方舟航行記録   作:不知火さん

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愛言葉

 

『名前って、不思議だと思いませんか?』

 

 

 残暑が去り始め、束の間の、瞬きの様に過ぎ去ってしまう一瞬(きせつ)の匂いがし始めた窓枠の外を望むこのオフィスでは、今日も珈琲の香りが燻っている。

 

 香気が(くゆ)るカップを手に、くるりと彼は振り向いた。

 

 

『毎度の事ながら、随分と唐突だね』

『そろそろ慣れていただけましたか?』

『流石にね。いいよ、言い頃合いだし、休憩にしようか』

 

 

 『と言うか、それを分かっていて話しかけたね?』なんて口角を上げた彼に、『さあ、何の事でしょう?』と返す。

 上擦った自身の言葉尻が、閉塞的な硬質の床材(リノリウム)を跳ね回った。

 

 ソファへと移動する彼を追い、自身のカップを持って対面に座る。なんだか面談の様でこそばゆいが、あながち間違ってもいないのかも知れない。

 今から彼に行う事はある種、悩みの相談なのだから。

 

 

『それで、名前が不思議だと思わないか、だっけ』

『はい。その通りです』

『先ずは......どうしてそう思ったんだい?』

 

 

 立ち上がりはひっそりと、平凡に。奥ゆかしく序奏(プレリュード)が奏でられ始める。

 

 二人押しなべて、認識を擦り合わせる。

 一歩一歩、歩み寄る様に。言葉を重ねていく。

 そんな応酬の開演だ。

 

 今から合理と知性、思考と対話の世界へと旅立てる事に、胸が高鳴った。

 

 

『名前とはどういったものなのか、と考えたことはありますか?』

『名前の概念か......そうだね。私はそれこそ、"名付けたものに意味合いや概念を付加するもの"だと思うな』

『私も殆ど同様ですね。名前とは、一定の名詞として与えることで、一意的な意味を与える事が出来るもの、と認識しています』

『うんうん。一意的な意味、良い表現だね』

『お褒めに預り光栄です♪』

 

 

 彼は笑みを崩さぬまま、私の瞳を見つめる。

 

 目は口ほどに物を言う。

 『続きはなんだい?』と、投げかけられる私の言葉を待っていた。

 

 

『そこに存在する物事や事象に名前を与える。それの発端は、随分と革新的で、特別な事ですよね』

『"名付け"と言う言葉が生まれたばかりの赤子の居る家庭やペットを迎えた時なんかに使われるくらいだし、うん。自分の持つ名前や他人に名前を与えるって行為は確かに特別な事だ』

『でも、名付ける時には様々な意味を込めて、特別な儀式の様に付けられた筈のそれは、時を経るにつれて平凡になっていくと思うんです』

『名前が、平凡......』

『はい。普遍化、とでも言い換えましょうか』

 

 

 私は懐からスマートフォンを取り出す。

 

 

『私は当時、未だ自身の能力にすら気付いたか、気付かないかくらいの年齢でしたから記憶にはありませんが......このスマートフォンも、普及の始まった当初は画期的な名称だと騒がれたのではないでしょうか』

『ははは......若いなぁ......』

『先生とは10年も離れてはいない筈です』

『5年も、と言えないくらいには離れているんだよ......』

『そこまで大げさにしなくても良いのではないでしょうか?』

 

 

 先生は私達生徒ではない。その時代もあったのでしょうが、それは事実。

 しかし、お年を召している訳でも、ましてやまだ"若い"を称しても良いお年なのですから、気にせずとも良いと言うのに。

 

 ───寧ろ、年齢(そんなもの)で遠い人の様に振る舞われては困るのですけれど。

 

 

『うん、うん。まあそうだね。......でも、確かに。私の父がスマートフォンを持った時は大層珍しくて、よく触らせてもらっていたよ。スマホ、なんて言葉も珍しかった』

『そうですよね。世界のどこかには存在していたとして、自身の目の前に初めて見るものが現れた時、それに名詞を与える事で、"これはスマートフォンなんだ"と普遍化する訳です』

