よく考えたら、2月14日っていうのは、年に一度の覚悟の日なんだと思う。
渡す側にとっても。渡される側にとっても。
そして――今日のわたしは、そのどちらにもなり損ねた。
昨日の夜。
わたしはちゃんと準備していたのだ。
手作り?そんな高度なことはしない。ムリムリ。
ちゃんと可愛いラッピングがされた、市販のちょっとお高めチョコを4つ。
真唯に。
紫陽花さんに。
紗月さんに。
香穂ちゃんに。
ちゃんと袋を分けて、机の引き出しの奥に隠して――
「お姉ちゃん、これなにー?」
――という、軽やかな声とともに。
「え?あ、ちょっ!」
気づいた時には、遥奈がすでに四つ開封していた。
しかも、なんの悪意もなく、にこにこしながら。
「バレンタイン?へー。お姉ちゃんもやるんだ」
「それ!わたしのだから!」
「かたいこと言いなさんな。代わりに食べといてあげるね♡」
善意の皮をかぶった暴君である。
結果。
四つとも、跡形もなく消えた。
「お姉ちゃん、ごちそうさま」
その満足げな笑顔を前に、わたしは何も言えなかった。
言えなかったけど。
なんで今日なの。
なんで四つとも。
なんで一つも残さないの。
◯
そして迎えた、バレンタイン当日。
わたしの鞄の中にあるのは――
コンビニで買った、チロルチョコ四個。
いや、正確には昨日自分用に買ってたやつ。
完全に予備。
まさか唯一の命綱になるとは思わなかった。
「……終わった」
教室に入る前に、わたしは廊下で立ち止まる。
でも逃げられない。
なぜなら――
「れなちゃん、おはよう」
ふわっと笑う紫陽花さん。
「おはよう、甘織」
落ち着いた声の紗月さん。
「れなちん!グーテンモルゲン!」
元気いっぱいの香穂ちゃん。
そして。
「……待っていたよ、れな子」
静かな微笑みでわたしを見る、真唯。
全員、紙袋を持っている。
あああああああああ。
◯
昼休み。
屋上。
5人。
わたしの前に並ぶ、小さな箱や袋。
「これは私からだよ」
真唯が差し出すのは、黒と金の豪華な箱。
見るからに本命感。
「私も……れなちゃんに」
紫陽花さんのは、手作り。
透明な袋に、ハート型のチョコが入っている。
かわいい。尊い。
「一応、義理ではないわ」
紗月さんはさらっと言うけど、箱の重みが違う。
絶対高いやつ。
「れなちん専用だよー!」
香穂ちゃんはピンクだらけ。
ラッピングが暴れてる。
……本命4連発。
わたしの心臓はもう限界だった。
「ありがとう……ほんとに、ありがとう……」
でも。
わたしは、何も持っていない。
沈黙が落ちる。
「……れなちんからは?」
香穂ちゃんが、きょとんと首をかしげる。
「あ、えっと、それは……その……」
言えない。
妹に食べられましたなんて。
あまりにも情けない。
「まさか……」
紗月さんが目を細める。
「……用意してないの?」
グサッ。
「ち、違うの!違うよ!あったの!4つあったの!」
「4つ?」
真唯が静かに繰り返す。
「……つまり、私たちに渡すつもりだった、と」
「う、うん……」
「それで?」
「……遥奈に、食べられました」
沈黙。
次の瞬間。
「えええええええええ!?」
香穂ちゃんが大爆笑。
紫陽花さんは「あらあら」と困ったように笑い。
紗月さんは額を押さえた。
真唯だけが、顎に手を当てて考えていた。
「……なるほど」
その目が、ゆっくりとわたしに向く。
いやな予感しかしない。
「つまり、今れな子の手元にあるのは?」
「……チロルチョコ、4個」
ポケットから取り出す。
銀色の小さな包み。
あまりにも貧弱。
「それを、どうするつもりだったの?」
「……帰って、やけ食い」
「却下だ」
即答だった。
「提案がある」
いやだ。
絶対いやな提案だ。
「れな子がそのチロルチョコを口にくわえる」
「は?」
「それを、私たちが1つずつ受け取る」
「……手で?」
「口で」
時間が止まった。
「はあああああああ!?」
屋上に響く、わたしの悲鳴。
「む、ムリムリムリムリ!!」
「公平だろう?」
真唯は真顔だ。
「れな子から直接もらう。それが平等だ」
「いや平等の意味がおかしい!」
「れなちゃんから、何ももらえないの……?」
紫陽花さんが、しゅん、と目を潤ませる。
「私も……ちょっと楽しみにしてたのだけれど」
紗月さんが、ほんの少しだけ視線を逸らす。
「れなちんに、チョコあげたのに……」
香穂ちゃん、よよよ、と嘘泣き。
うううう。
ずるい。
四方向からの感情攻撃。
「……一つずつ、だからね」
自分でも信じられない言葉が出た。
歓声。
包みを外す。
小さな四角いチョコ。
これが、運命。
わたしは震える手で、それを口にくわえた。
甘い匂い。
心臓がうるさい。
「誰から……?」
震える声で問うと。
「私から」
真唯。
近い。
距離ゼロ。
「目を閉じるといい」
閉じられるか!
