一ノ瀬遼には母親の記憶がない。
遼を産んだ直後に亡くなったため二つ上の姉春華もまた、母との思い出を持たない。
寂しかったかと問われれば、そもそも遼にとっては”初めからいなかった”のだから寂しくはなかった、と即答できる。
勿論、母という存在に思いを馳せることはあった。
どこへ行っても「母を亡くした子供」というものは同情の目を向けられるし、それだけでどこか腫れ物のように扱われてきた。
『母がいる』という状況を想像するのはそのまま他の子供達と自身の境遇を比較する事に他ならなかった。
そこに何か、父に対する後ろめたさのようなものを感じるのだ。
母の事を殆ど語ろうとしない父。
医者として務める傍ら、男手一つで二人の姉弟を育て大学まで行かせてくれた。
時折、これで精神科医が務まるのかと不思議に思うほど家での父は寡黙だった。
姉弟の話は真摯に聞いてくれるし、子供の頃は定期的に遊園地などに連れて行ってもくれた。
だが、どんな時もその口からは「必要な言葉」しか紡がれる事はなかった。
父が昔からそうだったとは思っていない。
きっと、母の死が彼を変えてしまったのだろう。
だから、そんな父に思いを馳せる時はどうしても「母が生きていれば」と考えてしまうのだ。
癒えぬ傷を抱えたまま他人の傷を癒やし、家族を守り、育む。
その父の背中を、在りようを遼は心から尊敬していた。
農作業帰りの男性に教わった広場に車を停める。
ここは祭りなどの催しの際に使われる広場で、普段は資材置き場兼駐車場として使われているらしい。
――苔守村。
人口二百人ほどの限界集落――小さな村だ。
山間部に隠れるように存在する集落は、東京都内にありながら別世界のような
姉、春華が消息を絶った教団施設。
そこを去った二台の車の行き先。その一つがこの村だ。
この村に星雲救世会が初めて現れたのは25年も前の事だ。
持ち主が亡くなって遊休農地となっていた土地を買い取りそこに施設を建てた。
村民に対して勧誘活動をしてはいたがさほど熱心でもなく、何か他に目的があるように見えた、と公安の資料にはあった。
エンジンを止め車を降りると太陽と蝉時雨の洗礼を受ける。それでも暑さは都心部より幾分大人しく感じられた。
まずは教団施設を当たる予定だ。
恐らく中に入れてはくれないだろうが、揺さぶりをかけて不自然な対応であればそれそのものが一つの根拠足り得る。
左手に田畑、右手に林を見つつ歩いていると、ちらほらと狐の石像を祀った小さな祠が目に付く。
ここに来た目的とは何も関係ないはずなのに妙に引っかかるものがある。
ちょうど、道路脇の祠に手を合わせる老人を見つけ声をかけた。
「こんにちは、今日も暑いですね。これは……この村の神様ですか?」
突然の声かけに一瞬驚いた老人は、すぐに日焼けした顔に人懐こい笑顔を浮かべた。
「おやまあ、あんた外の人だね? こんななぁんもない所に珍しい」
「ええ、郷土史や風俗に興味がありまして」
軽く会釈してそう返す。
「そうか、たまに郷土史の先生なんかがおいでになるが。まあそんな珍しいもんでもないさ」
一息ついて、少し何かを思案しているように見えた。
「――これは
――ウカさま。
ウカノミタマは稲荷神と同一視される事で知られる農耕を司る神だ。その御使いとされる狐の姿で祀られていてもさほど違和感はないように思える。
「なるほど、ウカさまが苔守村における祭神なのですね」
老人が頷く。
「何百年も前からこの村を守って下さっとる。……ありがたい神様よ」
その言葉は、ただの偶像に向けられたものにしてはどこか妙に実感を伴ったものに聞こえた。
「――そうだお兄さん、これ今朝採れたトマト持っていきな。うめぇから」
別れ際に半ば強引に手渡された、大きなトマトが五つ入ったビニール袋をぶら下げて教団施設を目指す。
