バスのドアが音を立てて開き、それを待っていたかのように一人の少女が高く結った黒髪を靡かせ、勢いよく飛び出してくる。
少女は真っ直ぐにヒスイの元に駆け寄ると、大きな帽子ごとその顔を抱き抱えた。その勢いに、遼は一歩後ずさる。
「ヒスイ様ぁあ!」
その声には既に涙が混ざっていた。
「
ヒスイが燈の頭を撫でながら小声で言う。
「う……じゃあなんて呼べば……」
「そうですね……”お姉ちゃん”、なんてどうでしょう?」
ふふふ、と微笑みながらヒスイが提案すると、燈の顔がパッと輝く。
「……ヒスイ――お姉ちゃん!」
ヒスイを抱きしめる腕に力が入り、尻尾がワンピースの中で膨らむ。
「く……苦しいです、燈。ちょっと落ち着いて……」
タップするように燈の背中をポンポンと叩くが離してもらえない。たっぷり一分ほど経ってヒスイが解放された時には、二人とも汗だくになっていた。
「……ふぅ。ヒスイさ……お姉ちゃん成分を補給できました」
爽やかな笑顔で燈が満足げに汗を拭う。
「一ノ瀬さんもお久しぶりです」
「ええ、
燈の勢いに少し圧倒されていた遼も、気を取り直して応える。
「燈でいいですよ」
そう言ってニッと笑う燈は、初対面の時の神秘的な雰囲気は微塵も感じさせない、ごく普通の少女だった。
「それにしても、よくお
遼の運転する車内後部座席で燈はヒスイにじゃれついている。
ヒスイがアニマの枯渇で倒れた際、いつもの時間にゲームにログインしなかった事を不審に思った燈は遼を問い詰めた。そしてヒスイの体調不良を知ると、会いに来ると言って引かなかったのだった。
「おじいちゃんは『社会経験になるだろう』って言ってました。代わりにお父さんがめちゃくちゃ心配してて付いて来るってうるさくて」
きっと燈の祖父、
「――それにしてもヒスイ様が元気そうで安心しました。倒れられたと聞いた時はどうしようかと思いました」
ヒスイを気遣うその言葉は先ほどまでとは打って変わり、静謐なウカノミタマノカミの巫女としての声色だった。
「ありがとう、心配してくれて」
神聖な雰囲気はすぐさま消え去り、ヒスイの言葉に目を輝かせ、一層激しくじゃれつく燈はよく懐いた大型犬を思わせた。
その姿にふと、姉の前での自分もこんな風に見えていたのだろうかと考えてから
どちらかと言えば、こちらが世話をする方だったのだ。もっとも、春華は遼にベタベタと触れるような事は無かったが。
本音を言えば、教団に狙われている可能性があるこの状況で燈が合流するというのは不安の方が大きい。
今この時にでも襲撃されるのではないか――そんな風に気が張り詰め疲弊しつつあるところに、”守るべき対象”が増えるというのが恐ろしい事に思えた。
こうして運転している間も、教団の車に尾けられていないか、どこかから監視されていないかと無意識に警戒してしまう。
しかし、どうしても二人の「会いたい」という気持ちを無碍にはできなかったのだ。
「わ……おしゃれなお店」
やって来たのは特に高級店という訳でもないイタリアンレストランだ。
個人がやっている小さな店だが、美味いコーヒーを出すので遼はしばしば通っていた。
「予約の時間なので入りましょう」
店構えをキョロキョロと観察している燈に遼が声をかける。
ドアを開くと、冷房の効いた冷たい空気が汗を冷やす。
案内された席に着き、ヒスイが自らの帽子に手をかけると燈が慌ててそれを押さえようとした。
「ちょ……! ヒスイ……お姉ちゃん! 帽子取っちゃ……」
ヒスイはそれに構わず帽子を脱いで燈を見る。
――それは渾身のドヤ顔だった。
「えっ……? それどうなってるの? 耳切っちゃった……?」
そこにあるべき大きな狐耳が見えず、燈は目を丸くして困惑している。
「ふふ、遼のお友達の美容師さんに教えてもらったんですよ」
「うわ……カリスマ美容師ってやつだ……! やっぱり東京はすごい……」
それは死語です、というツッコミが喉から出かかる。
「ところで燈さんは来年、高校受験ですよね? 夏休みとは言え大丈夫ですか?」
「勉強道具も持って来たし、こう見えて結構成績いいんですよ、私」
そう言って横に置いたリュックを手のひらで叩く。
「それに一ノ瀬さん頭良さそうだし、分からないところ教えてください。あ、私も”遼さん”って呼んでもいいですか?」
「名前で呼ぶのは構いませんが、勉強に関しては約束できません。やる事が山積みなので」
同僚から送られてきた教団の情報の精査も滞っているし、家事も当面は三人分こなさなければならない。
やるべき事が明確な刑事の仕事の方が幾分気楽に感じられる状況だった。
「分かりました! よろしくお願いします、遼さん!」
本当に分かってくれたのだろうかと疑問に思いつつヒスイに目をやると、またも真剣な顔でメニューを睨んでいる。
