三学期。
真冬。
それだけで十分寒いのに、今日は今年いちばんの寒波だという。
朝のニュースで聞いたその言葉を、わたしは何度も頭の中で反芻していた。
寒い。
とにかく、寒い。
教室の暖房は確かに稼働している。
送風口からは、ちゃんと温風が出ているはずだ。
それなのに、足元からじわじわと冷気が這い上がってきて、
椅子に座っているだけなのに、体の芯まで冷やされていく感覚があった。
学校で決められている設定温度。
誰かが勝手に上げることはできない。
だから今日は、全員が平等に寒い。
わたしは無意識のうちに肩をすくめ、腕を抱いた。
指先がかじかんで、感覚が少し鈍い。
ペンを握る手にも力が入らなくて、
文字を書くたびに、微妙に線が揺れる。
「さむ……」
小さく呟いた声は、
教室のざわめきに紛れて、どこにも届かなかった。
けれど。
「れなちん、めっちゃ震えてるじゃん」
すぐ隣から、聞き慣れた声が降ってくる。
顔を上げると、香穂ちゃんが立っていた。
ブレザーの上からでも分かるくらい、元気そうで、
寒さなんて気にしていないみたいな顔。
「だ、だって……今日ほんとに寒いんだもん……」
「うんうん、寒いよね。だからさ」
香穂ちゃんは、少しも迷わず言った。
「抱き合って暖め合えばいいんだよ☆」
「――は!?」
一瞬、頭が追いつかなかった。
「ちょ、ちょっと待って!ここ教室だよ!?恥ずかしいから!!」
慌てて周囲を見渡す。
誰かに聞かれていないか、見られていないか。
……けれど。
視界に入った光景は、想像していたものと少し違った。
手をこすり合わせている生徒。
友達同士で肩を寄せている生徒。
中には、冗談半分で腕を組んでいる人たちまでいる。
……あ。
今日は、みんな必死だ。
「ほら、みんなやってるし!」
香穂ちゃんは、わたしの戸惑いなんて気にせず、
明るく笑って言う。
「れなちん、おっぱい大きくて抱き心地良いし!」
「ちょ、大きな声で言わないで!?」
そう言い返しながらも、寒さは確実に、わたしの思考力を削っていく。
肩をすくめても、腕を抱いても、寒さは引いてくれない。
「……ちょっとだけだからね……?」
負けた。
「やった!」
香穂ちゃんは、待ってましたと言わんばかりに近づいてきて――
ぎゅっ。
躊躇なく、抱きついてきた。
「――っ!」
思ったより、ずっと近い。
胸元に香穂ちゃんの体が触れて、一瞬、呼吸の仕方を忘れた。
ブレザー越しでも、はっきり分かる体温。
冷え切っていたわたしの体に、じわじわと熱が戻ってくる。
「れなちん、あったかいにゃあ~♡」
「……それ、香穂ちゃんの体温でしょ」
そう言い返しながらも、
心のどこかで、ほっとしている自分がいた。
「こうすると、もっ~と暖かいっ!!」
香穂ちゃんはそういうと抱きついたまま回転を始めてしまった。
いつしか見たローリング香穂ちゃんだ。
寒さで強張っていた背中が、少しずつ、解けていく。
……あれ。
意外と、落ち着く。
恥ずかしいのは恥ずかしい。
教室だし、人目もある。
なのに、それよりも、
「寒くない」という事実の方が、今は大きかった。
そのとき。
「いいなぁ……」
小さな声が、耳に届いた。
顔を上げると、紫陽花さんが少し離れたところからこちらを見ていた。
視線が合った瞬間、ほんの少しだけ、目を逸らす。
羨ましそうで、でも、遠慮しているみたいで。
「アーちゃんも来る~?」
香穂ちゃんが、ニヤニヤ顔で声をかける。
「え……で、でも……」
紫陽花さんは、一瞬迷ったあと、小さく頷いた。
ゆっくりと近づいてきて、そっと、腕を回してくる。
……ふわっ。
香穂ちゃんとは違う、優しくて、包み込むような温度。
肩に触れた紫陽花さんの額が、ほんのり温かい。
「……あったかいね」
耳元で囁かれたその一言で、胸の奥が、きゅっと締まった。