夕陽に照らされ橙色に染まったそれは、想像以上に質素な建物だった。
遠目には地方の公民館にしか見えず、外観には宗教的なモチーフもほとんど見られない。
唯一、純白の正面玄関に五枚の翼のシンボルが控えめにあしらってあるだけだった。
扉を開くと外観同様内装も質素で、白を基調に執拗なまでに整えられた館内は病院を思わせる。
目の前に受け付けがあり、そこにはスーツ姿の女性が座っていた。
歳は三十前後だろうか。
顔色、髪の質感、手首の細さなどから全体像として不健康な印象を受ける。
女性は遼の顔と、右手にぶら下げたトマトの袋を一瞥する。
「アポイントメントはございますか?」
その口調に「あるはずがない」という感情が滲む。
「いえ、人探しをしているのですが星雲救世会の方が何かご存知ないかと思いまして」
細い眉が、ピクリと動く。
遼はそれを見逃さず二の句を告げる。
「こちらの施設の代表に会わせていただけないでしょうか」
「アポイントメントがないならお引き取りください」
明確な拒絶。
こんな時に刑事の肩書きが使えたら多少はやり易いのだが、流石にここで出したら始末書では済まない。
眼鏡のブリッジを押さえてから、もう一つ揺さぶりをかける。
「……一ノ瀬春華という名に覚えはありませんか?」
「お引き取りください」
姉の名前には動揺は見られない。
恐らく、行方不明者に関する問い合わせはしばしばあるのだろう。対応に慣れを感じる。
その一方で、当然だが末端の信者に拉致に関わるような情報は共有されてはいないようだ。
これ以上粘って警察を呼ばれたりすると面倒な事になるだろう。
「分かりました。お騒がせして申し訳ありません」
女性に会釈し、扉を押し開いて外に出る。
敷地を出ると、まだ予熱を帯びるアスファルトから立ち昇る陽炎の中、遼を待ち構えるように人影があった。
暑苦しいアブラゼミの声はいつの間にか涼しげに鳴くひぐらしと入れ替わっていた。
足を止めて人影を見定める。
それは白い小袖に緋袴、千早を羽織った……つまり巫女装束に身を包み黒髪を高い位置で結った、スラリとした長身の少女だった。
白と赤の衣装が夕陽に赤く燃え、現実と幻想の狭間に揺れる。
少女は遼の姿を認めると、洗練された所作で頭を下げた。
「ウカ様の名代でお迎えに上がりました」
少しだけ顔を上げ、こちらを見る。
「――
ひぐらしが、鳴いている。
太陽はさらに傾き、石の階段に木々の葉を透過した茜が差す。
少女は一言も発さず、一寸の迷いもない足取りで遼の前を行く。
ひぐらしの声もここにはもう届かない。
逆光の中浮かぶその華奢な背中は、
「なぜ、私の名を?」
その背に問いかけるが返答はない。
遼は確信する。
この村に来るべきだと、来なければならないと直感した――いや、直感させた”なにものか”がこの先にいると。
非合理的な思考であるという自覚はある。
だが今この時、この神域こそが『真理は不合理の先にこそある』と雄弁に物語っている。
「こちらです」
少女が立ち止まり、こちらを振り向く。
黒髪が神秘に揺れ、夢と
その隣まで登り、白く繊細な手が指し示す先を見る。
――悠久の時を湛えながら、静止したかのようにも思える。
……神の
ザリ。
社の周りに敷き詰められた砂利石を慎重に踏み締める。
何処からともなく漂う花のような甘い香りが鼻腔をくすぐり、幼い頃の記憶と結びつきかけては
それは一歩進むたび浮かんでは消え、浮かんではまた消える。
伸長された時の流れが過去と現在の境目を侵食する。
その最後に浮かんだのは知らないはずの、いや、知っていたはずの母の顔だった。
ツン、と鼻の奥が痛み胸の奥に小さな、しかし確かなわだかまりを残す。