『ガラケーとかもそうだったな』

『ガラケー、ガラパゴス携帯の事ですね。先生は日本のご出身でしたからその呼び名ですか』

『......ガラケー、って言葉からそれがどういうものかが分かるのも、名詞の概念付加の実例だね』

『確かに。ご慧眼です♪』

 

 

 何故か先生は少しだけ悲しそうな顔をしている。

 小さく呟いた言葉を追ってみれば、『ガラケーを触ったことがない、そっか......』などと。

 

 ......ですから。そのような事は。

 などと言葉を荒げる事はしない。今更だ。

 

 

『名前を付ける事自体は特別だけれど、付ける意味は普遍化のため、と言う事なんだろうか』

『きっとそうなんでしょう。名前とは、そういうものなのです』

『人は古来から不可思議なものに名前を与える事で、畏れたり、敬ったり、啓蒙して来た側面はあるからね』

『未知の事も、名前を与えればある程度は既知になりますから』

『大地が揺れる不可思議に"地震"の名称を付けて畏れると共に、分からない理屈を"大鯰"のせいにした......とか』

『まさにそうですね』

 

 

 先生の表現はいつだって面白い。

 大変参考になる上にユーモアに富んでいる。この親しみやすさと、裏にある鋼の様な信念が生むギャップこそ、彼が多くの心を引き寄せる所以なのだろう。

 

 例に漏れず、私自身もそうである訳ですが。

 

 

 そう笑い合いながらも考えていれば、先生がマグを机に置いた。

 

 

『それで、此処までが前置きって事でいいかい?』

『......まさに。』

 

 

 『随分と長くて、起承転結も学びもある序文だね』と微笑む彼。本題を前にして、私は一度カップの中の水で口内を湿らせた。

 心なしか、口腔がいつもより乾いている気がして、もう一口。舌と顎の動きで、水分を一周潜らせる。

 

 一度前髪を弄って整える。落ち着かないのか、良く見られたいのか。自分でも分からない心持が、すっと喉元を駆け上がった。

 

 

『......怖いんです』

『何が......と、言いたいところだけれど。この前置きを挟んだって事は、"名付け"が怖いと言う事かな』

 

 

 この人は、肝心な所では鈍いが、肝要な所では鋭い。生徒の気持ちを推し量る事は致命的でも、慮る事に於いて彼の右に出る者は居ないだろう。

 

 

『私個人の私見ですが、形として残す行為には必ず責任が生じると考えています』

『形象に、責任か』

『はい。形にする。そして、記録する。その行為は一つ切り取れば他愛もなく見えますが、その物を、記録を目にした人には必ず何かの情報が与えられてしまう。たとえそれが、他ならぬ自分であろうとも』

『......』

 

 

 先生は少し黙り込む。

 きっと、私がどのような事を言いたいのかをもう彼は察している。その上で、受け止めて、言葉を紡ごうとしてくれているのだろう。

 

 だからこそ、安心出来る。

 

 

『客観的な視点を重視したい、常に第三者としての平等で公平な対応をしたい。そんな私が持ち合わせる数少ない欲求からすれば、何かを定義する事自体が、とても。......とても、歪な事なんです』

『私は、それが酷く恐ろしくて。......怖くて、堪らないんです』

 

 

 零れた私の独白を黙って聞く彼の顔を見る。その顔は、思っていた反応とは真逆の色をしていた。

 勿論想定していた色が無いわけではない。心配し、面倒を見ようとする庇護者の如き慈愛の視線。"先生"が未熟な"生徒"へ向けて然るべき色も確かに滲んでいる。

 

 しかし、それ以上に彼の表情を。目の奥を埋めていた色合いは、紛れもない"喜び"だった。

 

 

『せん、せい......?』

 

 

 去来した困惑に、思わず声が漏れる。言葉の端が溶け出して消え、空調の吐き出す排気音と同化し、輪郭も追えなくなる頃。漸く、と言った様に口を開く。

 

 

『こんな事を言うのも可笑しな話だけれど......嬉しいよ』

 

 

 新たに浮かべた陽だまりの様な微笑みは、私の心を更に揺さぶった。

 

