窓から柔らかく差し込む日の光と、聞き慣れない一方で耳障りの良い鳥の囀りで目覚める。
体を起こし、伸びをする。
――自分でも呆れるほどよく眠れた。
異世界に迷い込んで、見ず知らずの少女の家に上がり込み、異界のグルメと祭りを堪能した後に、だ。
景真の神経が図太い事も一因ではあるのだろうが、それよりもやはり狐耳の少女――コハクが景真を受け入れ、居場所を与えてくれた、その安心感があったからだろう。
何より、人間というのは腹いっぱい食って酒でも飲めば、大抵の不安や悩みは吹き飛ぶ生き物なのだ。
窓を開き、外の空気を入れる。
深く息を吸い込むと、風に乗って金木犀に似ているが、少し甘さを遠ざけたような香りが鼻腔をくすぐり、優しく眠気を奪っていく。
頭が冴えてくるにつれ、この先のことに考えを巡らせる。
すべき事は三つ。
一つは、行方不明になった一ノ瀬春華の手掛かりを探す事。
二つ、元いた世界に帰る手段を見つける事。
三つ、――コハクに恩を返す事。
春華はこの世界にいる。
まだ、それを裏付けるものは何一つ見つけてはいないが、景真はそう考えている。それは勘か、あるいは思い込みの類かもしれない。
それでも、その前提に基づけば自分がこのネビュラに飛ばされてきた事もまた必然であると思えるのだ。
そして、春華を追う事はきっと、帰る手段にも繋がって行くはずだ。
そこに星雲救世会が関わっている……つまり、人の意思が働いているのであれば、必ず
あの時、教団施設の地下で見たそれは、魔術的であると同時に機械的な装置のようでもあった。
故に、あれと同じものがこちらの世界にもあるのではないか、と考える。
そして三つ目。
コハクは景真にとって希望そのものだった。
ただ、食事や寝床を与えてくれたのではない。
この世界で生きることを、存在を赦し、認めてくれたと感じた。
だから、彼女に何か望みがあるならばどうにかしてそれを叶えたいと思う。
“アオトカゲの女将”との会話を思い出すに、コハクもまた誰かを、あるいは何かを探している風だった。
ならば、詳しく話を聞けば春華探しのついでに情報収集をするくらいの事ならできるかもしれない。
ある程度考えがまとまったところで、柔らかいノックの音が鳴る。
「ああ」
返事をすると、昨夜と同じようにコハクが猫のようにするりと部屋に入ってきた。
「ケーマ、もう起きてたんだ。よく眠れた?」
「そりゃもう、ぐっすり」
そう答えると、コハクは安心したように微笑む。
「良かった。朝ごはん食べよう」
コハクについて食卓に向かう。
廊下にはすでに食欲をそそる匂いが漂っていた。
テーブルには丸いパンと、干し肉を下敷きに焼かれた目玉焼きが並び、牛乳のような白い飲み物が添えられている。
その既視感のある食卓に心から安堵している自分に気付く。
昨晩、祭りで食べたゲテモノ……もとい珍味の数々は、どれも口に入れてしまえば美味であったが、やはり食べるたびに勇気を求められると疲れてしまう。
「美味そうだな。コハクが作ってくれたのか?」
コハクは頷いてから、少し得意げに答える。
「パンとホルホ鳥の卵は今朝市場で買ってきた。ミルクは知り合いの所で少し絞らせてもらってるんだ」
ネビュラにも牛のような動物がいるようだ。
「干し肉は今回の旅で残ったぶん。火を通すと柔らかくなる」
「そういえば、女将さんと”公都”に行ってたって話してたな。何か探し物か?」
絶好の話題になったので、すかさず質問する。
