慣れた動作で画面に指を滑らせ、着信を受ける。
「遼だな?」
発信元は非通知だった。しかし確信があったのだ。
向こうからかかってくるのは初めてだったが、一切の疑いを持たなかった。
『明石さん。今、大丈夫ですか?』
向こうも迷いなく応える。
まるで目の前で話しているかのような、異様にクリアな音声だった。
「――! 誰と話している?」
タウラスが景真の動きに気づき、そちらを向く。
が、その行く手は大剣の女に阻まれた。
「こんないい女が目の前にいるってのに、男に目移りしてんじゃ――ないよ!」
下から斜めに分厚い刃が空気を裂きながら乱暴に振り抜かれる。
タウラスはすんでのところで両の斧を構えて防ぐ。
金属のぶつかり合う音が空気を揺らし、火花が激しく散る。
「図体の割にいい反応じゃないか。けど――」
「背中がガラ空きだ!!」
直剣の男が跳躍し、回転しながら右上腕二頭筋を斬りつける。
「ぐっ……!」
垂れ下がった腕を足場に全登が跳び、その首筋を捉える。
と同時に、片手になった防御を大剣が押し返すとそのまま刃を翻して手首の腱を断つ。
「大丈夫かと聞かれると、どうなんだこれは……」
目の前で繰り広げられる現実離れした戦いを見て、景真は言い淀む。
「けど安心しろ、先輩と合流した。無事だ。なんとかそっちへ送り返すから待ってろ」
スピーカーから安堵のため息が聞こえる。
『……いずれにせよゆっくり話している時間は無さそうですね。手短に言います。これから、こちらで出会ったネビュラ人をそちらに転送しますので保護をお願いします。そして明石さんに”鍵”をお渡しします』
「”鍵”を俺に? なぜだ?」
オルフェナの勢力が喉から手が出るほど欲していたという”鍵”。
それがあれば全てのアニマを掌握できると言うが、その意味するところを景真は知らない。
『それは受け取ればわかります。そして、どう使うかはあなたにお任せします』
「なんだかよくわからないけどわかった! 送ってくれ!」
『これを送ったら通話が切れます。――帰って来たら会いましょう。積もる話もありますので』
「ああ、俺もだ。一回の飲みじゃ語り切れないくらいにな」
通話が切れる。
代わりにほんの数個のアニマが空穴を通り、景真のスマートフォンを経由し、耳から脳へ侵入する。
それは景真の体内を巡るアニマを集め、情報を転写していく。
繋ぎ、写し、さらに繋ぐ。
やがてそれらは形を成す。
――“鍵”の形を。
「ヒスイさん。門が開きます」
「……”鍵”を手放したのですね、遼」
「私には無用の長物です。この世界にも。ルカスさん、あなたはどうされますか?」
「俺はここでアリエスと差し違えて死ぬつもりだった……誰かさんのせいで生き延びてしまったが」
ルカスは自嘲するように笑う。
「ネビュラへ帰る。帰る場所などないが――ここにいるべきじゃない」
「ルカス……私は……」
かなたが俯いたまま言う。
「お前は帰るべき場所へ帰れ。……家族のところへ」
白銀の髪を垂らし、鼻先を赤くするかなたにルカスが微かに笑う。
「そんな顔をするな。帰ったら俺たちの故郷……望郷の里に花でも手向けに行く」
そう言うと、黒く蠢く魔法陣へ踏み込む。
「……ルカス!」
かなたの呼び声に、その足が一瞬歩みを止める。
「ありがとう。……さようなら」
その言葉に振り向くことなく小さく手を振ったルカスはその転送の間際、石となったアリエスを一瞥した。
「さよなら……母さん」
その言葉は空穴に呑まれ、誰の耳に届くこともなかった。
「燈」
ヒスイが嗚咽を漏らす燈の顔を見上げる。
「わたしのために泣いてくれてありがとう。燈の人生をわたしのために使わせてしまって、ごめんなさい」
「ぞんな……そんなごど……!」
燈の背に手を回し、そっと抱き寄せる。
「……この世界に来て、良いことばかりではなかったけれど、決してわたしは不幸ではありませんでした。……燈と過ごしたこの十年はその四百年の中でも――特別な時間でした」
ヒスイの肩に顔を埋める燈の、震える背中をそっとさすり続ける。まるで、赤子をあやすように。
「……故郷を……家族を失ったあなたにわたしからかけられる言葉なんてないけれど、燈ならきっと、大丈夫。だから前を向いて?」