 

『嬉しい、ですか?』

『ああ。怖いと漏らす生徒の姿を見てこんな感想を抱く日が来るとは思わなかったけれど。紛れもない本心だよ』

 

 

 先生は肩幅に開いた脚の間。そこに手を組み、私を見上げる様に見つめる。

 

 

 ──────こんな心持ちなのに、胸が高鳴ってしまう。

 

 

 彼の顔をこの角度で見つめる機会は今までになかった。大概の生徒より上背のある彼の顔は、見上げることは多くとも、見下ろすことは殆ど無い。

 

 ......私はいつも、この様な顔をしているのだろうか。

 相手を。先生を試すような、挑発するような。いたずらめいた感情を(したた)めながら、それを隠そうともせずに相手へ向けて発露してみる事で、より多くの言葉や感情が相手から引き出すことを期待する表情。

 

 否。私のそれとは似て非なる物だ。

 私には醸す事の出来ない、余裕に満ちて綽綽とした、作って振る舞う結果としてのゆとりではなく、私達よりも幾ばくか重ねた年月の中で育まれた、後進を見守り導く先人の気。

 

 彼に膝枕を所望された時の画角とも、ソファで伸びをする彼の背後から覆い被さる様に覗き込んだ時のそれとも違う。また知らない、感じた事の無い彼の雰囲気に包まれて。私はそっと、息を吸う。

 

 

『その様に感じる理由は、どう言った了見なのでしょうか......?』

『う~ん、そうだね。こういうのは秘めておく物だとも思うのだけれど......ノアになら、問題ないかな』

 

 

 『言ったこともあるしね』と付け加える彼の口元は、優しく弧を描いたままに続きを謳った。

 

 

『そりゃあ、嬉しいからに決まってるさ』

『嬉しい、ですか?私が怖がっている事が......?』

『そこじゃないよ。まあ滅多に見れない場面でもあるだろうから貴重であるとは思うけれど、それ単体だけで嬉しがっている様じゃ、先生である前に人として大事なものが欠落しているさ』

『では、どの様な......?』

『ノアにはずっと、伝えてきたことがあるよね』

 

 

 手のひらへふっと息を吹きかけ、親指から順繰りに指折り数え始める。

 

 

『ノアにはノア固有の価値観があること。それを大切にして欲しいこと。持っているからと言って客観性を得られない訳ではないこと。そして、考え抜いた末に漏れ出たものこそが、君が最も大切にするべきものだということ。......覚えているよね?』

『......はい。先生のおっしゃる事は、特に』

『特別に念入りにして欲しいわけでもないんだけどね......』

 

 

 彼は握りこまれた四本の指を見つめつつ、苦笑いを浮かべる。しかしその笑みの中には随分と嬉しさも滲んでいるのが見て取れた。

 四本の指を更に上から掌で覆うように被せると、話題が逸れたとばかりに咳払いを挟む。

 

 

『こんな話を。相談を持ち掛けると言う事はさ。......君は、何かに名前を付けようとしている。いや、既に付けたんじゃないかって、そう思ってね』

『──────ッ』

 

 

 核心を突く言葉が投げかけられ、思わず喉が詰まった。

 そして、それは正しい。

 

 

 そうだ。そうとも、そうなのだ。

 私は、曇りガラスにのみ(したた)めていた想いを、(みと)めてしまったのだ。

 

 彼の袖口。ほんの僅かに、けれど確かに。生地の純白を珈琲(くろ)色の染みが汚している。

 それを見るだけで、思い浮かべるだけで。私はあの日のあの情景を克明に出来てしまう。

 

 胸の内でずっと燻っていた想いの丈、その正体(こたえ)に気が付いた、あの日の事を。

 

 

『よく気付かれましたね』

『これだけ言葉を交わしていれば、流石に』

『......先生は、鈍いけれど鋭いです』

『矛盾してないかい?』

『でも、そうなんです』

『......ノアが言うなら、そうなんだろうね』

 

 

 "誰が"ではなく、"ノアが"。

 そう言って貰える事への高揚は既に脳髄に刻んだ筈なのに、容易くその記録を上回ってしまう。

 

