アビドスの美女先生(中身は男)は、今日を生き延びたい 作:気弱
「……よし。喉仏、よし。スーツの着こなし、よし」
鏡に向かって最後の手入れを行う。
本人は「きっちり正装した男」だと思っているが、映っているのは誰がどう見ても「凛とした、知的な美女」だ。涼しげな目元に白シャツと黒スーツのコントラストが映えている
しかし、そのスーツの下には彼が日々「男としての矜持」をかけて励んできた筋トレの成果が隠されている(自称)。戸籍上の性別は「男」
(よし、だいぶ『ガタイ』が良くなってきたはず。これなら、黙っていても女性に間違われることも減る……はず)
だが、悲しいかな。彼が「努力の結晶」だと思っているその肉体は、このキヴォトスにおいては「少し引き締まった、スタイルの良いモデル体型の女性」という範疇を1ミリも出ていなかった。本人が「分厚くなった」と喜んでいる胸板は、端から見れば「少し胸が寂しい女性」にしか見えない。その認識のズレこそが、彼の最大の悲劇(喜劇)の種であった
かつては自分を「男」として認めさせようと必死に足掻いた時期もあったが、説明すれば驚愕され、否定すれば「嘘をつくな」と怒られる。そんな不毛なやり取りに疲れ果てた彼は、いつしかこう思うようになった。
(もう、いいや。いちいち訂正するのも疲れちゃったんだよね。相手が俺を女性だと言うなら、もうそれで通そう。その方が世界はスムーズに回るんだから)
そう。彼は決して「女装癖」があるわけではない(ただしかわいい服は意外と好きな趣味がある。着るかは別問題)。ただ、説明する労力を放棄し、**「聞かれなければ女性として振る舞う」**という処世術を選んだだけなのだ
そんな彼に下された次なる指令は、崩壊寸前の「アビドス高等学校」への赴任であった
(アビドスか……砂漠の過酷な環境なら、多少筋肉があっても不思議じゃない。今度こそ、誰にも迷惑をかけずに『先生』としてやっていけるはずだ)
彼は、重い溜息と共に「先生」としての身分証をポケットにねじ込んだ。
中身は骨太なハードボイルドを自負している(が、世間的には細身の美女にしか見えない)先生は、スーツの襟を正した。
「よし。今度こそ、静かに、平和に仕事を全うしよう」
それが、後に伝説となる「美女先生」が、砂塵舞うアビドスの地に一歩を踏み出した瞬間だった。
砂漠の空気は今日も乾燥し、アビドス高等学校の校舎は静まり返っていた。しかし、対策委員会の部室だけは、期待と不安が入り混じった妙な熱気に包まれている。
「――というわけで、今日から新しい『先生』が派遣されてくるはずだよ〜」
ソファに寝転んだホシノが、手元の資料をひらひらさせながら告げた。その言葉に、部室内の温度が一段跳ね上がる。
「新しい先生……どんな人でしょうか。真面目な方だといいのですが」
「ん。……強ければいい。戦術のイロハ、叩き込んでくれるかな」
「シロコちゃーんおじさんのハンドガンで遊ぶのはやめてねー?」
アヤネが緊張で眼鏡を押し上げ、シロコがどこからか取り出したホシノのハンドガンの動作確認を始める。そんな中、一番そわそわして落ち着きがないのはセリカだった
「ちょっとあんたたち、少しはシャキッとしなさいよ! 私達の運命がかかってるんだから、もし変な男が来たら即刻追い出して、その場で砂に埋めてあげるんだからね!」
その時控えめなノックの音が響いた。部室の古びた扉がゆっくりと開く
「失礼します。今日からシャーレから配属された者です」
そこに立っていたのは仕立ての良い黒のパンツスーツに身を包んだ、驚くほどの「美女」だった。
透き通るような肌、涼しげな目元、さらりと流れる艶やかな黒髪。その洗練された立ち姿は、殺風景な部室の空気を一瞬で華やかなものに変えてしまう
部室を支配する沈黙
あまりの美しさに、一同が呼吸すら忘れて見惚れる中、セリカが絶叫に近い声を上げる
