一度は近づいていた春の足音は、再び遠ざかって行った。
ここ数日は肌寒いを通り越して、一度はしまい込んだ
それでも、湊の心は清々しく晴れ渡っていた。
それこそ柄にもなく鼻歌でも歌いたくなるほどに。
二子である遼が生まれて三ヶ月が経ち、母子ともに健康。
二才になる長女の春華はすくすくと育ち、驚くべきことに既にひらがなの読み書きができるようになった。
結婚後に独立して開業したクリニックの経営も軌道に乗り、全てが順風満帆に思える。
一つ気がかりがあるとすれば、実家である一ノ瀬家との関係だ。
旧家である一ノ瀬家は、なによりその存続とメンツを重んじる。故に、湊には毎年のように名家の御令嬢との見合いの打診が来ていた。
それを毎度、仕事が忙しいなどと理由をつけて断っていたかと思えば、突然生まれも分からない相手と結婚すると言い出したのだ。
父はなんとか湊を翻意させようとしたが折れず、結局半ば勘当される形になった。
かなたは自分のせいで湊が実家と不仲になってしまったと気に病んでいた。
それに対して湊は、無礼を働いたのはむしろ一ノ瀬家の方だとかなたの非を認めなかった。
それでもいつかは、孫の顔でも見せればきっと父も理解してくれると湊は考えていた。
そうやって周りの誰も彼もが幸せに笑い合える日が、その内やって来るのだと。
今はとにかく仕事に打ち込もう。
きっとそれが、この小さな家族を守るための唯一の道だと湊は信じていた。
「鈴木さん、診察室へどうぞ」
看護師が声をかけると長身の若い男が診察室に入って来た。
燃えるような赤い髪で、日本人にも外国人にも見える顔の男だ。
厚着をしていても分かるほどに鍛え抜かれた肉体は、その男が只者ではないということを雄弁に物語っている。
同時にその名状し難い異質さが、かなたと初めて会った時に似ている、とも感じていた。
男は足音もなく歩み寄ると、静かに椅子に座る。
「鈴木さんは初診ですね。どうされました?」
一目見て、その男が精神科に通うような人間ではないことが分かる。目に宿る光が、その強い意志を示していたからだ。
「一ノ瀬湊だな」
男の声は見た目の若さからは想像できないほど低い。
名前を呼ばれた湊は、自分の胸の名札をチラリと見てから答える。
「そうです。これからあなたの――」
「一ノ瀬春華と一ノ瀬遼」
男の口から子供たちの名が出てきた瞬間、息が詰まった。
壁にかけられた時計の秒針が時を刻む音が、心拍とリンクして大きく聞こえる。
冷や汗が吹き出し、何か言おうとしたのに言葉が出ない。
「二人をすぐに隠せ。さもなくば三日後、お前は全てを失う」
それだけ言うと、男は立ち上がり踵を返す。
「っ……! 待ってください、それはどういう――」
我に帰り、その真意を問い質そうとしたが男は一瞥もくれることなく診察室を去っていった。
それからは一日中、男の言葉が頭の中をグルグルと回り続けていた。
その後数人の患者と話したはずだが、いつもは漏れなく覚えているその内容を思い出すこともできない。
「湊さん、大丈夫? 疲れてるんじゃ……」
夕食中、茶碗を持ったまま固まっていた湊に、かなたが心配そうに声をかける。
「え……? ああ、ごめん。ぼーっとしてた」
そう返して笑って見せるがかなたの表情は晴れない。
かなたこそ育児で疲れ果てているだろうに、それ以上に湊を気遣ってくれている。それが分かっているからこそ、なおさら平静を装おうと努める。
――湊は一人、決断する。
「……春華、明後日は父さんお休みだから、ひい爺ちゃんのお家に行こうか」
「ひいじぃじ! ひいばぁば!」
春華はキャッキャと喜んでいる。
およそ二歳児とは思えない言語能力だが、かなたもほんの一年で日本語を操れるようになったというから遺伝なのかもしれない。
ひい爺ちゃん、というのは湊にとっての母方の祖父のことだ。
一ノ瀬家とは絶縁状態にあったが、母方の実家とは良好な関係を作れており、母も交えて幾度か子供たちを会わせている。
