その日は、本当に、なんでもない休日になるはずだった。
昼過ぎのわたしの部屋は、カーテン越しの光が柔らかく差し込んでいて、
エアコンの風が少しだけ冷たく、床に転がしたクッションも、
ベッドの上に放り投げたパーカーも、全部が「いつもの光景」だった。
テレビの前。
ローテーブル。
並んで座るわたしと香穂ちゃん。
ファイくんの起動音が鳴った瞬間の、あの少しだけ胸が弾む感じ。
画面が切り替わり、操作キャラが表示され、
香穂ちゃんが「よっしゃー!」と小さくガッツポーズをする。
「れなちん、今のジャンプ、完璧じゃん!」
「へへっ……まぁね」
こういう、どうでもいいやり取り。
勝っても負けても、失敗しても笑って済む時間。
気を使わなくていいし、変に背伸びもしなくていい。
香穂ちゃんはテンションが高いけど、根は素直で、一緒にいると楽だ。
わたしは、こういう瞬間が好きだった。
だからこそ――
だからこそ、油断していた。
「おー、盛り上がってるじゃん」
ドアの方から聞こえた声に、わたしは一瞬だけ肩をすくめた。
「遥奈」
妹の遥奈だった。
両手を後ろに組み、
明らかに「面白いものを見つけました」という顔で、ゆっくりと部屋に入ってくる。
「ねえ、香穂ちゃん先輩。お姉ちゃん、昔からゲーム好きだったんだよ」
「えっ、そうなんだ!」
嫌な流れだ。
わたしはコントローラーを置き、全身で警戒態勢に入る。
「遥奈、余計なこと言わなくていいから」
「余計なこと?これとか?」
遥奈は、わたしの制止を完全に無視して、クローゼットの奥から――
分厚いアルバムを引きずり出した。
その瞬間、わたしの頭の中で警報が鳴り響いた。
「ちょっと待ってそれはダメ!!」
「え、なになに?」
香穂ちゃんが、完全に好奇心の塊みたいな目でこちらを見る。
遥奈は、悪魔みたいな笑顔でアルバムを開いた。
「はい、お姉ちゃん・幼稚園時代~」
「やめろぉ!!」
声が裏返った。
というか、もはや悲鳴だった。
「うわっ、ちっちゃ!この服なに!?帽子でかすぎ!」
アルバムの中のわたしは、今よりも顔が丸く、
謎のポーズで、意味不明な笑顔を浮かべている。
「かわいーっ!!」
「かわいくない!!それは過去!!封印案件!!」
わたしは必死にアルバムを奪おうとするが、
バドミントン部で鍛えてる遥奈は身軽だった。
「いやー、いいもん見せてもらった!」
「遥奈ぁ……!」
そして遥奈は、目的を果たした満足感だけを残して部屋を去っていった。
……嵐は、去った。
――はずだった。
「……にゅふふ」
背後から聞こえた笑い声に、わたしは嫌な汗をかく。
「……香穂ちゃん?」
「ねえ、れなちん」
香穂ちゃんは、指を顎に当てて、楽しそうに目を細める。
「ひらめいたにゃあ!」
「その言い方やめて!!」
わたしは直感的に悟った。
この休日は、もう「普通」では終わらない。
◯
翌日の日曜日。
香穂ちゃんからのメッセージは、やたらテンションが高かった。
『今度はうち来て!』
『楽しいことしよ☆』
わたしはスマホを見つめながら、深くため息をつく。
でも、断れなかった。
昨日のアルバムの件が、頭から離れなかったからだ。
香穂ちゃんの家は、明るくて、物が多くて、
いかにも「楽しい人の部屋」という感じ。
部屋の奥には、クローゼットと並んでハンガーラックが置かれていて、
そこに掛かっている少し派手な衣装が大量にあるのが特徴だ。
香穂ちゃんはコスプレを趣味にしているのだ。
イベント用だったり、ただ気分で着る用だったり、
そういう役割を変えた衣装が何着もある。
だから特別驚きはしない。
……しないはずだった。
ただ、この部屋に足を踏み入れた瞬間から、
なぜか嫌な予感だけが、じわじわと胸の奥に広がっていく。
「れなちん、ちょっと待っててね!」
そう言って奥の部屋に引っ込んだ香穂ちゃんが、戻ってきた時――
わたしは、現実逃避を始めた。
「……なに、その袋」
「ふふふ」
袋の中から出てきたのは、明らかにコスプレ用の服だった。
しかも、幼い子が着そうな園児服!!