「っ……か、可愛い!! 美女の先生なんてラッキーじゃない! 良かったぁ、変な男の先生じゃなくて!」
セリカは弾かれたように駆け寄ると、先生の両手をぎゅっと握りしめて目を輝かせた
「えっ…わわ!?」
「ねえ先生! 私黒見セリカ! よろしくね! ほら、あんたたちも挨拶しなさいよ!」
「わ、私は……十六夜ノノミです〜。先生、すっごくお綺麗ですね……!」
「砂狼シロコ。ん……先生、いい匂いがする」
「ほうほう……これは驚くほど美少女だね〜。おじさん惚れ惚れしちゃうよ! あっ、私は小鳥遊ホシノだよ〜」
「私は奥空アヤネです! こんなきれいな方とお仕事出来るなんて光栄です!」
詰め寄る対策委員会のメンバーに、先生は引き気味に困ったような笑みを浮かべた
「あ……いや、あの……」
先生の声は、落ち着いた中性的なテノール、あるいはハスキーなアルト。しかし、幼少期から「完璧に女性にしか見えない」容姿のせいで、人生はドタバタ劇の連続だった。役所で性別欄を見れば二度見され、男子トイレに入れば通報されかけ、病院では女性用待合室に押し込まれる。その度に「いえ、男です」と訂正してきたが、信じてもらえた試しがない
そしてとうとう、彼は性別を訂正することを諦めた。
いちいち相手の驚愕と気まずい顔を見る労力に心が折れたのだ
「聞かれなければ、もう女として扱われても構わない」――そう悟ってから、彼の生活は(精神的に)劇的に楽になった
「……先生?」
アヤネが不思議そうに首を傾げる。先生が何かを白状しようと口を開き、そのまま沈黙したからだ。
「……いえ。よろしくお願いします、セリカさん。みなさん」
先生は、慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。その破壊力は凄まじく、ホシノですら「うへ〜、おじさん腰が抜けちゃいそうだよ〜」と感心している。
(本当は、胸ポケットにある書類の性別欄にもバッチリ『男』って書いてあるんだけど……まあ、この子たちがそれを見ることはないだろうし。わざわざ夢を壊す必要もないよね)
しかし、平穏な時間は長くは続かなかった。
「さあ先生! 歓迎会よ! まずはお茶とお菓子を……あ、そうだ! 先生のスーツ、砂埃で汚れちゃってるわ。脱いで貸しなさい、私がブラッシングしてあげる!」
「えっ!? い、いや、大丈夫です!」
セリカが強引に先生のジャケットのボタンに手をかける。
「遠慮しないで! ほら、ノノミ先輩も手伝って!」
「はい、お任せください〜♪ 先生、インナーもシワになっちゃってますし、いっそ部室にある予備のジャージに着替えちゃいますか?」
「なっ、着替え!? それは困る、自分でするから!」
「ん。……先生、照れてる。可愛い。私が脱がせてあげる」
「シロコちゃん、目が本気だよ!? 待って、引っ張らないで! 布が、布が破れる――!」
「きゃああ!? 先生のウエスト、すっごく引き締まってる! 女子の理想だわこれ!」
「ちょっとノノミ先輩、どこ触ってるんですか! でも……本当だ、触り心地が……」
部室は一瞬にして、美女(中身は男)を囲んだ着せ替え人形状態のパニックに陥る
本人が誇りに思っている「鍛え抜かれた腹筋」も、彼女たちの手にかかれば「美しすぎるくびれ」に解釈され、「分厚い背筋」は「凛とした背筋」と褒めそやされる
もみくちゃにされながら先生は必死にベルトとプライドを死守し心の内で血を吐くような溜息をつく
(アビドスの生徒は、距離感がバグってる……! これ、いつかバレる……絶対にバレる……!!)
美女の先生として(圧倒的な勘違いで)迎え入れられた、一人の「男」
これが、アビドス対策委員会と、性別を放棄した先生の、奇妙で騒がしく、そして常に危機一髪な日常の始まりだった
なんとなく遊んでて思いついた話です