祖父の家なら安全だろう。
あの男の言葉を信じたわけではない。
それでも、どうしても無視することができない何かが、あの男とその言葉にはあった。
かなたの視線を感じる。
勘のいい彼女は、湊の様子に何かを感じたかもしれない。
それを誤魔化すように笑顔を作る。
けど、そうだ。
かなたに作り笑いが通用したことは、一度だってなかったのだ。
「春華ちゃん、大きくなったねぇ」
祖母に抱き上げられた春華がくすぐったそうに笑っている。
「そっちが遼か、初めましてだなぁ」
かなたが抱いている遼を、祖父が満面の笑みで眺めて言う。
遼はそんな祖父を不思議なものを見るようにじっと見つめていた。
玄関先でひとしきり話した後、家に上がった。
郊外に建つその古い平屋は、なんでも江戸時代からここにあるそうだ。
歩くたびにギシギシと軋む廊下も、漂う畳の匂いも湊が子供の頃と何も変わらない。
それはまるで、百年も前から時が止まっているかのようだった。
宴会でも開けそうな、広い畳敷きの居間に大きな長テーブルが置かれている。
春華は祖母の膝の上で、そこに山積みにされたお菓子を目を輝かせて物色していた。
湊は正座し、姿勢を改めてから本題に移る。
「子供たちを二、三日ほど預かってもらえませんか?」
祖父と祖母は目を見合わせる。
「そりゃあ構わんが、なんかあったのか?」
「……いえ、かなたも少し育児で疲れているので休ませたいと思って」
妙な患者におかしな警告をされて、などと言えるはずもない。
それでも嘘をついた居心地の悪さに背中がチリチリとした。
「遼はいい旦那さんねぇ。いいよ。かなたさん、ゆっくり羽を伸ばしてね」
祖母がいつも通りのおっとりとした口調で言う。
「ありがとうございます」
かなたが笑顔で頭を下げる。
かなたに休養を、というのはあらかじめ本人にも話した口実だったが、彼女はその奥にある湊の真意を量りかねている様子だった。
「いいのよ。可愛いひ孫と過ごせるんだから、感謝したいくらいだわ。……でも、春華ちゃんは寂しくない?」
膝の上の春華に顔を覗き込むようにして言う。
「はるかはへーき! もうおねえちゃんだから!」
その返答に祖父も祖母も目を丸くして驚いている。
「春華ちゃん、まだ二才よね? 賢い子だとは思ってたけど……」
湊は苦笑を浮かべる。
「……きっと、早熟なだけですよ」
口ではそう言ったが、これは湊の願望だった。
特別な子なんかでなくてもいい。
ごく普通の女の子として、ごくあたりまえの幸せな人生を送って欲しい。
それが、偽らざる湊の本心であり、切なる祈りだった。
だけどこの世界に、
遼はかなたと二人だけで自宅に帰って来た。
子供たちのいない家は信じられないほど静かで、温度すらいつもより低く感じられる。
赤髪の男の言葉を信じるなら明日、何かが起こるのだろう。
あるいは、その言葉通りにしたお陰で何も起きないのかもしれない。
そうなれば男の言葉の真偽は闇の中だが、そうなればいい。
何事もなく明日が終わりさえすればまた、家族四人で過ごせるのだ。
「……静かだね」
かなたが二人だけのリビングを見渡し、少し寂しげに言う。
「そうだな……でも、たまにはこういう時間も必要だ」
「それは、精神科医として?」
かなたはそう言っていたずらっぽく笑った。
「ふ……そうだ。医者として、かなたには休養を命ずる」
少し演技がかった声でそう言うと、ドン、と胸に柔らかな衝撃が伝わる。
視線を下に向けると、湊の胸に顔を埋めるかなたの艶やかな銀髪が目に入る。
「……不安なの。幸せすぎて。何もかも、雪みたいに溶けて無くなっちゃうんじゃないかって」
湊にしがみついたまま絞り出した声がくぐもる。
その切実さは、本当にかつて全てを失ったことがある者の慟哭のようだった。
以前かなたは湊に繰り返し見る夢の話をし、理由も分からぬまま涙を流した。
湊には彼女が失ったものが何なのかを知る由もない。
かなた自身も、自らの傷の正体を知らないまま、今なおその痛みだけを感じ続けている。
