その日、玄関のドアを閉めた瞬間、家の中がやけに広く感じられた。
いつもなら、リビングの奥からテレビの音が聞こえてくる。
キッチンではお母さんが夕飯の準備をしていて、
遥奈が冷蔵庫を勝手に開けて怒られている。
――なのに今日は、何もない。
耳を澄ましても、聞こえてくるのは換気扇の低い音と、
壁掛け時計が刻む秒針の音だけだった。
両親は一泊の旅行。
妹の遥奈は友達の家でお泊り会。
「……ほんとに一人だ」
誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟く。
靴を脱いで、廊下を歩くと、
フローリングに触れる足裏の感触まで、いつもよりはっきりしている気がした。
嫌じゃない。
むしろ、ちょっと楽しみにしてた。
夕飯は適当でいい。
お風呂も好きな時間でいいし、
夜更かししても、誰にも「早く寝なさい」なんて言われない。
「今日はコンビニ弁当だなぁ」
制服のままソファに倒れ込む。
クッションがふわっと沈んで、身体の力が抜けた。
――その時だった。
――ぶるん。
手元のスマホが震える。
画面に表示された名前を見た瞬間、
自分でも気づかないうちに、口元が緩んでいた。
『小柳香穂』
昼休みに話した記憶が、うっすら蘇る。
「今日、家誰もいないんだよね」
たぶん、軽い雑談のつもりで言っただけだったはずなのに。
『れなちん。今日、家で一人なんだっけ?』
わたしは少し迷ってから、素直に返事を打った。
『うん。両親も妹もいなくて』
『コンビニで済ませる予定』
それを送信して、画面を見つめる。
既読がつくまでの、ほんの数秒がやけに長く感じられた。
少し間が空いてから、次のメッセージ。
『それなら、あたしが夕飯作ろうか?』
「……え?」
思わず、声が出る。
一瞬、冗談かと思った。
でも、そのあとすぐに続いたメッセージで、本気だと分かる。
『そんな悪いよ!?』
『全然悪くないよ!チャーハンなら自信あるし』
チャーハン。
なぜかすごく、香穂ちゃんらしい。
『一人で食べるより、楽しいと思うけど』
その一文で、決心がついた。
――確かに。
一人を満喫するつもりだったはずなのに、
香穂ちゃんと一緒に食卓を囲む想像をした瞬間、
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
『じゃあ、お願いしてもいい?』
すぐに返ってきたのは、
『やった!』
感嘆符付きのその一言に、思わず小さく笑ってしまう。
香穂ちゃんが家に来る。
その事実を意識した途端、
なぜか落ち着かなくなって、わたしは急いで行動に移った。
掃除をするほどでもない。
でも、なんとなく気になって、
テーブルを拭いて、ソファのクッションを整えて、
床に転がっていた遥奈のぬいぐるみを端に寄せる。
キッチンに立って、エプロンを出してみてから、
「わたし、何もしないじゃん!」と自分にツッコミを入れて、そっと戻す。
インターホンが鳴ったのは、
夕焼けが窓ガラスに映り込む頃だった。
「はーい」
少しだけ声を整えて、玄関へ向かう。
ドアを開けると、
そこには大きなエコバッグを抱えた香穂ちゃんが立っていた。
「おっ邪魔しまーす!」
その明るい声だけで、
さっきまで静まり返っていた家の空気が、一気に変わる。
「ほんとに来たね……」
「来るって言ったでしょ?」
当たり前みたいに笑う香穂ちゃん。
靴を揃えて脱ぎ、
迷いなくキッチンへ向かう背中を見て、
まるで何度も来たことがあるみたいだな、と思った。
香穂ちゃんは、エコバッグから取り出した中華鍋を軽く掲げてみせた。
「中華鍋持ってきた!」
「……マジ?」
うちにあるのは、ほとんど使われていない黒光りもしない鍋だ。
それに比べて、香穂ちゃんの鍋は底がしっかり焼けていて、
使い込まれているのが一目で分かる。
「自前だよ。火の入り方、全然違うんだよ?」
そう言って、香穂ちゃんはコンロの前に立つ。
フライパンじゃなく、あくまで中華鍋。
その立ち位置だけで、なんだか本気感が漂っていた。
油を回した瞬間、キッチンにふわっと香ばしい匂いが広がる。
次の瞬間――
ぼわっ!!