「れな子おねえちゃ~ん、ぎゅ~♡」
「紫陽花ちゃん!?」
まさかの家出旅行の時の5歳児、紫陽花ちゃん再臨。
三人。
両側から挟まれて、体の逃げ場がなくなる。
なのに、不思議と嫌じゃない。
むしろ、
もう少し近くても……なんて、考えてしまう自分が怖い。
そのとき、刺さるような視線を感じた。
見ると、少し離れた場所で紗月さんが本ではなく、こちらを見ている。
冷静。
冷淡。
でも、完全に無関心ではない。
「……」
無言の圧が、重い。
「さ、紗月さんも……寒くないですか……?」
勇気を出して声をかけると、
「私は遠慮しておくわ」
即答だった。
……ですよね。
三人で抱き合っているだけで、教室の寒さはもう遠くなっていた。
香穂ちゃんの体温は元気そのもの、
紫陽花さんのぬくもりは静かでやさしく、
その間に挟まれたわたしは、
恥ずかしさと安心感がごちゃまぜになって、思考がふわふわしていた。
「れなちん、力抜いていいよ~。固い固い」
「え、で、でも……」
「大丈夫だよ。ほら、寒くないでしょ?」
紫陽花さんが、そう言って少しだけ腕に力を入れる。
ぎゅ、というより、そっと包む感じ。
「……うん。あったかい……」
自分の声が、やけに正直で、それがまた恥ずかしくて、視線を落とす。
そのときだった。
「……なるほど。合理的だね」
落ち着いた声。
真唯。
いつの間にかすぐ近くまで来ていて、
わたしたち三人を観察するように、静かに微笑んでいた。
「ちょ、ちょっと真唯……?」
言葉より先に、緊張が走る。
「この寒さで、その密度なら、確かに効率はいい」
「でしょでしょ!」
香穂ちゃんが、すかさず食いつく。
「れなちん、最初めっちゃ震えてたんだよ?もう人肌しか勝たんって感じ!」
「……香穂ちゃん、言い方」
紫陽花さんが苦笑しながらも、真唯の方を見る。
「真唯ちゃんも……寒いなら、無理しなくていいよ?」
その声は穏やかで、誘っているというより、自然に場を開けている感じだった。
「ありがとう。それじゃ――」
真唯は一歩、距離を詰める。
「私も『れな子をギュッとしたい』」
そう言って、迷いなく腕を伸ばしてきた。
その発言は忘れかけていた、嘗て真唯が達筆で半紙に書いた言葉。
「……あ」
声にならない息が漏れた。
驚いたはずなのに、体は逃げなかった。
背中に触れた真唯の体温が、ひやりとした感覚を押し流していく。
気づけば、わたしは無意識のうちに肩の力を抜いていた。
四人。
一気に、空気が変わった。
熱が、閉じ込められる。
逃げ場がなくなる。
「想像以上に暖かいね」
「でしょ~?」
香穂ちゃんは、どこか得意げだ。
「れなちん、中心だから一番あったかいと思うよ!」
「……それ、褒めてる?」
でも否定できない。
体の内側まで、ぬくもりが染み込んでくる。
「れなちゃん、顔……ちょっと緩んでるね」
紫陽花さんが、くすっと笑う。
「へ、へへへ……そんなことないですよ」
そう言いながら、離れたいとは、まったく思えなかった。
――そして。
その光景を、少し離れた場所から、ずっと見ている人がいる。
紗月さん。
腕を組み、表情は相変わらず冷静。
でも、その視線は、確実にこちらを捉えていた。
「……」
なんというか。
無言なのに、圧がある。
「サーちゃん、さっきからめっちゃ見てるよ?」
香穂ちゃんが、遠慮なく言う。
「寒いなら、来ればいいのに~」
「……見ているだけよ」
即座に返ってくる、素っ気ない声。
「でも」
紫陽花さんが、少しだけ一歩前に出る。
「本、持ったままだから……手、冷えてないかな?」
一瞬だけ、紗月さんの視線が揺れた。
「……別に」
「でも、指先赤いよ?」
香穂ちゃん、容赦がない。
「れなちんなんて、さっきまでガクガクだったし!」
「香穂ちゃん……!」
わたしが止める前に、