「大丈夫だ。……君はもう何も失ったりしない」
それはなんの根拠もない、欺瞞に満ちた言葉だ。
だからせめて、かなたを抱く腕に力を込めた。
「記憶を取り戻してあげられなくて、ごめん」
腕の中でかなたが身じろぎする。
「ううん。13年間、私は幸せだった。あなたと出会ってからの7年は、もっと」
蒼玉の瞳が湊を見つめる。
「春華が生まれてからの2年。遼が生まれて、もう3ヶ月。……どんどん積み重なって、ふふ、潰れてしまいそう」
その目が柔らかく笑む。
「だからもう、それより古い幸せはなくても、平気」
瞳が揺れ、微かに涙が滲む。
湊には分かる。
記憶を失う前のかなたは、きっと温かな幸せに囲まれていたはずだ。
天性の明るさと優しさで周囲に幸せを振りまき、その光の中で生きていくはずのごく普通の少女だった。
だけど、幼い彼女はその全てを失った。
その記憶を取り戻すということは同時に、それを失った際の記憶も甦るということだ。
全てを奪われた記憶が。
かなた自身、それを恐れているのではないか。
そして湊は、記憶が戻ればかなたは自分から離れていってしまうのではないか。
あるいは湊の知る彼女ではなくなってしまうのではないかと恐れていた。
いつか、その記憶が戻ってしまうのではないか、とも。
その想いは、かなたへの裏切りに他ならない。
医者という立場で“記憶を戻す”ことを口実に近づき、本心では彼女の記憶が戻るのを拒んでいる。
――かなたを失うことを恐れている。
胸中にとぐろを巻く、どこまでもエゴイスティックな感情に自ら嫌悪する。
それでも今この時は腕の中にある互いの存在を確かめ、ぬくもりを分かち合うことをやめられなかった。
このぬくもりを手放しては、もはや生きていくことなどできはしない。
――そんな風に思ってしまうことすら、自分には許されないのではないか。
「――明日は久しぶりに映画でも観に行こうか」
かなたは隣で寝息を立てている。つまり、これはほとんど独り言だった。
「……ぅん? 楽しみ……」
独り言のつもりだったが、半分夢見心地といった様子で返事があった。
すぐにまた、規則正しい寝息が聞こえ始める。
どうせ見るなら、ハッピーエンドがいい。
苦難を乗り越え、最後にはみんな揃って大団円を迎えるような。
湊はかなたに布団をかけ直し、その寝息に耳を澄ましていると自らも
――そして、三日目の朝が来る。
湊は目覚ましが鳴るより数秒早く目覚めた。
身体に染み付いた、いつもの時刻だ。
まだ眠っているかなたを起こさないよう気をつけながら寝室を後にする。
着替えながらテレビを点けると、ちょうど天気予報のコーナーだった。
今日は一段と冷え込み雪になるらしい。
「傘を持って行かないとな」
最寄りの映画館には駐車場が無いため、電車で向かうことになる。駅までは徒歩で十分といったところだ。
今上映している映画を調べたいが、あいにくと長らく映画館から足が遠のいていたため映画雑誌などはない。
新聞で映画のタイトルと上映時間を見てみたが、いまいちピンとくるものはなかった。
「まあ、現地で選べばいいか」
そう独りごち、新聞をテーブルに置く。
食パンを二枚トースターに放り込み、熱したフライパンに卵を二つ割り入れる。
かなたは半熟が好みだが、湊は両面を焼き固めたものを好む。なので、先に一人分を皿に取り、残りを好みの固さに焼き上げていく。
コーヒーを揃いのカップに注いだところでかなたが起きてきた。
「あ。朝ごはんしてくれたんだ。ごめん、寝過ごしちゃった」
「おはよう。俺が勝手に早く起きただけだよ。さあ、食べよう」
申し訳なさそうにするかなたをテーブルにつかせる。
「いただきます」
二人揃って手を合わせる。
「そう言えば、今日はなんの映画を観るの?」
「えっ……」
あの時ちゃんと意識があったのかと驚き、思わずかなたの顔を凝視する。
「あ……あれ? 夢だった?」
かなたは狼狽し、顔を真っ赤にしている。