鍋から火が燃え上がった。
「ちょ、ちょっと!?」
思わず声を上げたわたしとは対照的に、
香穂ちゃんは少しも慌てる様子を見せなかった。
「大丈夫大丈夫。これくらいじゃないと」
火に照らされた横顔は真剣で、いつものふわっとした雰囲気とは違う。
卵を割り入れると、じゅわっと音を立てて一気に広がる黄色。
すぐに鍋を煽り、卵を空気に触れさせるみたいに混ぜていく。
「卵はね、最初に火を入れすぎないのがコツ!」
そんな説明をしながらも、手は止まらない。
ご飯を投入した瞬間、鍋の中で白い粒が弾けるように跳ねた。
「火、強すぎじゃない!?」
「チャーハンは勢いだヨ☆」
鍋が前後に振られるたび、ご飯が宙を舞い、
フライパンに落ちる音がリズムみたいに響く。
しゃっ、しゃっ、と乾いた金属音。
油と米がぶつかる、心地いい音。
わたしはただ、少し後ろで見ていることしかできなかった。
――なんだか、すごい。
料理をしているはずなのに、その動きはまるでダンスみたいで、
目が離せなかった。
最後にネギを入れ、塩と胡椒を振る。
香りが一気に立ち上って、思わず喉が鳴る。
「はい、完成!」
皿に盛られたチャーハンからは、湯気が立ち上り、
ほんのり黄金色に輝いていた。
「……食べるよ?」
「どうぞどうぞ~」
少しだけ警戒しながら、スプーンですくう。
一口。
「……美味しい!」
思わず、声が漏れた。
油っこすぎず、でも物足りなくもない。
卵のふんわりした部分と、
しっかり焼けた米粒の食感が混ざり合っている。
「え、なにこれ……」
「でしょ?」
香穂ちゃんは、わたしの反応を見て満足そうに笑った。
「いや、想像以上……絶品……!」
そう言った瞬間、香穂ちゃんの表情が、ちょっとだけ誇らしげになる。
その顔を見て、わたしは不思議な気持ちになった。
――コンビニ弁当で済ませるつもりだったのに。
――一人で、静かに食べるはずだったのに。
今は、誰かが作ってくれた温かい料理を、その人の目の前で食べている。
それが、こんなにも嬉しいなんて思わなかった。
気づけば、窓の外は真っ暗だった。
「……あ、もうこんな時間」
「ほんとだ」
一瞬、沈黙。
さっきまで楽しかった分だけ、
その静けさが少し名残惜しい。
「香穂ちゃん、帰るの……危なくない?」
「……暗いしねー」
少し迷ったあと、
香穂ちゃんが、ほんのり照れたように言った。
「……泊まってっても、いい?」
断れるわけがなかった。
その後、わたしたちはファイくんでゲームをした。
負けたら罰ゲームとか言い出して、
結局、どっちが勝ったのかも曖昧になるくらい笑った。
一緒にお風呂に入って、背中を流し合って、
着替えはわたしのを貸してあげた。
「サイズ、大丈夫?」
「ちょっとぶかぶかだけど、それも楽しい!」
布団を並べ、電気を消したあとも、
すぐには眠れなかった。
「れなちん~」
「なに?」
「今日、楽しかった!」
暗闇の中で聞く香穂ちゃんの声は、
昼間より少しだけ柔らかかった。
「……わたしも」
一人を満喫するはずだった夜は、
気づけば、友達と過ごす特別な夜になっていた。
――悪くない。
むしろ、ずっとこうだったらいいのに。
そんなことを思いながら、わたしは静かに目を閉じた。
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