――木製の質素な引き戸の前に立つと、半歩後ろをついて来ていた少女が前に出て音も立てずに開く。
目線の先、床の間のように一段高く造られたそこに座っていたのは”人の形を成した非現実”そのものだった。
全てを見透かすようにこちらを真っ直ぐ見つめる瞳は深緑の光を湛えている。
少女と同じく巫女装束に身を包み、その頭には狐を思わせる大きな耳。背後には長い毛をふさふさと蓄えた尻尾が見える。
彼女の纏う空気が、異質な存在感が、それが仮装などではない事を物語る。
「ヒスイ様。遼様をお連れしました」
「
正面に据えられた座布団を指す。
空気を伝う事なく頭に直接響くような声が心地よく意識に浸透する。
座布団の上に正座し、湧いた疑問を口にする。
「ヒスイ様? ウカさまではなく?」
「ウカノミタマノカミ、というのはここの人たちがわたしにくれた名です。ヒスイというのが、わたしの真名。今はもう、この子しか知らないけれど」
少し寂しげに微笑んでから、燈と呼ばれた少女の方を見る。部屋の隅で正座していた燈はどこか照れくさそうに人差し指で頬をかく。
「ではヒスイ様、なぜ私をここへ?」
「ヒスイ、とお呼び下さい。私が神であるのはこの村にとってだけ……それが
すっ、と長いまつ毛が伏せられる。
「貴方をこの社、この村に招いたのはわたしが故郷に帰るための鍵になる――その未来を視たからです。」
――未来を視る? “故郷”に帰るとは?
「あなたは未来が視えるのですか?」
普段なら馬鹿げた話と一蹴するところだが彼女達は今日、この時に一ノ瀬遼という男がこの村に来るのを間違いなく
「ええ」
ヒスイは端的に答える。
「でもまずは、わたしが何処からやってきたのかを話さなければなりませんね」
ヒスイは、遠くを視るように、過去を懐かしむように、愛おしむように――そして、悔いるように言葉を紡ぐ。
――ネビュラ。
それがわたしの生まれた世界の名です。
女神オルフェナが産み、アニマが育みし世界。
そこに住むのはあなた方にそっくりなヒト族、わたしのような狐族、森に住まうエルフ族など大きく分けて十二の種族。
されど、オルフェナの加護の元、大きな争いもなく暮らしておりました。
私は”樹海の
火山が近く、温泉の湧く美しいところです。
樹海の階は
空穴というのは、言わば空間の
こちらの世界――わたしたちは”オービス”と呼んでいましたが、こちら側と繋がっていると考えられていました。
空穴に飲まれた者は二度と戻らず、逆に空穴から現れる者もおりました。
ネビュラでは彼らを『マヨイビト』と呼び、その存在そのものが
……四百年も前のことになるでしょうか。
ゴンドの空が裂け、私を飲み込んだのは。
その後ここ、苔守村で目覚めたわたしは、この姿と未来視の力でウカノミタマノカミの化身として奉られる事となったのです。
静かにその柔らかな声に耳を傾けていた遼が口を開く。
「未来視……それはそのネビュラでは誰もが持っている力ですか?」
「誰でも、という訳ではありません。未来視は特に私たち狐族が得意とする力です」
一呼吸置いて燈に目配せをすると、彼女は隣の部屋へ消えていった。
「ネビュラでは”アニマ”という目に見えない力の根源……魔力のようなものが水に、風に、大地に満ちていて、それに触れることで人は”奇跡”を得るのです」
ヒスイは自らの思考を描くように人差し指を宙に泳がせる。
「その発現の仕方には種族差や個人差があり、ほとんどの人は”奇跡”には届きません」
遼は顎に手を当てて疑問点を口にする。
「”アニマ”がネビュラ固有のエネルギーなら、なぜこちら側……オービスでも未来視の力を?」
「ネビュラにおいてアニマは万物に、つまりそこに生きるものにも宿っているからです。こちらでは私の中に存在するアニマを言わば
(……ん?)