コハクは少し逡巡した後、口を開いた。
「……お母さんを、探してる。四百年くらい前に、いなくなった」
――思わず、言葉を失った。
時間的感覚のあまりに大きな違いに頭が追いつかない。
果たして自分が千年を生きるとして、四百年前の亡くしものを探そうと思えるだろうか。
「あの頃は特に空穴が不安定だったから、もしかしたら空穴に飲まれたのかもしれない」
そう言うコハクの言葉に微かに諦観の色が滲み、僅かに伏せられた長い睫毛に心臓が突き動かされる。
「それなら、俺が君のお袋さんを連れ戻す方法を探す」
咄嗟に言葉が口をついた。
それは、軽率な言葉だったかもしれない。
あるいは、偽りの希望を与えただけだったかもしれない。
それでも、普段あまり表情を変えることのない少女が微かに覗かせた孤独の色を、僅かでも塗り返したいと願った。
「俺も人を探してて、このネビュラに飛ばされたんだ。俺はその人を見つけ出して、帰る手段も探す。もしコハクのお袋さんが向こうにいるなら、見つけ出してこっちに送り返してやる」
根拠もなしに、自信たっぷりに言い放つ。
そんな自分を一歩離れた所から、「なにヒーロー気取ってんだ」と冷ややかに笑う自意識に苛まれる。
己の発言に血が上り、顔が熱くなった。
だけど、後悔はなかった。
「うん」
目尻に涙を溜めて小さく頷き、たったそれだけ答えた花が開くような笑みが、そんなものは優しく吹き飛ばしてくれたのだ。
この約束を抱いて、明石景真の旅は幕を開ける。
朝食を終え、部屋に戻る。
冷静になろうとするがまだ鼓動が高鳴っているのを感じ、気を紛らわせるためバックパックの口を開く。
これから未知の異世界を旅するとなると、役に立つものがどれほどあるだろうか。
救急セットやクリップライトを、一つずつベッドの上に並べていく。
食糧は登山用の羊羹がいくつかあるが、そう何日も持つ量ではない。
おまけにこの世界の通貨など持っていないどころか、物の相場すら分からない。
そうなると、旅での食糧の確保は非常に難題だ。
採取や狩猟で自給自足する……というのもあまりに非現実的だ。見た事もない植物から食べられる物かどうか判断などできるはずもないし、狩りなどした事がない上に道具も無い。
路銀を稼ごうにも、この世界で自分にできる仕事が存在するのかすら分からない。
――これが異世界で生きるという事か。
いかに自分が世界に”生かされていた”かを思い知る。
そして、自分がこの世界にとって異物であるという事も。
つくづく、あの時コハクに出会えたことは幸運だったのだと思えた。さもなくば、人里に辿り着けたかすら怪しい。
とは言え、いつまでも彼女に頼りきりという訳にはいかないし旅に出ればどのみち一人になるのだ。
ならばこの世界で生きて行く術を、彼女から学ばねばならない。
ふと、バックパックのサイドポケットにしまっていたスマートフォンの存在に気付く。
バッテリーを温存するため、森で目覚めてからすぐに電源を落としたのだ。
この世界では当然電波が通じる事もなかったが、もし現世に戻れた際、見知らぬ場所に放り出されたらきっと必要になるだろう。
なんとなく電源を入れてみると、いつも通りの画面が立ち上がる。
右上のアンテナピクトは圏外表示だが、ふと妙なことに気づいた。
バッテリー残量が100パーセントになっている。
昨日、電源を落とした時点では70パーセント程度だったはずだ。それがなぜ、鞄に入れていただけで満タンになっているのだろうか?
