豪奢な宿の一室で、音声データの再生が終わっても景真はしばらく動けずにいた。
これは春華が
そして同時に、
教団は、いや教祖である御堂コトネはやはり最初から春華を意図的に招き入れていた。
「”鍵”ってのはなんのことだ……?」
その目的を連中は”鍵”と呼んでいた。
そしてそれを今は遼が持っている、とも。
一方で、鍵とやらは持たずとも春華は重要人物として扱われているらしいことが伝わった。
ひとまず、すぐに生命を奪われる心配は無さそうだということは景真にとって好材料と言えた。
「聖女の息女……なんで先輩のお袋さんが聖女なんだ?」
そう言えば、春華から母親にまつわる話を聞いたことがない。
精神科医の父親や、刑事をしている弟については聞いていたが、母親に関しては、いる、いないという話すら春華はしなかった。
それは何か、踏み込んではならない一線のように思えて景真は深く考えなかった。
「次に通話が繋がったら遼に聞いてみるか」
それは遼にとっても同様に踏み込まれたくない話である可能性は高い。
それでも、春華を救う手掛かりになるとなればそうも言ってはいられないし、遼も情報を提供してくれるだろう。
御堂コトネと対峙し、恐らくは意識を失うその直前に春華は遼と景真の名を呼んだ。
その瞬間、どこか茫漠とした感覚のまま音声を聞いていた景真は、背中に赤熱した芯を打ち込まれたように感じた。
春華は自分たちを信じてこのボイスレコーダーを残してくれた。
そしてきっと、無事に助けを待っている。
握る拳に力が入る。
トントンと軽くドアが叩かれる。
景真は腰掛けていたベッドから立ち上がりドアへと向かう。
半刻ほど前、ボイスレコーダーを握りしめて深刻な顔で固まる景真にコハクは「お風呂入ってくるね」と言い残して部屋を出ていった。
そのコハクが、まるで景真が音声を聴き終えるのを待っていたかのように部屋に戻ってきた。
開錠してドアを開くとその隙間から小柄な体がするりと部屋へと入ってくる。
「ただいま」
景真を見上げるように立つコハクから昇る石鹸の匂いが鼻をくすぐる。
「おかえり。風呂はどうだった?」
「うーん……大きくて綺麗だったけど、やっぱり私はゴンドの温泉が好きかな。でもさっぱりした」
そう言ってまだ湿って細くなった尻尾を撫でる。
「そっか。俺も後で入ろう」
「うん」
コハクがベッドに腰掛け、立ったままでいる景真をじっと見る。
ただ静かに、景真の言葉を待つように。
その視線に、意を決する。
「……コハクが廃坑で見つけてくれたこの黒い道具だけど、これはオービスの、音を記録する機械だ。先輩……俺が探している人があそこに遺していった物だった」
「音を記録……聴けたの?」
スマートフォンと同様、ボイスレコーダーもフル充電が維持されていた。
原理は未だ不明だが、景真はこれをアニマの働きによるものではないかと推測している。
「ああ。殆どが日本語……俺の国の言葉だったけど、ネビュラに来てからのものもあった。それを……」
まだ迷いがあった。
これを聴かせるということは、コハクを引き返せないところまで引き摺り込むことに等しい。
彼女には教団に追われる理由も、敵対しなければならない理由も無い。
後者に関しては故郷であるゴンドが奴らによって脅かされているという懸念はあるものの、だからと言ってコハク個人が矢面に立って戦うのは不可能だしその必要もない。
ましてや、コハクと春華は見ず知らずの他人で、文字通り住んでいる世界すら違うのだ。
そのコハクに四百年間紡いできた日常を捨てさせて、生命すら危険に晒すかもしれない。
異端者に襲われたあの夜から、ずっと胸につかえてきた不安。
春華の遺した音声は教団の危険性を明白にし、不安の輪郭を浮き彫りにした。
それでもコハクはその透き通る橙色の瞳に赤い焔を灯し、真っ直ぐに景真を見ている。
景真の言葉を待っている。
だから、それを罪と知りながら、
もう取り返しがつかぬと分かりながら、喉につかえていた言葉を吐き出した。
「――コハクにも聴いてほしい」
「わかった」
コハクはなんの迷いも無いかのように即答する。
そして、彼女がそうするだろうこともわかっていた。
だからこそ、胸の奥がズキリと痛む。
ちょいちょいと自分の隣を示すコハクに呼ばれるままその隣に座り、ボイスレコーダーに残された最後の記録を――再生した。
固唾を飲んでボイスレコーダーに耳を傾けていたコハクもまた、その再生が終わっても床の一点を見つめたまま動けずにいるようだった。