「……はぁ」
深いため息。
紗月さんが、ゆっくり本を閉じる。
「……分かったわよ」
そう言って、歩み寄ってくる。
その距離が縮まるだけで、なぜか胸が高鳴る。
「無理に、じゃないからね?」
紫陽花さんが、やさしく声をかける。
「ちょっとだけでもいいよ~」
香穂ちゃんが、にこにこしながら言う。
「……少しだけよ」
そう言って、紗月さんは、そっと身を寄せてきた。
五人。
完全に、ぎゅうぎゅう。
おしくらまんじゅう状態だ。
誰の腕がどこにあるのか分からない。
体温と体温が押し合って、もう寒さなんて、思い出せない。
「やっぱり紗月さんも一緒じゃないとね」
「……甘織のそういうとこ、嫌いじゃないわ」
「え……?」
紗月さんの小さな呟きが、すべてを物語っていた。
その声はいつものきっぱりした響きよりも、少しだけ柔らかくて、
まるでこの状況を受け入れてしまったことを、自分で確かめるようだった。
紗月さんが身を寄せた瞬間、それまで四人で作っていた輪が、ぴたりと閉じる。
隙間がなくなる。
空気が逃げなくなる。
背中、肩、腕――
触れていなかった部分にまで、じんわりと温度が広がっていくのが分かった。
香穂ちゃんの元気な体温。
紫陽花さんのやさしいぬくもり。
真唯の落ち着いた熱。
そして、紗月さんの、少し低めで確かな温度。
全部が重なって、もう「寒い」という感覚そのものが、思い出せなくなる。
胸の奥まで、ぬくい。
「だろう?五人分も集まれば、寒さが入り込む余地なんてない」
真唯は、静かにそう言って微笑んだ。
誇るわけでもなく、当然のことのように。
紗月さんはそれに返事をせず、ほんのわずかに肩の力を抜いた。
それだけで、十分だった。
「……」
わたしは何も言えず、
ただ、激しくなった心臓の音を誤魔化すように、そっと息を整えた。
胸の奥まで、ぬくい。
この五人でいる限り、
真冬の寒波なんて、きっと敵じゃない。
――そう、思った、その瞬間だった。
♪ キーンコーン、カーンコーン ♪
「……」
一斉に、空気が止まる。
やけに大きく、やけに無遠慮に、教室中に響き渡るチャイムの音。
「あ」
誰かが、間の抜けた声を出した。
「……チャイム」
香穂ちゃんが、名残惜しそうに呟く。
「もう!?今めっちゃいいとこだったのに!」
「いいとこって……」
そう言いかけたけれど、わたし自身が、一番動けずにいた。
五人分の体温。
閉じた輪。
完成してしまった、ぬくもり。
それを壊さなきゃいけない理由が、
チャイム一つで十分だという現実が、少しだけ恨めしい。
「……仕方ないわね」
最初に動いたのは、紗月さんだった。
ほんの少しだけ距離を取る。
それだけで、空気が冷えるのが分かる。
「授業、始まるわよ」
「うぅ……」
香穂ちゃんが、わたしから離れながら、名残惜しそうに腕を伸ばす。
「れなちん、続きは放課後ね!」
「続きってなに!?続きあるの!?」
紫陽花さんも、そっと離れて、それでも最後に、わたしの袖をつまんだ。
「……また、寒かったら……ね」
その一言で、心臓がもう一度跳ねる。
真唯は、少しだけ遅れて身を離し、
最後にわたしの顔を見て、静かに微笑んだ。
「短時間でも、十分効果はあったみたいだね」
――そう言われて、今さらのように気づく。
体は、もう震えていなかった。
五人がそれぞれの席に戻っていく。
教室は、いつもの距離感に戻る。
なのに。
胸の奥だけが、まだ、ぬくいままだった。
「……でも、こういうのもいいな」
わたしは一人、深呼吸をして、そっとブレザーの前を押さえる。
寒さに負けない、最強のクインテット。
――その効果は、チャイムが鳴ったあとも、しばらく続いていた。
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