 

『あれほど名付ける事を。言語化し、記録に残し、形象する事への不安を語っていた君が、一歩でも前に進んでくれた』

『あくまで私個人の考え方だったけれど。私が正しいと信じ、行く先が良い物になって欲しいと考えて伝えた事を、また正しいと、やってみようと信じて実践してくれた事が、堪らなく嬉しいんだ』

『たとえそれによって、今の君の様に、新しい壁に当たってしまったとしても』

『私が信じた生徒なら。ノアなら、また越えられる筈だからね』

『だから、嬉しいんだよ』

『それを、私にまた相談してくれた事もね。先生冥利に尽きるってヤツかも』

 

 

 人生とはその繰り返しであると、以前何処かで聞いたことがある。

 言語が分からず右往左往して。理解した所で自立の主張(一時反抗期)が始まり、また教え導かれる時期に戻る。再度の他者不要の自認(二次反抗期)を経て、学び続ける生へと回帰していく。他者からの教示を受け止め、自己の形成を行い続ける事こそが人生なのだ、と。

 

 彼が私に教えることを是とし、私が彼に導かれたいと想う限り。

 私は、やはり彼の生徒なのだ。

 

 

『そしてノアは今、名付けたその何某(なにがし)かに、怯えているんだね』

 

 

 彼我の差異に感じた嬉しさと寂しさとを同居させていれば、嫌味の一切含まれない、慈愛を込めた笑みが降る。

 

 

『その通り、です』

『......その理由は、分かっているのかい?』

『恐らく、ではありますが』

 

 

 ごくりと、喉元が鳴る。

 この先の言語化は、口にしたことは勿論、"名前を付ける"と言う行為の不可逆性を考えてしまい、そもそもの思考を最後までしていない。

 

 それでも、自身の恐怖の源泉が薄らと輪郭を帯びる程には、己の中で具象化していたのだろう。

 

 

『先ほども、申し上げ、ましたが』

『未知の事柄も......名付ければ、ある程度形を持った、その......既知となる、と』

 

 

 訥々と、言葉が漏れていく。

 彼の瞳は揺れ動くこともなく、唯々私の言葉を待ち詫びていた。

 

 

『私は己の内にある未知を、ずっと気にかけて居たんです』

『でも、最近になって。それに、思わず名前を与えてしまったんです』

 

 

 あの日の出来事を脳裏に浮かべる。

 忘れる筈もない。胸に抱いたあの、"愛飢え"を。

 

 

『でも、同じく申し上げました通り。先生のお言葉を借りるのであれば』

『名付けとは、物事を形象化して......普遍化する物、です』

 

 

 呼吸が俄かに荒立つのを感じる。

 細波程度であった心象の揺れは大禍へと膨れていく。

 

 その心の有り様を生塩ノア(じぶん)がしている事が、酷く不愉快だ。

 

 

『その行為自体に。その行為の顛末に、恐怖を。......恐れを、抱いていると言う事は』

『きっと、私は。......生塩ノアは』

 

 

 それでも。

 その心持ちすら喜ばしいとでも言いたげな眼差しがレンズ越しで爛々と輝いてていて。

 

 

『自らが名付けたこの事柄を。この、初めての事象を』

 

 

 それが、今だけは。

 今だけは、何処か憎たらしくて。

 

 

『普遍化したく、ないのだと思います』

 

 

 ──────ずっと、愛おしかった。

 

 

 

 

 

 静寂が流れる。

 

 私の胸中とは裏腹に。ただ、互いの息遣いと空調の稼働音だけが響く、凪。

 

 

 

 

 

『───それは、辛い事だね』

『君が、名付けたいとまで切望したその事柄が、その願いのせいで普遍化してしまうとしたら......恐怖を抱くのも、無理はないと思う』

 

 

 湖面に一石を投じた彼の声音は何処までも優しい。

 一言一句が思い遣りで満ちている。

 

 もし、救世主が。予言の子が、この声をしていたのなら。

 きっと私は全てを信じ、委ねてしまうだろう。

 