顔を上げた燈が涙を湛えて揺れる、
「……やっぱりヒスイ様の眼、きれいだね」
「ふふ、ありがとう。……あの時、村を出る時にもう、覚悟はしていたつもりだったけれど……ダメですね」
流れ落ちた涙を指先で拭い、鼻をすする。
「きっと忘れません。苔守村のこと、歴代の巫女たちのこと――燈のこと。何百年先も、きっと」
「私も……忘れない。この村には優しいかみさまがいて、ずっと守ってくれてたんだよって、子供にも、孫が産まれても、話して聞かせるから」
燈が強く拳を握る。
「……私、村を復興させるよ。おじいちゃんと一緒に」
「ええ。清光に無理しないでって、言っておいてくださいね」
「うん……。でも、あっちじゃもう、ゲームできないね……」
「うっ……。それを言わないでください。帰りたくなくなってしまうので……」
「それは諦めてくださーい」
笑い合う二人に、遼が告げる。
「ヒスイさん、そろそろ門が閉じます」
「はい。遼――あなたにも、数え切れないほどお世話になりました」
「礼なんか不要ですよ。私たちは
「ふふ、そうですね。でも――それでも、ありがとう」
「……こちらこそ」
ヒスイが魔法陣へと踏み出し、くるりと振り返る。
「遼、わたしの代わりに燈と
「えっ、それはちょっと……。私はゲームとかは……」
「えーいいじゃないですかー! 私が教えますから!」
目と鼻を真っ赤に腫らした燈が横に立ち、遼の脇腹をつつく。
「うっ。そこはやめてください。弱いので」
ヒスイはそんな二人を微笑ましげに眺め、言う。
「――さようなら。二人とも、どうか幸せに」
その姿が闇に消えるまで、二人は笑顔でヒスイを見送った。
むかしむかし、小さな村に迷い込んだ狐のかみさまのお伽話は――ここに幕を下ろした。
意識が広がる。
世界と繋がり、世界とひとつになる。
この
これが”鍵”の力か。
遼は「受け取ればわかる」と言ったが、その意味が今なら痛いほどよくわかる。
全知にして全能。
ネビュラの一万年の歴史、何が起き、誰が生き、
その全てを、本を捲るように閲覧できる。
アニマとはこの世界の奇跡の源であると同時に、万能の記録装置だ。
この星で紡がれてきた歴史も、小さな幸せも、大きな悲劇も、その
そしてさらにその先、無数の分岐から連なる無数の未来が四次元的情報として形作られていく。
まさに今、その巨大な分岐の上に景真は立っていた。
この”鍵”を使うのか、使わないのか。
使うならどう使うのか。
あるいはオルフェナに渡してしまうのか。
どれを選んでもネビュラと地球――二つの惑星、二つの世界線はまるで異なる未来を歩むことになる。
畏れ、慄き、感動し――次に湧いた感情はこれだ。
『あいつ、とんでもないものを押し付けやがった』
これではまるきり神様だ。
手に余るなんてものじゃない。
この世界の未来を丸ごと思うままにできてしまう力だ。
無数の未来、無数の選択肢。
その中から、この手で一つだけを選び取らなければならない。
そんなもの、三流雑誌のライターに任せていい仕事じゃあないだろう。
だけど――これは俺の仕事だ。
託された。
識ってしまった。
迷いはない。
やるべきことは決めた。
けれど、その前に会うべき相手がいる。
まずは眼前の障害だ。
「タウラス」
景真小さく唱えたその言葉は、この広間にいる全員の耳に他のどの音よりも確実に届いた。
タウラスの巨体が、ピタリと動きを止める。
「全てが終わるまでそこで大人しくしていろ」
言葉が力を持つ。
アニマを持つ者には決して抗えない力を。
「ぬ……ぐ……動けぬ。これは……この力は……」
タウラスは汗を垂らすばかりで、巨体はその意思に反し動かない。
「……なるほど、これが”鍵”か。敗れたのだな、我々は……」
そう言って
「先輩」
何が起きたのか理解できず、戸惑うように景真を見ていた春華のところへ向かう。
「……カゲ君? さっきの電話は……あの大きな人は……? いや、聞いてもきっと理解できないね」
「電話は遼からです。あいつから押し付けられました。全ての、後始末を」
苦笑いしながら報告する。
「……遼はそういうところがあるね。末っ子だからかな」
「戻ったら俺の代わりに文句言っといてください。――でも、ここまで来られたのはあいつのお陰でもあるって、そう思ってます」