朗々と解説するヒスイの言葉の中に、何か場違いな語句が紛れ込んでいた気がする。
ちょうどお盆に載ったお茶を運んできてくれた燈の方を見ると、気まずげに目を逸らす。
遼は小さく咳払いをする。
「あなたの中にあるアニマを使い切るとどうなるのですか?」
アニマが生命を司るのだとしたら、それを失うことは死を意味するのだろうか。
その危惧を見抜いたように、ヒスイが微笑んで答える。
「時が経てば回復するのでご安心ください」
――深緑の瞳が、遼を覗き込む。
心の奥底、遼本人すら知らない無意識まで見透かされている。そんな錯覚に陥る。
「――不思議ですね。貴方の中にも微かですが、アニマを感じます。だから――」
目を閉じ、湯呑みを口に運ぶ。こくり、と白い喉が動く。
「きっと、わたしの呼びかけが届いたのですね」
そう言って微笑むヒスイの顔が、泡沫に溶けた母のそれと重なる――
ふと、ヒスイの視線が遼の右下に注がれている事に気づく。そこにあったのは――真っ赤なトマトが透けるビニール袋だった。
「……食べますか?」
大きな耳がピクンと跳ね、尻尾がゆらゆら揺れる。
「ヒスイ様っ!」
燈の声にヒスイの肩が揺れた。
燈は小さくため息をつき、
「……洗って来ますから少し待ってください」
そう言って遼から袋を受け取ると、お辞儀をしてからまた部屋を出て行った。
――その景色に姉と、自分とを重ねる。
子供の時分から春華は文武両道を地で行っていた。
勉学はもちろんのことスポーツ万能で、おまけに学校では皆のリーダーとして振る舞う。
だが、家での春華はなかなかのポンコツぶりであった。
料理をすれば食す者を冥府へ誘い、掃除をすればする前より散らかし、洗濯をすれば衣服を燃えるゴミに錬成した。
なんでも器用にこなす遼はなぜ頭の良い姉がこんな事もできないものかと子供心に疑問だったが、いつしかそれは『自分が姉を支えねばならない』という思いに変わっていった。
元より、多忙な父が支える父子家庭だ。
自分にできる事はなんでもやろうと思った。
家を守り、父と姉をサポートする傍ら勉強も一切手は抜かなかった。
姉は家事全般を遼に押し付けてしまっている事を常々詫び、父は家事代行サービスの利用を提案してきた。
しかし遼にとってそれは、母を持たない一ノ瀬家を守るための大切な”儀式”だったのだ。
――隣室から水音が聞こえる。燈がトマトを洗っているのだろう。
「姉君の事を考えてらっしゃいますね」
ヒスイの問いかけに背筋が冷える。
この人は、どこまで
これも”アニマ”とやらの力なのか。
「姉のことも、ご存知なのですね」
微かに俯き、眼鏡を押さえてから問うとヒスイが静かに頷く。
「姉君はきっと、ネビュラにいらっしゃいます」
その言葉で、頭の中で纏まりつつあった突拍子もない考えが結晶化する。
「星雲救世会……あれはネビュラに存在する邪教と繋がっています。……彼らはどうやら、ネビュラとオービスを行き来する手段を持っているようなのです」
「つまり教団を追う事がそのまま姉の行方と、あなたがネビュラに帰還する手段に繋がる――と」
バラバラだったピースが一枚の絵に結実していく。
まるで運命のようにこの地に導かれ、神秘に触れ、異世界を垣間見た。
それでも遼は、運命などというものは信じない。
身を委ねることもない。
自らの意思で、この信じがたい現実と相対するのだ。
燈が籠に移したトマトを持って部屋に戻ると、ヒスイはそれを鷲掴み豪快にかぶりつく。
「あっ! ヒスイ様、汁が垂れてます! 小袖に!」
あーあ、と漏らしながらティッシュで必死にその胸元を拭う燈。
あらあらなどと呟きながらも尻尾をゆらゆらさせながらトマトを食べる手を止めないヒスイを横目に、遼もその赤い実を掴み口へ運ぶ。
一口齧ると、甘味と酸味が口いっぱいに広がる。
禁忌に触れた、知恵の実の味が。