 

『でもね』

『君には一つ、忘れている事があるよ』

 

 

 だが、彼の次の言葉は。そんな信心を持っていたとしても、揺れ動いてしまうものだった。

 

 

『忘れている事、ですか?』

 

 

 思わず口を突いてしまう。

 これは単なる疑問ではなく、疑念を孕んでいる。

 

 

『他でもない君の......うん。"ど忘れ"、だよ』

『......ッ!? 一体、私が何を忘れていると言うのですか......?』

 

 

 言葉に困惑から来る疑念と、何か沸々と煮える何かが混ざる。

 これは、なんなのだろう。怒りではない。憤りでもない。

 

 ......焦り、だろうか。

 

 私が昔彼に言った、"自分には記憶力(これ)くらいしか取り柄が無い"と言う言葉が、否定されている。

 私から記憶力(とりえ)を、他でもない先生(あなた)が取り上げないで欲しいと。

 そんな、懇願にも似た焦燥が駆け巡る。

 

 しかし。彼は、そんな私の感情の陰りを見透かしたかの様に。また一段と違った顔を見せる。

 

 朗らかで優しい、陽だまりのそれとは違う。

 まるで褥に誘うかの如く艶やかで。......淫靡とも言える顔だった。

 

 

 こんな表現を使うべきではないと分かっている。

 分かっているのだが。

 顔の火照りが、その感覚に目を背けることを許さなかった。

 

 

『ノア』

 

 

 彼の唇が、私の名前を紡ぐ。

 

 

『ノア、ノア。』

『......生塩、ノア』

 

 

 連呼されたことなんてなかった。

 しかも、こんな顔で。こんなに間近で。囁く様に、言い聞かせる様な声音で。

 

 

『せ、先生......?』

 

 

 困惑と、"何か"へのそこはかとない期待に声が湿り気を帯びる。

 自分でも分かるほどの熱い吐息が、音を孕んだ。

 

 

『うん。その顔は、やっぱり忘れているね』

『だから、それは......!?』

 

 

 次の瞬間。先生の顔が、私のすぐ横にあった。

 きっと今までで一番近い。頬と頬とが振れるまで、紙一枚。

 

 思わずまた鳴った喉の音はきっと、彼の耳介に刺さってしまっただろう。

 

 

『名前にはさ。もう一つ、長期的に見た時に有用な効果があると思うんだ』

『それ、は......?』

『"親愛"、さ』

 

 

 ほんの少しだけ距離が生まれる。彼の黒い瞳がほんの僅かに陰る程の、虹彩の色が分かる距離。

 

 

『確かに名前を最初に付けた直後は痛快だろう。印象に残って、誰かに共有したい。分かち合いたい。または己の中に答えとして踏ん切りを付けたい。そんな想いが、自ずと事象に名前を与えさせる』

『それが広まれば普遍化もするだろうね。誰かと共に分かち合いたい感情を"共感"と呼んでみたり、何かを恐れ怖がるる事を"恐怖"と呼んでみたり。その言葉たちは今、誰もが知っていて、自分だけが感じている特別な感情とは誰一人として思わない』

 

 

 けれど、と。紡がれる言葉はそこでは終わらない。

 

 

『けれど。何かを呼び続けて、それに"名前を呼ぶ"と言う以外の感情が伴った時。その固有名詞は、誰かの中で確かに特別になっていく』

『ただの名詞で。名付けた名前で終わらせてしまえば、それは普遍化と言うのだろうね』

『でもその呼び名に唯の名詞以上の意味を伴わせた瞬間から、名前は燦然と意味を持つ筈なんだ』

 

 

 目尻が落ち、黒瞳が一層仕舞い込まれる。

 

 

『少なくとも私はある言葉の事を、洪水神話における救世主の名称であるとしか思っていなかった』

『そういう神話が世界中にある事を知った時なんか、一層固有名詞とは思わなくなったくらいに』

『けれど、今は違う』

 

 

 伸ばされた手が、頭頂から中頃に掛けて。私の白い糸を梳いた。

 

 