設定を開き、バッテリーの状態などを確認するが特に異常はない。
あちこちいじり回してふとバッテリーアイコンに目をやると99パーセントに減少し、充電中のマークが点いたかと思うと次の瞬間――再び100パーセントの表示に戻った。
「……勝手に充電されてる?」
もしやと思いデジタルカメラも確認してみると、同様にバッテリーは満タンの状態を維持していた。
原理は分からない。だが、ここでは何か不思議な力が働いているだろうと納得する以外になかった。
何より、バッテリーの心配をしなくていいのならそれは僥倖と言える。
スマートフォンでいつでも時間が確認できるなら、時計を合わせておくか。
そこまで考えて、自らの浅はかさに気付く。
異世界で地球の時計が使えるはずがない。
ネビュラでも太陽が昇り、沈む。それは間違いない。
つまりネビュラもまた地球と同じく惑星で自転しており、その速度が地球と同じであるという事はあり得ないはずだ。
しかしなぜか無性に気になり、コハクに尋ねに行く事にした。
コハクはちょうど、朝食の片付けを終えたところだった。
「コハク、この世界に”時計”ってあるのか?」
そこまで言って、無意識に口にしたネビュラの言葉に”時計”が存在する事に気がつく。
「あるよ。見たいの?」
「ああ。見られるか?」
コハクは頷くと、タオルで手を拭ってから家の外に景真を連れ出す。
向かった先は、コハクの家がある地区の集会所のような建物だった。
教会のような門構えで、上部には鐘楼が立っていた。そう言えば朝方、鐘の音を聞いた気がする。
コハクが扉を開け、それに続いて中に入る。
中は無人で、広間に高窓から朝日が差し込んでいる。
椅子が端に寄せられており、集会の際にはこれを並べるのだろうか。
がらんと空いた空間のその先に、異邦人を待つようにそれは佇んでいた。
十二の数字を刻まれ、景真の知る一秒と同じ心拍を刻む、巨大な振り子時計が。
景真は思わず息を飲む。
大きな振り子が振れ、それが六十回で長針が一つ、”時計回りに”動いた。
その動きは景真の知るそれと全く同じだ。
スマホを取り出し、ストップウォッチのアプリを立ち上げ、震える指でスタートを押した。
――そこで刻まれる一秒もまた、振り子の動きと息を合わせるように同じ間隔を刻んでいる。
「……ネビュラでは、一日は24時間なのか?」
その問いに、コハクはさも当然のように答える。
「うん。オービスとは、やっぱり違う?」
「じゃあ、一年は?」
「……? 365日」
頭を殴られたような衝撃に眩暈がし、思わずふらつくとコハクがその背中を支えてくれた。
「大丈夫? ケーマ、顔色が……」
心配そうに見上げるコハクに平気だと左手を挙げて見せる。
カチ、カチという振り子の音が響き、いくつもの可能性が頭の中を駆け巡る。
しかし、全ての疑問に説明がつく”可能性”はやはり一つしかないように思えた。
――ネビュラは未来、あるいは過去の地球である。
この仮定に立てば一年、一日の長さが同じ事も、呼吸ができている事も、重力に差を感じない事にも全て説明がつく。
そして、過去であるならばこれだけの文明や亜人種の痕跡が見つかっていない事に説明がつかない。
ならばやはり、遥か未来の地球の姿であると考えるのが最も理に適っているように思える。
しかし、それもまた仮説の域を出ない。
世界が軋む音が聞こえ、吐き気が込み上げてくる。
ここが未来ならば、自分がいた世界は、文明は滅んでしまったのだろうか?
そして、それからどれ程の時が経ったというのだろうか。
景真が新鮮な空気を求めて集会所の外へ向かうと、コハクは何も言わず付き添ってくれた。
扉をくぐり、出迎えた太陽の眩しさに目を細める。
――あれは自分の知っている太陽なのだろうか?