でも、視線が絡んで、逃げられなくて。
唇が、触れた。
ほんの一瞬。
でも確かに重なった感触。
「……甘いな♡」
真唯の声が、すぐ近くで響いた。
死ぬ。
「つ、次……」
紫陽花さん。
「れなちゃん、顔真っ赤」
あなたのせいです。
そっと、優しく、触れる唇。
温度がやわらかい。
甘さよりも、鼓動の方が強い。
「ふふ、ありがとう♡」
ふわっと優しく囁かれて、心臓が爆発した。
「まったく……馬鹿ね、私たち」
そう言いながらも、紗月さんは逃げない。
少しだけ、いたずらっぽい目。
「ちゃんと、受け取りなさいよ♡」
唇が重なり、チョコが一瞬で消える。
背筋がぞくっとした。
最後は香穂ちゃん。
「れなちん、覚悟!」
なぜか気合い。
勢いよく近づいて、ちゅ、と。
「やったー♡」
満面の笑み。
わたしはその場にへたり込んだ。
「……もうムリ」
4人が、わたしを囲む。
「れなちゃんから、ちゃんともらえたよ」
「これ以上ない形でな」
「忘れられないバレンタインね」
「最高の本命だよ!」
わたしは顔を覆った。
本命を4つももらって。
自分はチロル4個。
なのに。
どうしてこんなに、胸がいっぱいなんだろう。
甘いのはチョコのせいじゃない。
「来年は……ちゃんと用意するからね……」
小さく呟くと。
「期待している」
「楽しみにしてるね」
「倍返しよ?」
「十倍でもいいよー!」
囲まれて、笑い声が広がる。
ああ。
やっぱり、ムリムリ。
でも。
悪くない。
そんな、2月14日だった。
◯
放課後、ふわふわした足取りのまま帰宅したわたしは、
玄関のドアを閉めた瞬間にその場にへたり込みたくなった。
「つかれた……」
精神的カロリー消費がえぐい。
チロルチョコで、4人と。
いや、もう思い出すな。
思い出したら顔が熱くなる。
靴を脱いでリビングに向かうと、
ソファに寝転がっていた遥奈が、くるっとこちらを向いた。
「おかえりー、お姉ちゃん」
その顔が、妙ににやにやしている。
「……なにその顔」
「んー?別に?」
怪しい。
圧倒的に怪しい。
わたしが鞄を置いた瞬間、遥奈はぴょんと起き上がり、
テーブルの上に置いてあった小さな箱を両手で持ち上げた。
「はい、これ」
「……なに?」
見ると、可愛らしい赤い箱。
ちゃんとリボンまでついている。
「バレンタインのお返し」
「は?」
思考が止まる。
「いや、お返しってなに」
「昨日、お姉ちゃんのチョコ食べちゃったじゃん?」
食べちゃった、で済ますな。
「だから、ちゃんと代わりに買ってきたの。ほら、ちょっといいやつ」
差し出された箱を、恐る恐る受け取る。
重い。
ちゃんとしてる。
「……あ、ありがと……」
素直に礼を言おうとした、その時。
視界の端に、違和感。
箱のフタの端っこ。
ラメ入りのリップの跡。
うっすら、唇の形。
「……ちょっと待って」
わたしは箱をまじまじと見る。
間違いない。
キスマークだ。
「なにこれ」
「え?」
遥奈、わざとらしく首をかしげる。
「それ」
わたしは指で、フタの唇跡を指す。
「……あー」
にや。
「サービス?」
「サービス!?!?」
心臓が今日何回爆発すれば気が済むの。
「だってさー、お姉ちゃん今日すごい顔して帰ってきたじゃん?」
「どんな顔」
「なんかあった顔」
ぎくり。
「べ、別に何も」
「へぇ?」
遥奈はソファの背にもたれて、じっとこちらを見る。
「お姉ちゃんってさ、顔に全部出るよね」
うるさい。
「ま、チョコ食べちゃったお詫びってことで。ほら、キス付き。お得でしょ?」
「お得の基準がおかしい!」
箱を持ったまま固まるわたし。
今日だけで、何回唇を使わされるんだ。
「開けてみなよ」
言われるまま、箱を開ける。
中には、きれいに並んだハート型のチョコ。
……ちゃんと本命っぽいやつ。
「……これ、ほんとにくれるの?」
「うん。お姉ちゃんのだよ」
さらっと言う。
さっきまでふざけていたくせに、声は少しだけ柔らかい。
「食べちゃってごめんね」
不意打ち。
わたしは言葉に詰まる。
「……別に。食べられたのはショックだったけど」
「けど?」
「……今日、ちゃんといいことあったから」
思い出すとまた顔が熱くなる。
遥奈はじっとわたしを見て、くすっと笑った。
「へぇ。やっぱりなんかあったんだ」
「な、なにもない!」
「そっかー。じゃあさ」
遥奈は立ち上がって、わたしの目の前に来る。
距離が、近い。
「箱だけじゃなくて、もう一個サービスしよっか?」
「は?」
次の瞬間。
ちゅ。
頬に、軽い感触。
「……!」
「はい、追いキス♡」
遥奈は満足そうに離れた。
「今日の分はそれでチャラね」
わたしはしばらくその場に立ち尽くした。
4人と屋上で。
そして家でも。
「……なんなの、今日」
2月14日。
甘すぎる。
心臓に悪すぎる。
手の中の、唇の跡がついた箱を見下ろしながら、わたしは天井を仰いだ。
来年は絶対に、ちゃんと用意する。
そう固く誓った――はずなのに。
「来年も期待してるねー、お姉ちゃん♡」
背後から聞こえた声に、わたしは全力で振り向いた。
「期待するな!」
でもきっと。
また、こうなるんだろう。
そんな予感しかしない、今年のバレンタインだった。
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