「……冗談だよね?」
「ごっこ遊びだよ!」
「ごっこ遊びの範囲、完全に超えてるでしょ!」
わたしは後ずさる。
だが、香穂ちゃんは逃がさない。
スマホを取り出し、にゅふふ、と笑う。
「昨日の写真、みんなに見せちゃおっかな~」
「それ脅迫だから!!」
完全敗北だった。
「……分かったよ。着ればいいんでしょ」
「やったー!」
着替え終えたわたしは、鏡を見ないようにして深呼吸した。
これは遊び。
これはノリ。
深い意味は、ない。
……ないはずだ。
結局、園児服でおままごとをすることなった。
高校生にもなって、おままごと……どうしてこうなった!?
羞恥プレイにも程があるだろぉ!!
「おかえりなさ~い、ママ♡」
その一言が、部屋に響いた瞬間。
わたしは一拍、完全に思考が停止した。
「た、ただいま……」
条件反射で返事をしてしまった自分が、まず信じられない。
いや違う、違うんだ。
これはおままごとで、役割設定で、深い意味は――
「お仕事おつかれさま~!」
香穂ちゃんは、にこにこしながら駆け寄ってきて、
わたしの前でぴたりと立ち止まる。
距離が、近い。
やたら近い。
わたしは視線を逸らしつつ、ぎこちなく立ち尽くした。
「……あのさ、香穂ちゃん」
「なに?」
この無邪気な返事が、一番厄介だ。
「えっと……これ、誰がどういう設定?」
「んー?」
香穂ちゃんは少し首を傾げてから、さらっと言った。
「れなちんがママで、あたしがパパだよ?」
「逆じゃん!!」
思わず即ツッコミを入れてしまった。
「えー、だってれなちんのほうがしっかりしてるもん」
「それ理由になってないから!」
でも、もう訂正する気力も湧いてこない。
ここで反論しても、どうせ別の方向に話が飛ぶだけだ。
「じゃあじゃあ、次いくよ!」
香穂ちゃんは、わたしの返事を待たずにキッチンの方へ小走りに向かう。
「ごはんにする~?」
「……うん」
「ごはんにする~?」
「え」
「それとも~」
わたしは、もう半ば諦めた気持ちで頷いた。
「ごはんで!」
「それとも~、ご・は・ん?」
……選択肢とは。
いや、選択肢という概念そのものが、ここには存在していない気がする。
「じゃあ、ごはんだね~!」
そう言って香穂ちゃんがテーブルに運んできたのは、
湯気を立てるナポリタンだった。
ケチャップの甘酸っぱい匂いが、部屋にふわっと広がる。
「……ちゃんと作ったの?」
「もちろん!」
フォークを持つ手が、少しだけ警戒気味になる。
こういうノリの延長で出てくる料理は、
だいたい見た目重視で味が怪しいことが多い。
一口。
「……あれ」
思わず声が漏れた。
「どう?どう?」
「……普通に、美味しい」
自分でも驚くくらい、素直な感想だった。
麺は伸びすぎていないし、味付けも濃すぎない。
ちゃんと「食事」として成立している。
「でしょ~!」
香穂ちゃんは、得意げに胸を張る。
……悔しい。
この状況で、素直に感心してしまう自分が、ものすごく悔しい。
「ママ、ちゃんと食べないとダメだヨ?」
「……はいはい」
なんでわたしが注意される側なんだろう。
そんな疑問を抱きつつも、結局最後まできれいに食べてしまった。
食後、香穂ちゃんは満足そうに頷いて、次の段階に進む。
「じゃあ次は~」
「……まだ続くの?」
わたしの小さな抵抗は、完全に無視された。
「お風呂にする~?」
「……」
「それとも~お風呂にする~?」
「……嫌な予感しかしないんだけど」
「そ・れ・と・も~♡お・ふ・ろ?♡」
「全部お風呂じゃん!!」
結局、選ばされたのはお風呂。
ただし、わたしが想像していたものとは違った。
「園児服のまま!?」
「だってごっこだもん!」
浴室に響くのは、水の音と、香穂ちゃんの笑い声。
水鉄砲が飛び交い、床がびしゃびしゃになる。
「これ、本当におままごとだよね!?」
「うん!」
即答だった。
「夫婦はお風呂でイチャイチャするもんなんだよネ~」
「どこ情報!?」
わたしは全身に水を浴びながら、心の中で必死に言い訳を重ねる。
「(裸じゃないし、服着てるし、ただの水遊びだし……!)」
そう、これは健全。
これは健全な遊び。
……たぶん。
水鉄砲で撃ち合い、笑って、騒いで、
気づけば息が上がり、足が重くなる。
