テスト期間というものは、人の生活リズムをいとも簡単に破壊する。
香穂はその身をもって、それを実感していた。
「ねむ……」
朝から三時間目までの記憶が、ところどころ途切れている。
黒板の文字をノートに写したはずなのに、
後から見返すと文字が妙に歪んでいたり、
途中で線がふらりと途切れていたりする。
自分でも、かなり限界が近いことは分かっていた。
昨夜は徹夜だった。
教科書、ノート、問題集を広げ、気づけば空が白み始めていた。
「あと一単元だけ」と思い続けた結果が、これである。
授業中、何度も意識が沈みかけた。
机に肘をついて、必死にまぶたを押し上げる。
それでも、視界の端がふっと暗くなる瞬間が何度もあった。
——その様子を、静かに見ている視線があったことを、香穂は知らない。
なんとか午前の授業を乗り切り、昼休みのチャイムが鳴った瞬間。
香穂は、ほとんど反射的に立ち上がった。
「ちょっと、静かなとこ行ってくる……」
誰に言うでもなく呟いて、廊下へ出る。
向かった先は、使われていない空き教室だった。
扉をそっと閉め、窓際の席に腰を下ろす。
机に突っ伏した瞬間、張り詰めていた糸が切れたように、意識が落ちた。
すやすや、と。
意識はすとんと落ちたが、どこか現実と地続きのままの、浅い眠りだった。
まどろみの底で、香穂は夢を見ていた。
内容ははっきりとしていた。
やけに明るくて、きらきらしていて、
その中に、見慣れた人物がいた。
紗月だった。
なぜか二人とも、バニーガールの衣装を着ていて、
香穂は夢の中で「サーちゃんエロいにゃあ」と照れていた気がする。
紗月は相変わらず落ち着いた表情で、でもどこか楽しそうで——
その様子が、やけに印象に残った。
現実の空き教室の扉が、静かに開いたことにも気づかずに。
「……やっぱり、ここだったのね」
小さく呟いて、紗月は中に入る。
授業中、香穂が何度も船を漕いでいたのが気になっていた。
放っておく気には、どうしてもなれなかった。
眠っている香穂を見て、紗月は表情を和らげる。
起こさないよう、そっと近づいた、その時だった。
「サーちゃん……」
寝言とも、うわ言ともつかない声。
次の瞬間、香穂の腕が伸びてきて、紗月の腰に回った。
「——っ」
驚いたが、振りほどくことはしなかった。
香穂は完全に眠っている。
ぎゅっとしがみつくような力は弱く、どこか無防備だった。
紗月はため息の代わりに、小さく笑った。
「……まったく」
そっと、香穂の頭に手を置く。
髪をなでると、安心したように香穂の力が少し緩んだ。
昼休みの静かな時間。
外からは、遠くで生徒たちの笑い声が聞こえる。
その穏やかな空気を破ったのは、昼休みの終了を告げるチャイムだった。
「……ん?」
香穂は、ゆっくりと目を開けた。
……けれど、視界が、ぼやけている。
「あれ……?」
瞬きを一つ、二つ。
それでも、輪郭がはっきりしない。
そこでようやく気づいた。
「(あ……コンタクト……)」
昼休みに入って、空き教室に来た時。
あまりにも眠くて、無意識のうちに外してしまっていたのだ。
視界が一気に不安定になると同時に、
胸の奥に、別の意味での焦りが広がる。
「(や、やば……この状態……)」
香穂は、コンタクトレンズを外すと——
一気に、内側の性格が前に出てしまう。
声は小さくなり、動きはぎこちなくなり、
人と距離を取ろうとする、いつもの素の自分。
その状態で、自分が抱きしめているのが——紗月。
「……?」
紗月は、香穂の様子を見て、ほんの一瞬だけ首を傾げた。
視線は泳ぎ、肩はすくみ、声を出す前に一拍置く。
「……香穂?」
その声で、我に返る。
状況を理解した瞬間、香穂は勢いよく飛び退いた。
「ご、ごごごめんサーちゃん!!今の、ほんとに無意識で……!!」
勢いだけはあるが、どこかちぐはぐな謝罪。
香穂はぺこぺこと頭を下げながら、内心では必死だった。
「(見えてないし、距離感も分かんないし……!)」
紗月は、そんな香穂をじっと見つめる。
——いつもと、少し違う。
声の調子。
間の取り方。
そして、やけにおとなしい態度。
いつものハイテンションでムードメーカーな香穂とは違う。
「……香穂、何だか様子が変ね」
責めるでもなく、問い詰めるでもなく。
ただ、違和感をそのまま言葉にしただけ。
香穂は、ますます小さくなる。
「え、えっと……その……」
言い訳を探しているうちに、視線がふと、紗月の胸元に落ちた。
——そこに、小さなシミ。
そして、自分の口元が、少し濡れている感触。
「(……あ)」
一気に、全てを察する。
「……も、もしかして……」
恐る恐る聞くと、紗月は即答した。
「香穂のよだれね」
「マジごめん!!」
今度こそ、全力だった。
全力で頭を下げる香穂。
紗月は気にした様子もなく、ハンカチを取り出した。
「動かないで」
そう言って、そっと香穂の口元を拭う。
その仕草があまりにも自然で、香穂は余計に顔が熱くなった。
「……はい。もう大丈夫」
「ほ、ほんとすみませんにゃあ……」
「いいの。疲れてたんでしょう」
香穂は急いでコンタクトレンズを付けて武装する。
そして紗月は香穂の手を取る。
「さぁ、授業が始まるわよ」
引かれるまま、空き教室を後にする香穂。
胸の奥が、まだ少しだけどきどきしていた。
「(ちゃんと寝なきゃ……)」
そう強く心に誓いながら、香穂は紗月の背中を見つめていた。
——昼休みの、短くてやさしい出来事だった。
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