『この言葉から真っ先に思い出されるのは君の事で。私がこの名詞を口にする殆どの理由は、君に聞いて欲しいからになってしまった』

『君の事を想っていると。考えていると。君と話がしたいと。だから、私の呼びかけに答えて欲しいってね』

『それこそ、君が居ない時でさえ脳裏に浮かぶことがある程に頻繁に口にしているのに。呼べば呼ぶほど、より一層特別な意味を含むようになった』

『ここまで言えば。......言わなくても、分かるよね』

 

 

 梳いた先で抜けてしまった指先が行き場を失って、肩口の上で空を掴む。

 はらりと投げ出された髪束が私の胸元へ落ちれば、ほんの僅かに空気が流れて頬を掠めていく。

 

 毛先が綻ぶ軌道を目で追い切った彼は、最上とも呼べる笑みを向け、私に告げた。

 

 

『──────君の事だよ、ノア』

 

 

 待ち望んでいた言葉(なまえ)

 その名前(ことば)は、強かに私の胸を打つ。

 

 

『人は未知に名前を付けて既知にし、普遍化を試みる事で日常へ溶け込ませようとする』

『でも、そこからだ。そこからなんだよ、ノア』

『私たちは、胸の内にあるこの心と呼ばれる不確かな電気信号(パルス)を以て、情動を音に乗せる事が出来る。......言葉に、込める事が出来るんだ』

 

 

 俯きがちな姿勢で机の上に出していた掌が、先生のそれに包まれて、熱を帯びる。

 先生の体温はここまで高かっただろうか。そのような記憶は無い。記録も無い。

 

 なら。この熱情の源は。

 

 

『だから、大丈夫だよ』

『今は怖くとも。きっと君なら、その向こう側へと行ける』

『大切な何かを。愛おしいと思える誰かを、そう想える日が来たのなら』

『君が初めて付けたその名前は──────替えの聞かない、君だけの(なまえ)になる筈だから』

 

 

 握られたままの手に。冷たいのに暖かい、湿性の感覚が増える。

 その言葉を受け止め切った途端、湯船の中身が溢れる様に、止めどなく。けれども限りが有る水源が、私の瞳からまろび出た。

 

 しゃくり上げて泣いている訳でもない。劇的に何かの変化がある訳でもない。それでも、何故か声が出ないのだ。

 いや、分かっている。何か言葉を、端を発してしまえば、止まれないからだ。

 

 静かに泣く事しか出来ていない私を見て、ゆっくりと近付いた彼の腕が背中に回り、赤子をあやす際と同様、背を擦りながらぽんぽんと振動を与えてくれる。

 そこで、限界が来た。

 

 彼へ縋りついて、胸を借りる事しか出来ない。

 彼に逢える日はいっとう気を使っている化粧も、ヘアセットも。身嗜みの全てが崩れていく。

 彼の前では"手の掛からない優秀な生徒"として振る舞いたくて。可愛らしい彼の表情を見たいが故に、余裕のある立ち振る舞いを心掛けていて。シャーレ(ここ)に居る間くらいは少しでも"ミレニアムサイエンススクール2年生 セミナー所属の生塩ノア"と言う立場から逃れたくて付けていた仮面も表情も、何もかもが剥がれ落ちていく。

 

 泣きじゃくる私の顔は見られていないだろうか。彼は今、どんな表情をしているのだろう。

 この彼我の距離感は、いつまで許されるのだろう。

 

 二度と味わえないかも知れないこの温度をもっと感じたくて。そんなことを考えながら、彼の腕に抱かれている。

 

 ......いや、これは嘘だ。

 今の私に、その様な殊勝な脳領域(メモリ)は残されてはいない。

 

 

 何故ならば。

 

 

 乱された心の激流が、湖畔の安寧を取り戻す迄。

 

 

 

 ──────私は、この温度(しあわせ)を。脳裏(きおく)に刻み付けていたのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

────────────────────────

 

────────────

 

──────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『......見ないでくださいませんか』

『どうして?』

『何もかもが剝がれてしまったからです』

『ははっ。確かにこれだけ泣いていればそうかも知れないけれど......どんなノアでも綺麗だと思うよ?』

 