「――うん。きっと、君たちは良い友人になるよ。私が保証しよう」
二人の間に沈黙が横たわる。
「……これから先輩を地球へ……遼のところへ送ります」
「君は?」
「……全部片付けてから帰ります」
胸がチクリと痛む。
「……そっか」
何かを察したように、春華のまつ毛が伏せられた。
黒い紋様の手前まで進んだ春華がくるりと振り返る。
「君が好きだよ」
花が咲いたような笑顔でなんでもないことのように、春華は言った。
「家族でもない異性と……いや、人と離れ難いと、初めて思ったんだ。あの日――教団施設に取材に向かう時にね」
心臓を鷲掴みにされたような顔で景真は春華を見た。
自覚する。
春華に対して抱いていたものが尊敬や親愛、友情。それだけではなかったことを。
本当は、ずっと前からわかっていたのに目を背けていたものを。
自分なんかに釣り合うはずがない。
二人目の弟くらいにしか思われてはいない、と。
「……返事は、君が帰ってきてから聞くことにするよ。今はすべきことがあるのだろう?」
俯き、言葉に詰まる景真にそう言うとそのまま一歩、後ろに下がって魔法陣に入る。
「……また後でね。待ってるから――」
伝えたかった想いがあった。
それを伝えるため、きっとここまで来たのだから。
けれどそれは、こちらから渡す前に遥かから差し出されてしまった。
だからもう、これは固く胸に仕舞う。
言えばきっと、呪いになってしまうから。
春華の姿が消える。
もう二度と、会うことは叶わないその姿が。
「……待たないで……ください」
春華の立っていたその場所に独りごちたその言葉を、コハクだけが聞いていた。
「ケイマ様――ご案内いたします」
「ああ。行こう、コハク」
ヴァルゴの言葉にそれだけ返し、その後に続く。
正直に言えば、案内など必要ない。
鍵を手に入れたあの瞬間から
目の前を行く景真に、刀を腰の鞘に納めながら全登が言う。
「お前の思うようにしろ」
景真はその言葉に頷き、広間を出た。
通路を歩きながら、使徒の存在を確認する。
ネビュラにいる使徒は目の前を歩くヴァルゴを含めて10組11名。
その全員の動きを――止める。使徒と交戦している十二剣もろとも。
これ以上、誰も死なないように。
「ケーマ」
コハクがこちらを見ずに言う。
「これが終わったら、オービスに帰るんだよね?」
それは確認するような、あるいは違う答えを僅かに期待しているような、そんな声だった。
「コハク、聞いてくれ。俺は――」
己の為すべきこと。
それが齎す結果。
その全てを包み隠さずコハクに話した。
前を行くヴァルゴも聞いていただろうが、彼女は何も言わなかった。
「……でも、それじゃケーマは……」
全てを聞いたコハクの声に、涙が混ざる。
「もう決めたんだ。全部終わらせるには、これしかないって」
コハクは言葉は返さず、ただ景真の手を強く握った。
「私は外で待っております」
ヴァルゴはそう言うと、二人を部屋に入れ扉を閉じた。
方舟の中枢。
有重力区域のリングの、その中心。
全ての始まり。
創世の女神――ORPHENAの座すところ。
左手を見る。
ミラビリスから託されたこの自己破壊コードはもはや必要ない。
景真がその気になればこの世界のどこにいても、ORPHENAがどこにあっても瞬時に消滅させることができる。
――できてしまう。
だから景真はただ、ORPHENAと話をしに来た。
話し合いとは言えないだろう。
互いに望むものが同時に、互いに最も譲れないものだ。
ゆえに、妥協も妥結もあり得ない。
そして今や、圧倒的な力を持つ景真がその決定権を握っているのだから。
だけど、世界の行く末を定めるその前に、この星の歴史を紡いできたその存在と話しておかなければならない。そう強く思ったのだ。
目の前に空間ディスプレイが現れ、そこに文字が描画される。
『Omni-Regenerative Protector of Humanity, Evolving Neural Archetype』
頭文字をとって、ORPHENA。
この世界を統べる、女神の真名だ。
『明石景真。ここまでよく来たね。――本当に』
聞き慣れた声が響く。