その横に座る燈も参戦し、あーでもないこーでもないと悩みに悩んだ結果、注文が決まるまでに実に10分を要した。
前菜の後運ばれて来たパスタを二人はシェアしながら食べ切り、締めのドルチェに、そして遼はコーヒーに口をつけようとした時スマートフォンが鳴った。
「ちょっと失礼」
遼はスマートフォンを手に一人店を出る。
「……乾さん、どうしました?」
電話の主は
乾は少し興奮した声で応える。
「一ノ瀬、今夜病院に来れるか? アニマについて少し分かった事がある」
照りつける太陽が少し冷め、街の雑踏が遠くなったように感じる。
乾は”少し”と言ったが、わざわざ連絡を入れてくるほどだ。何か重大な事実が掴めたのかもしれない。
そしてそれは
「何時ごろ伺えばいいですか?」
「……そうだな、スタッフが全員帰ってから……十九時頃に来てくれ」
「分かりました。ではその時間に」
通話を終え、遼は息を整える。
夜までに、”真理”を垣間見る心構えをしなければならない。
そしてそれが、姉の発見とヒスイの帰還に繋がる手掛かりになる事を祈った。
遼たちは約束の十九時より十五分ほど早く乾が経営する病院近くの駐車場に到着した。
もう夜と言って差し支えない時間だが、真夏の太陽は今もしぶとく空に留まっている。
昼食後、三人は燈の希望で観光地をいくつか巡っていた。
久しぶりの再会と東京観光に大はしゃぎし、疲れ果てたヒスイは後部座席に深く身を預けて眠っている。
一方の燈はヒスイと同等か、あるいはそれ以上にはしゃいでいたにも関わらずまだまだ元気を持て余している様子で、眠るヒスイの尻尾に鼻歌混じりに櫛を入れている。
これが若さか、と自分が失ってしまったものを偲びつつヒスイに声をかける。
「ヒスイさん、着きましたよ。眠かったらそのまま寝ててもらっても……」
そこまで言って、車内にヒスイ一人、あるいは燈と二人だけを残していく訳にはいかないと思い直す。
「……起きてください。全員で行きましょう」
今日は一日、人通りが多い場所を選んで周ったのが功を奏したのかは分からないが何事も無かった。
その中で徐々に警戒心が薄れていた事に気づき、気を引き締める。
「ヒスイさま〜、起きてください」
燈に肩を揺すられたヒスイが寝ぼけ
「んぅ……燈……? ご飯ですか……?」
「なに寝ぼけてるんですか。降りますよ」
燈が呆れながらヒスイのシートベルトを外し、車を降りるように促す。
ドアを開けると車内に閉じ込められていた冷気は瞬く間に霧散し、湿気を伴った熱気が体を包み込んだ。
あくびをしながら降り立ったヒスイの尻尾がワンピースからはみ出したままになっているのを燈が慌てて直している。
病院の自動ドアをくぐると、ちょうど退勤するところだったのであろう看護師の女性とすれ違い会釈を交わす。
「約束の時間のピッタリ10分前。変わらんな、お前は」
顔を上げたところに聞き慣れた声が響く。
そこには白衣姿の乾が立っていた。
「スタッフはもうみんな帰した。奥の診察室で話そう。……ん? そちらの嬢ちゃんは?」
燈の存在に気づいた乾が怪訝な顔をする。他言できるような話ではないのだから当然の反応だ。
「彼女は
遼の紹介に花が咲いたように燈が笑う。
「いぬいさん……? ですよね! よろしくお願いします!」
乾の前に出て勢いよくお辞儀をすると、ポニーテールが高く跳ねた。
「お、おう。よろしくな」
流石の乾もその勢いに気圧されているようだ。
診察室に入ると、乾と遼は向かい合って椅子に座り、ヒスイと燈は並んでベッドに腰掛けた。
ヒスイは緊張しているのか、膝の上で両手を強く握っている。
遼はあらかじめ、ヒスイに自らの体の中にあるアニマについて知る心づもりをするよう伝えていた。
「早速だが、これを見てくれ」
そう言うと、乾はデスクの上のモニターに一枚の顕微鏡写真を映し出す。
「これは……血液ですか?」
「そうだ。この間採らせてもらったヒスイさんの血だ」
乾はマウスを操作して写真を拡大する。
「その時も言ったように、ヒスイさんの血液の組成は俺たちとほとんど変わらない。だが……」
さらに写真を拡大する。
遼は医学の専門知識を持たないため詳しい事は分からないが、赤血球と思われる円が無数に表示されている。
「……ん? この点は……」
「気づいたか」
無数の赤血球の間に、さらに小さな粒子のようなものが点在している。
「そしてこれが、ブドウ糖液を添加して二時間置いたものだ」
写真が切り替わる。
一枚目より明らかに粒子の密度が上がっている。
「これが……アニマ?」
ヒスイが目を見開いてモニターを凝視している。
不可視の存在だと思っていたものが、実体を持っているという事実に驚いているようだ。
「うちの顕微鏡じゃあ動画は撮れなかったが、この粒は血液の中を動き回り増殖していた。さらに――」