 

 『それこそ、体調不良で寝込んでいた時の君も見ているんだし......』とぼやいた彼へ、ソファのクッションを掴んで放る。時たまお仕置き代わりにコユキちゃんなどへ投げつける時もあるが......それとは、まあ。威力が違う。

 それでいいのだ。本気で神秘を込めて投擲すれば先生はただでは済まないだろうし、それにこれは加害ではない。抗議の意図が伝わればいいのだ。

 

 

『まあ、そう言う問題じゃないんだよね。女学生(きみたち)にとっては』

『......分かって頂けたのなら結構です』

 

 

 顔をうずめる様に抱いているクッション越しに、片目で先生を見る。

 いつもの笑みでマグカップを傾け、いつもの声で笑う。いつもと違うのは......この時間だと言うのに、アイロンのしっかりと張ったシャツを纏っている事くらいだろうか。

 

 

『先生』

『なんだい、ノア』

 

 

 彼の名を呼ぶ。

 心地いい。でも、何処か物足りなさを覚えるのは何故だろう。

 

 

『主観を持つ事すら厭っていた私に、出来ると思いますか?』

『──────勿論。だって、私の生徒だからね』

 

 

 私の生徒。

 ......物足りなさがある。

 

 

『もし出来なかったら、私は貴方の生徒足りえないのでしょうか』

『そんなことはあり得ないよ』

『何故、ですか?』

『だって。出来るまで、叶うまで。いつまででも、何回でも。先生(わたし)が君を支えるからね』

 

 

 それを聞いて、安心と共に、不安と疑念が過ぎる。

 『そんなこと、出来ないでしょうに』と、小声の指摘が漏れる程の情動(もの)

 

 ああ、思い出した。

 (かつ)える感覚。

 今度は明確に言語化出来る。

 

 出来もしない事を。やってもくれない事を、さも当たり前の様に宣う彼の言に。

 私は多くの幸せと、それ以上の憤りを感じていた。

 

 物凄く美味しくて。一口含むだけで幸せな反面、食べても食べても足りないのだ。

 

 

『先生』

『一つお願い、と言うより......お尋ねさせて頂きたい事があるのですが、大丈夫でしょうか?』

『何かな。私に言える範囲であれば答えるよ』

 

 

 "先生"

 そうだ。

 

 この一般名詞に、私はありったけの熱を込めてきた。

 その音が心地良かったから。彼を表すのに、一番の形象だから。

 

 けれど、先の話を踏まえれば。

 足りない。

 

 

『私は、不公平だと思うのです』

『......何がかな?』

『先生が、私を"ノア"と呼ぶ事が』

『......?』

 

 

 首を捻る彼の顔は困惑に満ちている。

 しかし、不公平な物は不公平だ。

 

 

『初めての当番の日に話しましたよね。"私の名前を覚えて下さい"と』

 

 

 彼の隣に腰を下ろす。肩口、二の腕、太腿部。彼の側に面する場所全てが密着する事も厭わない。

 心配と困惑と、焦燥。全てが入り混じった声で私の名前を呼ぶ彼の声を、敢えて無視した。

 

 

『ええ。確かに先生は私の名前を覚えて下さいました。覚えていてくださいました』

『その音に親愛をも乗せて頂いている、と。......本当に、嬉しいです』

 

 

 "嬉しい"等と言う言葉では収まらない熱情だ。それだけで私は、天にも昇れそうな気さえしてしまう。

 それだけで、良かったのに。

 

 

『先生は私の名前を呼ぶ。呼んでくださってそして私は、先生に"先生"と返す』

『それってやっぱり、不公平で、不平等ではありませんか?』

 

 

 左腕を、先ほどまで縋っていた胸元を経由して彼の脇の下辺りに添え、残った腕も彼の背の方へ手を這わせ、向こう(みぎ)の耳を塞ぎながら抱き寄せる。

 密着させた肢体を捩って。絡め取る様に、巻き付く様に締め付けて、逃げ場を無くして。

 一向に相手の番の来ない詰将棋をしている気分だ。

 

