う時に邪魔は入らないんですよ』

『邪魔......ははっ、確かにそうかも。良く気が付いたね』

『いろは唄を口遊んだ時に、ふと』

『そういえばそっちもあったね。言葉の並びって面白いや』

『ですよね。言葉は、本当に面白いものです』

 

 

 先生が"先生"で良かったと、切に思う。

 語彙があって、語義を識って、学びや気付きを喜べる。そんな、私にとっての当たり前を理解してくれる稀有な大人。それが、堪らなく嬉しい。これ以上ない程に、幸福な事だと思うのです。

 

 

『......でも、変わったね、ノア』

 

 

 そうして笑い合っている最中、水面に小石を弾ませる様に口が開かれる。

 

 

『そう、でしょうか』

『うん。今の"こう思いついた"、"こう考えた"、と言うもの。それは、紛れもなく君の私見だからさ。客観性に気を配って言葉を選びがちだった君なら、口にすることも無かったんじゃないかな』

『......本当、ですね』

 

 

 これは、不覚だった。

 確かにこう言ったものは基本的に、胸の内に秘めたままにするだけだった。まろび出させる事も、共有することも無かった筈だ。

 

 そうなった理由は、なんだろうか。

 

 

『......油断、しましたね』

『はははっ、嬉しい油断だね』

『先生と居ると落ち着きますが......話が弾むからでしょうか。気持ちが少々上擦ってしまう様です。まだまだですね』

 

 

 意識的では無かっただけに少しだけ気落ちする自分と、嬉しそうな彼の顔。明暗がはっきり分かれている事だろう。

 

 

『もう、笑わないでください』

『ごめんね。でも、本当に嬉しくてさ』

 

 

 そう言って彼はまた私の頭で手のひらをぽんぽんと弾ませる。そのリズムと振動は、本当に嬉しいと思ってくれているらしい事を感じさせるものだ。

 

 

『前に言ってくれたよね。"私の様に客観と主観を使い分けられるゆとりを持てる様になりたい"って』

『......言いました。私は、貴方の様になりたいとも』

『でも私は同時に何と言って、君は何と答えてくれたかな』

『それは───』

 

 

 瞬時に思い出せる。彼とした会話なら、何時でも、何でも。

 何より、コルクボードに留められた思い出(しゃしん)達の様に、彼を自らの方へ引き寄せて取った写真(ひみつ)を覚えている。克明に、鮮明に。

 

 

『"時に主観に返るゆとりも必要だ"、と。そう、話しました』

『そうだよ。流石ノアだね』

 

 

 彼はまるで硝子の工芸品を見つめる様に微笑んで。そんな優しさと興味を始めとして、種々の色で染められた感情が乗った声色で唄う。

 

 

『だから何度も言うように、君は君らしい主観を持ち合わせるべきだよ。持って、良いんだ』

『それを口にすることが、像を結ばせる事が怖いのはよく分かる。それでもだ』

『真白なキャンバスにシミがあっても良いし、時に我を出す余裕とゆとりがあっても良いんだよ』

『考え抜いた末に漏れ出たそれこそがきっと君の本音で、真に大切にするべきものなんだから』

 

 

 頭頂に乗せていた手のひらを、髪の流れのままに、なぞる様にして落とす。

 

 

『その漏れ出る本音の吐け口が欲しいなら、いつでも私がなるからね』

『そうで在れたなら、本望だよ』

 

 

 そう、言葉を結んだ。

 

 

『───そん、そんなっ』

 

 

 口がぱくぱくと動く。

 ──────動くだけだ。酸素を求める、魚のよう。

 

 声帯が痙攣してしまったかの如く擦れる。透明で、文字の先を想像出来ると評して貰えてからほんの少しだけ自信を持つことの出来た声は、見る影も無い。

 

 

『そんなことっ、言われたら』

 

 

 ヒューっと、喘鳴にも似た音が喉を抜ける。

 母音を吐く際には邪魔だてなど無いと嘯いたばかりなのに、何かが気道を塞ぐ。

 

 

『ノア......?大丈夫?』

『ゆっくり、ゆっくりでいい。無理はしないで』

 

 

 慌てた様子の先生の右手が背を撫でる。撫でる。撫でる。

 その度に落ち着いていく喘鳴と反比例する様に、鼓動が跳ねる。跳ねる。跳ねる。

 

 半ば強引に沈めた動揺は、私の脳裏にこびりついた。

 

 

『そんな事を、言われたら』

 

 

 言われたら。

 言われたら。

 

 ──────言われたら?

 

 

『────────────離れられなく、なっちゃいます』

 

 

 本能(コレ)だ。

 私の中でずっと燻っていた想いの丈、その正体。

 

 

 ぱちりと、間近で瞼が瞬く。

 長い睫毛が揺れる。

 

 繰り返し、二度、三度。

 その目尻が、弧線を描く。

 

 

『───良いよ』

『自立して、自分で[[rb:縁 > よすが]]』を見つけられるまで。私が吐け口(それ)になるよ』

『そうしてもらえるのなら、役得だ』

 

 

 眼鏡の凸面が、揺らめいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 きっとこの温もり(やさしさ)は、私だけに与えられた物ではない。

 万人(せいとたち)に、平等に与えられているモノだ。

 生徒達(わたしたち)を、平等に博愛(あい)すモノだ。

 

 

 なんて罪深い。なんて、残酷(やさしい)のだろう。

 彼にとっては、何でもない日常で。言わなければ思い出すことも無い様な。見なければ気にも留めない様な、唯の日常生活(コルクボード)なのだろう。

 

 

 

 でも、私は違う。

 

 

 

 

 

"The best portion of a good man's life little,

nameless,unremembered acts of kindness and love."

 

 

 善人の人生で最も素晴らしい部分は、名前も知られず忘れ去られた親切と愛の行為である。

 

 

 

 

 

 生塩ノア(わたし)は、決して忘れない。

 

 

 

 

 

 私は初めて、名前を付けた。

 認めるしかない。この感情を。

 

 胸の内で燻り、頭の中で鳴り止まず、手の内で熱を放つこの渇望(おもい)を。私は。

 

 執着(こい)と。

 思慕(あい)と。

 依存(こい)と。

 願い(あい)と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 初めての想いを自覚したこの日の事を、私は。

 

 ──────袖口の珈琲(くろ)思い出(シミ)を思い出し、幾度となく反芻する事になるのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    (うち)に抱えたこの、

   

                 "愛飢え(あいうえ)"を。




先生ってこう......エンジニア部やヴェリタス、ヒマリやリオとのトークでは気圧されがちですが、やはり"先生"なので。頭が悪い訳は無いと思ってて。
でもそう言った規格外の知識や頭脳を持つ天才と違って、"完全記憶"で知性の根幹を為す秀才タイプのノアとなら、哲学的な話やキヴォトスでは珍しい文学的な話が楽しく出来ると思うんですよね。
と言うか先生、絶対文系だし......

だからきっと生塩ノアと先生の間には、こんな知性に富んだ会話があると思います。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。