ただ、尻尾だけが何かを考えるように宙に円を描いている。
「……これを聴いて分かった。異端者たちは俺が思っていた以上に危険で、しかも組織的に動いてる。だから……コハクはここで――」
「それ以上言ったら、怒るよ」
その声に怒気は欠片も無く、ただ景真の言葉を静かに遮った。
景真を見つめる瞳に揺れる焔が強く、大きくなり、それに呑まれるような錯覚に呼吸が詰まる。
「……コハクを、危険な目に合わせたくないんだ」
それは本心からの言葉だった。
自分ではコハクを守れない。
己の身すらも。
廃坑で襲撃者と命懸けで戦うウェスペルを、景真は見ていることしかできなかった。
二人がかりで戦えば、あるいはウェスペルが負傷することも無かったかもしれない。
だけど、景真は戦うことはおろか握りしめた短剣を抜くことすらできなかったのだ。
力も、勇気も――覚悟すらも足りていなかった。
「それは、私も一緒だよ」
コハクの温かな両手が、硬く握りしめた拳を包み込む。
「だけど……ううん、だからこそ私たちは一緒に行くべき。だって……」
その目がそっと逸らされる。
「もしここでケーマと別れても……心配で何も手につかないよ」
それは言わば、景真が初めて聞くコハクのわがままだった。
景真の身が心配だから共に行くのではない。
何もわからずただ心配し続けるのは嫌だ。だから一緒にいたいのだ、と。
確かに、仮にここでコハクと別れたとしてその身は安全だと、何も無かったかのように元の生活に戻れているなどと信じられるだろうか。
互いに身を案じ続けるくらいなら、一緒にいた方が遥かにマシだと思えた。
「……そうだな。それはきっと俺も同じだ。――じゃあ、ここから先はもっと、安全第一で進もう。そのためにコハクの
「うん。任せて」
その迷いのない声に、目の前の霧が晴れていくようだった。
何度目だろうか。
道すら見えない暗闇を、彼女が照らしてくれたのは。
「コハクは奴らの言う”聖地”ってのがどこのことか分かるか?」
「……たぶん、”真理の方舟”だと思う」
「”真理の方舟”?」
「大昔、女神様がネビュラに乗って来たと言われる方舟。公都の南に残ってて創世教と救世教で何千年も奪い合ってたけど、ここ千年くらいは救世教の本拠地になってるって」
その方舟とやらが遺跡として残っているのなら、やはりネビュラの創世神話はただの作り話などではあり得ない。
「女神は……今でもそこにいるのか?」
エクトルはかつて女神は実在すると断言した。
そしてミラは女神を殺せと景真に指示した。
さらに、その女神が生み出したとされる”奇跡の根源”たるアニマの存在は、この身をもって味わっている。
このネビュラにおいて、神は偶像などではない。
実体があるならば明確な所在も存在するはずだ。
「二千年ほど前に聖都に移られたってことになってるけど……本当のところはわからない」
聖都オルフェイム。
以前コハクから聞いたネビュラの主要都市の一つだ。
確か、ネビュラ創世教の総本山がある都市だったはずだ。
「じゃあ予定通り公都へ向かい、そこから”真理の方舟”を目指すことになる、か」
きっと、長い旅になるだろう。
だが、当て所ない旅ではなくなった。
「ケーマ……」
先ほどまで一寸の迷いも見せなかったコハクの声が揺れる。
「女神様を……殺すの?」
ハッとなり、自分の左手を見つめる。
「……わからない。ミラがなぜ女神を殺せと言ったのか。あれからこいつは黙ったままだ。……でももし、そうしないと先輩を救い出せないのなら……」
コハクの顔に影が差す。
彼女にとっては紛れもなくこの世界を創り出し、四百年以上もの間信仰してきた神なのだ。
それを殺すなど、到底受け入れられる話ではないだろう。
しかし、コハクはそれを否定はせず、ただ静かに頷いた。
内ポケットのスマートフォンが振動する。
一瞬空穴を警戒したが、画面を見ると21時に時報として設定したアラームが鳴っただけだった。
スマートフォンの存在と同時に、巨大空穴が開いた時に大量の通知が届いていたことを思い出す。
ロックを解除し、通知に目を滑らせるとその中に遼からのメールを見つけた。
『情報共有』と簡素なタイトルが付けられたメールを開くと、そこには遼が掴んだ情報のいくつかが簡潔にまとめられていた。
遼が向かった苔守村という寒村。
そこで出会ったというネビュラからの迷い人の名が記されていた。
「ヒスイ……?」
それは以前聞いた、コハクの母の名と一致していた。