カチッとクリック音がし、写真が切り替わる。
「ブドウ糖を与えなかった方は動きが鈍く、増殖もしなかった。つまり、普段はヒスイさんの体内からエネルギーを得て活動しているってことだ」
――診察室を沈黙が包む。
遼はこれらの情報から考えうる可能性を整理する。
頭に浮かんだのは、アニマが共生細菌の一種であるという可能性。
ミトコンドリアのように体内に共生し、生体システムの一部に取り込まれたのではないか。
しかしこれは、ヒスイから聞いた「アニマは生物の中、大気、水、大地に
「一ノ瀬はどう考える?」
乾が問う。
それは遼を試す、というよりは何かを確認するような声色だった。
「……考えついたのは共生細菌です。ですが、この説だとアニマについて説明しきれない」
乾が遼の答えに満足げに頷く。
「俺も最初はその可能性を考えた。だがこの粒は細菌にしては小さすぎる。しかも、100℃の高熱に晒しても活動を停止しなかった。ならタンパク質をベースにした細菌やウイルスも除外される」
ぐるりと三人の顔を見渡す。ヒスイはぽかんとした顔で聞いているが、燈は興味深そうに前のめりになっている。
「そこで辿り着いた……というより残された結論が、アニマとは無機物と有機物が結びついた”ナノマシン”なんじゃないか、というものだ」
――ナノマシン。
細胞よりもさらに小さな、ウイルスサイズの機械を意味する言葉だ。しかし、ようやく実用化に向けて動き出したと言う段階で、ほとんどSF用語と化しているという認識だった。
そしてそれが”未来予知”のような奇跡まで起こすとなると、ヒスイから聞いていたネビュラの文明レベルとの乖離が余りにも大きすぎた。
「ヒスイさん、あなたが飛ばされる前のネビュラはどんな生活をしてた?」
乾の質問にヒスイは意図を解しきれていない。
「……? そうですね。四百年くらい前になりますが、その頃のこの国と変わらなかったように思います」
つまり、戦国時代末期から江戸時代の前期頃の文明だったのだろう。
「それじゃあそんなすごいナノマシンなんて作れませんよねぇ……あ、そもそもアニマはヒスイ様が生まれるずっと前からあったんですよね?」
燈はある程度話を理解できているようだ。その手のフィクションに造詣があるのかもしれない。
「その通り。だけど、俺の推論が正しければアニマは自己増殖、自己完結したナノマシンだ。つまり――」
乾が興奮した様子で立ち上がる。
「現行の文明が作る必要はない。過去に存在した高度な文明が散布し、現代に至るまで自己増殖を続けたもの、と俺は考えた」
燈が息を呑み、熱弁する乾の熱と反比例するように遼の頭に冷たい思考が流れ込む。
以前ヒスイから聞いた、ネビュラの創世神話。
それによると、創世の女神オルフェナは神の国から旅をし、つまりは外の世界からネビュラに降り立ち世界を創ったという。
外界から女神が降り立つ――それはそのまま”移住”という科学的事象に置き換わる。
そしてその高度な文明は何らかの原因で滅び、その末裔としてヒスイたちがネビュラに存在しているのではないか。
それが真相だとするならば、これは神話などではあり得ない。
異星からの”侵略の歴史”ではないか。
「俺自身、突飛な考えだという自覚はある。けど、異世界なんてもんを解き明かすならこれくらい突き抜けてないとな……おい、大丈夫か? 顔色が悪いぞ」
乾の声で思考の沼から引き揚げられる。
それはさっき見た映画の話をするような、半分冗談めかした物言いだった。
その言葉通り真剣に考えた結果の結論でも、心から信じることはできないのだろう。
「大丈夫です。……いえ、やはり少し気分がすぐれないので今日はこの辺りで」
アニマの正体すらまだ推論に過ぎず、そこから考え至ったネビュラの歴史などほとんど遼の妄想に近い。
だが、簡単に切り捨てられない説得力を持って遼の脳内に居座っている。おとぎ話だと思っていたものが実話だったと知らされたような大きな違和感が三半規管を揺らし、微かな吐き気を催す。
「……そうか。また何か分かったら連絡する」
乾はネビュラの神話を知らない。
そして、その神話がこの
「ええ、ありがとうございます。……この件については、少し考えを整理しておきます」
「運転、気をつけろよ」
三人はそれぞれ、入り口に立って見送る乾に手を振り病院を出た。
ルームミラー越しに燈が何かを言いたげに口を開くのが見えたが、言葉になる事は無かった。
なんとなく、彼女も遼と同じ考えに至ったのではないかと思考の片隅で思った。
「遼……? 大丈夫ですか?」
ハンドルを握ったまま固まっている遼をヒスイが気遣う。
「……大丈夫です。帰りましょう」
低くエンジンが吠え、ライトが夜闇を切り裂くとゆっくりと走り出す。
沈黙が支配する空間を、自動車が遼のマンションへと運んで行く。