 彼は普段から可愛らしい反応を見せる一方で、酷くガードが堅い。

 生徒と先生との垣根を、ギリギリの所で。波間の瀬戸際まで迫るのに、それ以上は踏み込みも踏み込ませもしないのだ。

 

 しかし、それにも例外がある事を私は知っている。

 

 それは、彼本人が弱っている時。そして──────生徒が弱っている時、だ。

 

 

『ですから......私からひとつ。頼みごと兼、訪ねごと兼、我儘を。どうか、このまま。』

 

 

 深呼吸をする。

 吸って、吐いて。句を紡ぐ為に、また吸って。

 唯の発言であれば必要ない工程を踏んだのには、きちんと意味がある。

 

 裡に溜めた空気を、酸素を。呼吸ではなく、言葉に混ぜる。発言に、混ぜる。

 吐息交じりの艶声。出そうと思って出せるのか、少しばかりの不安を抱いていたが......嗚呼、問題はなさそうだ。

 

 彼を揶揄う時の声。その言の葉に、揶揄う意味ではない別の感情を乗せる。乗せたその想いごと、吐息を混ぜる。

 深みを増して、混濁させて。何処までが本気で、何処までが冗談なのか分からなくさせてしまいそうな行動と発言と態度を。浮き上がりそうな全ての葉を、想いの重石で、彼の心に留めておけるように。

 

 

 今しがた。

 貴方が教えてくれたこと。

 

 

 

 

 

先生(あなた)のお名前を、教えていただけませんか?』

 

 

 

 

 

 何時までも逃しはしません。

 "先生"と呼び続ける限り、私と貴方は教師と教え子となってしまう。

 

 種々の手段を用いて名前を隠蔽なさっている様ですが......もう、離しません。

 

 彼は驚きに目を見開いた後、ふっと諦めたようにはにかんだ。

 

 

『全く、ノアには敵わないなぁ』

『......他の生徒には、内緒にしてくれるかい?』

 

 

 私は、一も二も無く答えを返した。

 内容は.......語るまでもないでしょう。

 

 

『うん。約束だよ』

 

 

 先生は私の耳へと口元を近づける。

 先までと真逆。触れる息が心地いい。

 

 そして。

 

 

『私の名前はね────────────』

 

 

 

 

 

 

────────────────────────

 

────────────

 

──────

 

 

 

 

 

 

 その日、私と彼との間に、幾つかの決め事が出来た。

 

 一つ。彼の名前を誰にも明かさないこと。

 二つ。彼の名前を知ったことを誰にも知らせないこと。

 

 

 そして、三つ。

 

 ───二人きりの場所で、なるべく小さな声でなら。彼の名前を呼んでも良いこと。

 

 

 

 

 

 私は彼の名を、相談する時にだけ呼ぶことに決めた。

 それは、相談であるからして、自ずと二人だけの時に行うだろうから。

 

 

 ......いや、もう一つだけ。意図が在ります。

 

 

 

 彼の名を口にした時に相談をする、と。彼が気が付いてくれたのなら。

 

 その名前が、私達だけの、合言葉になる筈だから。

 

 

 

 

 そうしていつか、彼に。

 曇り硝子に記した言葉を問い質すのだ。

 

 

 

 

 

 

 "Qui aimes-tu le mieux, homme énigmatique, dis ? "

    ──────謎めいた人。貴方の一番愛する人は誰ですか?

 

 

 

 

 そうしてその時に。万が一、私が心より求める答え(なまえ)が聞けたのなら。

 その時は、私も心の封を取り払おう。

 

 

 

 

 

 きっとその時、閉ざされた方舟(へや)に響くのは。

 

                二人だけの、愛言葉。




この物語はノアのキャラクターソングでもある、絆ダイアローグ vol.15「記憶と記録の間に」のボイスドラマを聞いた瞬間に執筆を始めた記憶があります。
誕生日付近の発売だったのでノアからの誕生日プレゼントだ~と思いながら聞いた瞬間の衝撃は忘れません。

絆ダイアローグ vol.15 この景色を、私は生涯忘れる事はないでしょう。
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