自分が恐ろしく無力で、小っぽけな存在に思えた。
『世界の真理』など気にも留めず、『真理』を体現するかのように自由に頭上を飛ぶ鳥を羨ましく眺める。
それでも。
ここがどこであろうと、いつであろうとすべき事は変わらない。
今はただ掲げた三つの目的を果たすために、前に進むしかないのだ。
確かめるように強く足を踏み出したその瞬間、どこか遠くで鐘の音が響いた。
――まるで誰かが、時を刻み直したかのように。
家に戻ると、コハクはそのまま景真が間借りしている部屋までついて来た。
景真はベッドに腰掛け、座り込んで尻尾を左右にふさふさと揺らしながら
その平和な光景に集会所で見たものも、この胸のざわつきも全て夢だったんじゃないかと思えてくるが、振り子の音は頭の中で鳴り続けている。
箪笥を探る手が止まり、大きな耳がピンと立つ。
コハクは立ち上がると、取り出した物を景真の前に広げてみせた。
「これに着替えて。お父さんのお下がりだけど、その服だと町じゃ目立つから」
それは濃紺の、
確かに昨晩は薄暗い中で仮装している人も多く目立たなかったが、昼間にこの格好だとどうしても人目を引くだろう。
「ありがとう。でもいいのか? 大事な物なんじゃ?」
言わば父親の形見を借りる事に
「使ってもらった方がお父さんも服も喜ぶと思うから」
そう言って、服をベッドに置く。
「着替えたら声をかけて」
部屋を去るコハクの背中を見送ってから、服に手を伸ばす。
決して新しくはないが、大切にされてきたであろうそれは手触りが良く、丈夫そうだった。
着ていた服を脱いで袖を通すとあつらえたようにサイズが合っていた。着心地も申し分なく動きやすいが、素材は全く分からない。
居間に向かい、はたきで家具に乗った埃を取っていたコハクに声をかける。
「着替えたよ」
こちらに振り返ると、視線が景真の頭と足を往復する。
「大きさは……やっぱりちょうどだね。似合ってる」
その笑顔に照れ臭くなり、鼻を掻いてごまかす。
「それじゃ、そろそろお昼だし市場に行こうか」
「買い物か。何がいるんだ?」
コハクは掃除用の前掛けのような物を脱ぎながら答える。
「昼食と、旅の支度をしないと。二人分だと結構な量になるから」
――二人分?
聞き間違いだろうか。
それとも今朝の話を「ついて来て欲しい」という風に誤解されたのか――
「私も行く」
透き通るような、一欠片の迷いもない声が景真の思考を遮るように空気を揺らす。
困惑する景真を、琥珀色の瞳が見つめている。
「ケーマがお母さんを探してくれるなら、私はケーマの探してる人を探す。この家でただ待ってるなんてできない」
それはあらかじめ用意していたかのような、高らかな宣言だった。
「それに、人探しならきっと私の力が役に立つよ」
「力?」
「未来を視る力。お母さんほどじゃないけど」
――未来視。
そんなものが本当に存在するのであれば、なんらあてのない人探しにおいてこれほど頼もしい能力もない。
いつもならそんなオカルトじみた話をやすやすとは飲み込めない。職業柄、その手の話にはまず疑ってかかる癖がついている。
「あまり遠くまでは視られないし、望み通りの時を視られるわけでもないけどね」
それでも景真にはもう、コハクの言葉を疑う事など考えられなかった。
「それに……ケーマを一人でなんて行かせられない。心配で」
少し、意地悪な笑みを浮かべて言う。
初めてみる顔だな、と思いながらコハクを見つめていると、その視線に気づいたコハクはさっとむこうを向いてしまった。
「……分かった。一緒に行こう」
違う。
彼女がいなければ、この世界で俺は独りぼっちだ。
だから、成り行きでもなければ、コハクがそう望んだからでもない。
彼女が必要だから共に行きたいと、他でもない俺自身がそう望んでいる。
コハクは俺をここまで導いてくれた。
右も左も分からぬ俺は、その背中を追うのでやっとだった。
だけどここからは、肩を並べその隣を歩く。
――二人の願いを叶えるために。
だから、言うべきはこうだ。
「――いや、一緒に来てくれ、コハク」
景真の言葉にコハクが黙って頷く。
そうなると知っていたかのような確信めいた首肯だった。
「これからよろしくね、ケーマ」
「こちらこそよろしく。……こっちは世話になりっぱなしだけどな」
バツが悪そうに頭を掻く景真に、コハクがくすくすと笑う。
振り子の音はいつの間にか止んでいた。