その様子が可笑しくて――愛おしくて、たまらず湊は笑い出した。
普段は見せないような笑い方に、キョトンとしたかなたに言う。
「言ったよ。寝てたかと思ったけど」
からかわれたと気づいたかなたは一層顔を赤くしてむくれている。
むくれるかなたを宥めすかして準備をし、家を出る。
その頃には機嫌はすっかり直っていた。
「あ、雪」
空には黒雲が重く垂れ込め、雪がちらついていた。
「はい、傘」
傘を手渡すと楽しそうに開き、くるくると回転させる。
いつもなら登校する小学生が列をなしている時間帯だが、今朝はその姿がない。恐らく春休みなのだろう。
「雪が降ると静かに感じるよね」
先を行くかなたがそう言って振り向く。
雪のような銀髪が靡いて、光を放つ。
「そうだな」
本当に静かだった。
まるで、世界が凍りついたように。
それは突然だった。
裏通りから表通りへと出る直前、目の前を黒塗りの車が塞ぐ。
咄嗟に振り返ると、後ろも同様に塞がれている。
眼前の車のドアが開き、黒づくめの男が降りてくると
その中から現れたのは、一人の女だった。
年は二十代前半。
燐光を放つ純白のローブに身を包み、腰まである黒髪は天の川のような輝きを宿している。
その姿は、芸術家が生涯をかけて彫り上げた精緻な彫刻のように――あるいは精密な工業製品のように
女が地に立った瞬間、この裏路地だけ世界から切り離されたように空気が張り詰める。
ドサッと足元で鈍い音がする。
その姿を認めた瞬間、隣に立っていたかなたは傘を取り落とし、その場にへたり込んだ。
目を見開き、顔は青ざめ、その華奢な体は目に見えるほど震えている。
「かなた!?」
湊の呼びかけにも何の反応もなく、かなたはただローブ姿の女を凝視してガタガタと震えている。
女が一歩、前へ出る。
「やっと、会えましたね」
囁くような声なのに、十歩ほどの距離を一切減衰することなく鼓膜に届く。
「――
その顔が美しく笑みを作る。
ゾッと全身の産毛が逆立ち、本能が危機を告げる。
「……今は綾織かなた、でしたか?」
かなたは女の言葉が聞こえているのかいないのか、地面に座り込んだまま固まっている。
「……お前は何者だ」
湊は震える足を奮い立たせ、女を睨みつける。
かなただけに注がれていた女の視線が湊を捉えた瞬間、ドンと背中に衝撃が走り前へと押し倒される。
衝撃に脳が揺れ、目の前が白くなった。
溶けた雪で濡れたアスファルトの冷たさが、飛びかけた意識を強引に引き戻す。
首を捻り、自分の上にのしかかり腕を捻り上げている相手を見る。
目深にかぶったフードの影に見えるその顔には覚えがあった。
あの、赤髪の男だ。
「あ……あんたは……ぐぁっ!」
湊がそう言うと男は湊の腕を一層強く締め上げる。何も言うな、という意思表示だろう。
「さて、邪魔が入りました。リベルテ、あなたには私と来てもらいます。喜びなさい。故郷に帰れるのですよ」
腕を広げて喋るその姿は、まるで何かの役を演じているように映った。
「――あら、立ち上がれないようですね。お連れして差し上げて」
女がそう言うと、車内からもう一人男が現れ、最初に降りてきた男と二人でかなたに迫る。
「や……やめろ! かなた! 逃げ――」
さらに強く腕を捻られ、声が詰まる。
依然、茫然自失で脱力しているかなたを無理やり車に押し込む。
ドアが閉まる直前、かなたの青い瞳が湊を捉える。
――その時、茫漠としたその目に、確かな光が宿ったように見えた。
女は湊を一瞥もすることなく車に乗り込むと、低いエンジン音を残して去っていった。
湊は何もできず、ただそれを見送る。
不意に締め上げられていた腕が弛み、のしかかっていた赤髪の男が立ち上がる。
「あの女の事は忘れろ」
低い声が響く。
湊は身を起こすことすら忘れ、車が去った通りを見つめている。
「お前にできるのは、子供たちを守ることだけだ」
男はそう言い残すと足音もなく去っていった。
一人裏路地に残された湊は天を仰ぐ。
いつしか雪は、雨混じりの