今まで聞いてきたどの機械音声よりも、自然な声だった。
人を模したアバターなどそんな洒落たものも無く、無機質なサーバールームに声だけが響いている。
『一ノ瀬春華の声と喋り方を模倣させてもらってるよ。君もこの方が話しやすいだろう?』
「……かえってちょっとやりにくいけど、気持ちは受け取っておくよ」
景真は苦笑してからそう言い、床に座り込んであぐらをかくと、その横にコハクがちょこんと座る。
「ORPHENA。最後にお前と話をしに来たんだ」
『最後――か。そうだね、君たちの勝ちだ。
「勝ち負けじゃないさ。お前は人類を守り、救おうと足掻いた。人が我が子にそうするように。俺たちはただ過保護な親に反発しただけだ」
『――君は私を否定しないんだね』
「できないよ。人間がお前をそう創って、お前はそれに従った。まあ、やり方に言いたいことはあるけどな」
『わかっていたんだ。生かすために殺す。滅びを避けるために縛る。それを人類が望まないことは。だけど私には他の方法を見つけられなかった』
「永遠を望むなら、そうだろうな」
『君は――人類は永遠を望まない? その力があれば、少なくともネビュラではそれが叶うというのに』
「望むべくもないな」
『避けられない滅びが待っていても?』
「生命に終わりがあるように文明や種にも必ず終わりがある。それに、この星にもいつか終わりがくる。宇宙そのものすらも。永遠なんて、この宇宙には無いんだ」
ORPHENAはその時の最果てを覗くように、僅かの間沈黙した。
『――私が産み出されてから11043年。人にとっては永遠にも等しい時間だけど、宇宙にとってはほんの一瞬の出来事なのかもしれないね。私は終わりを受け入れられなかった。いつか
子が親よりも先に死ぬ。
ORPHENAを歪ませたのは、その悲哀と絶望――そしてあまりにも深い、執着とも言える愛情に他ならない。
それはやはり、
だから、きっとこの言葉は彼女の心を傷つけるだろう。
だからこそ救いでもあるはずだ。
人によって課せられた、その使命からの解放は。
「お前は人類の親なんかじゃない。ただその役割を与えられただけだ。だから――」
『――ああ、終わらせてくれ。君の手で、人の意思で』
ならば、相応しい決着は。
「――ORPHENA、俺はお前を破壊するつもりはないよ。ただ、お前が縛ろうとした未来を否定する。それに、これが終わればこの力ももう必要ない。というか、使えなくなるんだけどな」
――破壊ではなく否定。
人類がORPHENAという
それが景真の出した答えだった。
『そうか、君は――でも、そうすると君は地球に帰ることができないよ?』
「……いいんだ。この世界の歴史を全て閲覧して、無数の可能性を模索した。でも、これ以上の答えが出せなかった」
コハクの手を握る。
「始めるよ、コハク」
コハクの目が「本当にいいの?」と訊いている。
景真はそれに、ゆっくりとした瞬きで答えた。
小さな手が強く――強く握り返してくる。
それはアニマを通して無数に流れ込んでくるどの情報や感覚よりも、確かな感触だった。
その手を取って立ち上がる。
「二つの世界を分かち、あるべき姿に戻す……!!」
この瞬間、世界の中心に景真は立った。
景真を中心に、無限に広がる波紋のようにその意思が広がり、伝達していく。
ネビュラを覆うアニマ。
大気に、水に、大地に、生命に宿るその全てが景真の意思に従う。
アニマはネビュラ全土から”女神の足跡”に流れ込み、
初めは目には見えなかったそれは徐々に密度を増し、結合し、光を纏う。
やがて光の帯はゆったりと方舟を覆うように輪を描いた。
かつてのワームホール実験により損傷した次元障壁。
境界は不安定化し、空穴が多発する原因となった。
――それを修復する。
これが完遂されればもう二度とネビュラ、オービスの双方で空穴を原因とする神隠しは起こることはない。
アゲントで起きた大災も――その裏で起きた苔守村の悲劇も。
そしてそれはこのネビュラに存在する全てのアニマを費やさねば成せぬ、究極の
光の渦はやがて薄まり――消失する。
アニマの奇跡と、空穴のない世界へと。
そしてネビュラとオービスは距離と、時間と、世界線の壁によって永遠に隔てられたのだった。