「はぁ……つ、疲れた……」
「楽しかったね!」
楽しかったのが、問題なのだ。
「じゃあ、そろそろ寝よっか」
「……帰っていい?」
「だーめ♡」
即答だった。
取り出されたのは、明らかに幼児向けデザインのパジャマ。
わたしはもう、抵抗する気力を完全に失っていた。
「……今日だけだからね」
「うんうん!」
ベッドに入ると、香穂ちゃんは当然のように距離を詰めてくる。
コンタクトレンズ外してるのにいやに積極的になったな。
これが、日々乗り越えてるものの違いというやつだろうか。
「れなちん~♡」
ぎゅっと抱きつかれて、わたしは一瞬だけ固まる。
「……よ、よしよし」
頭を撫でると、香穂ちゃんは満足そうに目を閉じた。
そのまま、あっという間に寝息を立て始める。
わたしは天井を見つめながら、深く息を吐いた。
「……これ、いつ終わるんだろ」
答えは、どこにもない。
ただ、隣で眠る香穂ちゃんの表情は、驚くほど穏やかで。
怒る気にも、突き放す気にもなれなくて。
「……まぁ、今日だけ。早く起きて登校の準備すればいい」
何度目か分からない言い訳を、心の中で繰り返しながら、
わたしはゆっくりと目を閉じた。
出口の見えないおままごと(?)地獄の最深部へと、
ズブズブ完全に踏み込んでしまった。
◯
――その数分後。
ぺち。
「……ん?」
頬に、軽い衝撃。
寝ぼけながら目を開けると、
香穂ちゃんの腕が、わたしの顔の上に乗っている。
「……」
そっと腕を持ち上げて、元の位置に戻す。
「(まあ、寝相は多少悪いよね)」
わたしは再び目を閉じた。
――五分後。
ぼすっ。
「ぐふっ!?」
今度は腹に直撃。
何が起きたのか理解するまでに一瞬かかる。
香穂ちゃんの膝が、わたしの腹に乗っていた。
「ちょ、ちょっと……」
そっとどかす。
香穂ちゃんは無意識のまま、くるりと寝返りを打つ。
わたしは深く息を吸い、もう一度目を閉じる。
「(大丈夫。大丈夫。もうない。きっとない)」
――甘かった。
どすっ。
「いっ……!」
今度は肩に肘。
続けざまに、ぺちぺちと頬を叩かれる。
「……なんで連打?」
完全に起きた。
暗闇の中、横目で香穂ちゃんを見る。
本人は、エンジェルみたいな顔で熟睡している。
だがその実態は、暴風域。
次の瞬間、がばっと腕が振り回され、わたしの額に直撃。
「いったぁ!?」
思わず声が出る。
さらに、足が伸びてくる。
布団が引きずられる。
肩に体重が乗る。
「ちょ……ちょっと待って……」
これは添い寝ではない。
これは、格闘技の夜間練習だ。
ぺち。
ぼこ。
ごすっ。
「……」
わたしは無言で天井を見つめる。
脳裏に浮かぶのは、あの白くて重たい存在。
――ファイくん(プレイステーション5)。
わたしは、いつも彼を抱きしめて寝ていた。
重たいのに、無理やり。
体勢を変えるたびに、持ち上げたり、押しのけたり。
そしてある日、床に落ちていた。
「……あ」
今、分かった。
わたしは、ファイくんに対して、毎晩これをやっていたのかもしれない。
ぺち。
「……ごめん、ファイくん」
小さく呟く。
ぼこっ。
「いった!」
香穂ちゃんの膝が、再びヒットする。
なるほど。
無抵抗の存在に、無意識で振るわれる暴力。
逃げ場のない衝撃。
これが――
「ファイくんの気持ち……!」
わたしは、布団の中で静かに悟った。
ペチペチボコボコ。
終わらない物理ダメージ。
精神的羞恥プレイを乗り越えたと思ったら、
最後は物理で削られるとは思わなかった。
「……これは地獄の黙示録だ」
覚悟を決めた。
そして翌朝5時。
「ん~、よく寝たぁ!」
爽やかな声が響く。
わたしは、虚ろな目で天井を見ていた。
「……れなちん?」
「……おはよう」
声が、かすれている。
「どうしたの?クマすごいよ?」
「……楽しかったね」
わたしは、遠い目でそう返した。
心の中で、静かに誓う。
もう二度と、軽い気持ちで添い寝はしない。
そして――
「ファイくん……本当に、ごめん」
わたしは、自分が毎晩していた所業を、ようやく理解したのだった。
こうしてわたしは、
精神的羞恥と物理的ダメージの両方を受けきった一夜を終えたのである。
モチベ維持のために感想・評価をもらえると助かります。