真唯が紗月のアパートに来るのは、特別なことではなかった。
曜日も時間も決まっていないけれど、
気づけばいつも、インターホンが鳴り、ドアを開けるとそこにいる。
まるで「来ていい?」という確認すら必要としない距離感で。
今日もそうだった。
「こんにちは、紗月。今日もお邪魔していいかな」
柔らかい声。
相変わらず余裕のある笑顔。
そのすべてが、なぜか少しだけ癪に障る。
「……勝手にすれば。どうせ断っても来るんでしょう」
そう言いながらも、ドアを大きく開ける自分がいる。
真唯は「ひどいなぁ」と笑って靴を脱ぎ、当然のように室内に入ってきた。
座布団に並んで座り、紅茶を淹れ、本の話をする。
紗月の好きな作家、最近読んだ一節、登場人物の心情の解釈。
真唯は相槌を打つだけでなく、自分なりの考えを添えてくるから厄介だ。
――この人は、本当にちゃんと読んでいる。
表面だけなぞって分かったふりをする人間ではない。
その事実が、なぜか誇らしくて、同時に落ち着かない。
「紗月の考え方、やっぱり面白いね。そこに注目するんだ」
「……当たり前でしょう。読書は深く読むものよ」
つん、とした言い方になってしまうのも、いつものことだった。
真唯は気にした様子もなく、むしろ楽しそうに目を細める。
気づけば外は夕暮れで、時計の針が思った以上に進んでいた。
「あ、もうこんな時間か。じゃあ、今日はこの辺で帰るよ」
真唯が立ち上がった瞬間、胸の奥がひどくざわついた。
――もう?
そんな言葉が喉まで出かかって、すぐに飲み込む。
口に出す理由が、どこにも見当たらなかったから。
「……やっと静かになるわ。せいせいする」
自分でも驚くほど、冷たい言葉がすんなり出た。
刺さるかどうかを確認する前に、もう放たれていた。
真唯は一瞬だけ瞬きをして、それからふっと微笑む。
「そっか。じゃあ、またね」
それだけ言って、あっさりと帰っていった。
引き止めもしないし、拗ねることもない。
まるで最初から、そう言われることを想定していたみたいに。
ドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。
……何なのよ。
静かになった部屋で、紗月は一人また座布団に座り込む。
本はまだ開いたままだったけれど、文字はまったく頭に入ってこなかった。
翌日。
紗月は朝から落ち着かなかった。
真唯は学校に来ていない。
仕事が入ることは珍しくないし、
理由としては十分なのに、胸の奥がざわざわする。
――忙しいのかしら。
――ちゃんとごはん、食べてる?
――夜、ちゃんと眠れているのかしら。
気づけば、そんなことばかり考えている。
スマホを開いては、通知がないことを確認して、また閉じる。
連絡すればいい。
それだけの話なのに。
「元気?」
「仕事、忙しい?」
たったそれだけのメッセージが、どうしても送れない。
……別に、私が気にすることじゃない。
そう思おうとするほど、逆に意識してしまう。
昨日の別れ際の真唯の笑顔が、頭から離れなかった。
あれは、いつも通りだったのか。
それとも、少しだけ無理をしていたのか。
結局、その日は真唯のことばかり考えながら眠りについた。
夢の中でも、彼女は何も言わずに微笑んでいた気がする。
更に翌日。
教室のドアが開き、聞き慣れた声がした。
「おはよう」
反射的に顔を上げてしまった自分に、内心で舌打ちする。
真唯は何事もなかったように席に着いていた。
「……あら。もう仕事終わったの?」
わざと、素っ気なく言う。
「うん。ひと段落ついたよ」
「せっかく静かでよかったのに」
ツン、と言い放つ。
いつもの防御。
いつもの距離の取り方。
真唯は肩をすくめて、困ったように笑った。
「つれないなぁ、紗月は」
その笑顔を見た瞬間、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
――無事でよかった。
そんな言葉が、心の中で勝手に浮かぶ。
口には出さない。出せるわけがない。
授業中も、休み時間も、視界の端に真唯が入るたびに意識してしまう。
集中しようとすればするほど、思考は逆方向へ滑っていく。
――真唯♡
――ちゃんと寝た顔、してる。
――今日は元気そう。
――真唯♡真唯♡真唯♡
――一昨日、私が言ったこと……気にしてないわよね?
――真唯♡真唯♡真唯♡真唯♡真唯♡真唯♡真唯♡真唯♡真唯♡真唯♡
気づけば、頭の中は真唯で埋め尽くされていた。
……おかしい。
こんなはずじゃない。
真唯はただの友人で、少し距離感がおかしいだけの存在のはずなのに。
それなのに。
もし今日も来なかったら、私はどうしていただろう。
スマホを握りしめて、理由を探して、最悪――
クイーンローズ本社まで様子を見に行くつもりだった自分に気づき、
紗月は愕然とした。
何を考えているの。
そこまで心配する義務なんて、どこにもない。
なのに、心配してしまう。
胸の奥に渦巻くこの感情に、まだ名前をつける勇気はなかった。
ただ一つ確かなのは。
静かになるはずだった日々が、
真唯がいないだけで、こんなにも落ち着かなくなるなんて――
そんなこと、認めたくなかった。
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