春の匂い、というものが本当にあるのだとしたら、
それはきっと、少し甘くて、土っぽくて、
そして胸の奥がふわっと緩むような匂いなんだと思う。
わたしたちは今、その匂いのど真ん中にいた。
メンバーはいつものクインテットの5人。
頭上いっぱいに広がる桜の木。
枝という枝から、これでもかというほど花が咲いていて、
淡いピンクの雲が空に浮かんでいるみたいだった。
風が吹くたび、花びらがはらはらと落ちてきて、
レジャーシートの上や、誰かの肩、誰かの髪に、そっと触れていく。
「すごいなぁ……」
思わず声が漏れる。
こんな場所を取れるなんて、普通は無理だ。
でも――
「朝の2時から場所取りしてましたので」
そう、さらっと言ってのけたのは花取さんだった。
真唯のメイドさんであり、もはや人類の限界を超えた存在。
眠気も寒さも何もかもを超越して、
この大きな桜の木の真下を確保してくれたらしい。
……ありがたすぎて、逆に怖い。
レジャーシートの上には、紫陽花さん特製のお弁当。
蓋を開けた瞬間、思わず「わぁ……」と声が揃った。
彩りが、とにかく綺麗。
だし巻き卵はふっくら黄色で、煮物は照りがあって、
小さなおにぎりは一つ一つ形が揃っている。
料理って、その人の性格が出ると思う。
紫陽花さんの料理は、優しくて、丁寧で、
「食べる人のことをちゃんと考えてる」感じがして、
それだけで胸があたたかくなる。
「れなちゃん、はい。これ好きだったよね」
そう言って差し出されたのは、甘めの卵焼き。
覚えててくれたんだって思っただけで、味が三割増しになるから不思議だ。
香穂ちゃんはというと、なぜかカラオケセットを持参してきていた。
「花見と言えば歌でしょ~!」
どこから電源を取ってるのかは、考えないことにした。
マイクを片手に、ノリノリで歌い出す香穂ちゃん。
桜の下で、青空の下で、ちょっと音程が外れても、全部が楽しい。
香穂ちゃんが最後の高音を決めて、
「どう!?春フェス開幕って感じじゃない!?」とドヤ顔をした、その直後だった。
「では、少しだけ」
真唯が静かに立ち上がる。
いつの間にか用意されていたギターを肩にかけ、桜の下で軽く弦を弾いた。
――音。
それだけで、空気が変わる。
さっきまでの賑やかさとは違う、澄んだ緊張がふわっと広がった。
真唯の指は迷いなくフレットを滑り、
難しそうなフレーズを、まるで呼吸みたいに自然に弾き切る。
花びらが舞う中、その優しい音だけが、やけに鮮やかに響いた。
この人、なんでもできるじゃん。
しかも顔はいつもの涼しいまま。
香穂ちゃんが「ちょっと待って!?本気出しすぎ!」とぷんすか抗議している。
ぽかぽかとした日差し。
地面から伝わるほんのりした温もり。
お腹もいっぱいで、風も気持ちよくて――
……だめだ。
眠くなる条件が、全部揃ってる。
「れなちゃん、こっちおいで」
そう言って、紫陽花さんが軽く膝を叩いた。
拒否する理由なんて、どこにもない。
膝枕。
柔らかくて、あたたかくて、
視界には桜と空しか入らない。
頭を預けた瞬間、
体の力がすとん、と抜けた。
「幸せ……」
小さく呟くと、紫陽花さんの手が、わたしの髪をそっと撫でた。
一定のリズムで、優しく、優しく。
少し離れたところでは、真唯、紗月さん、香穂ちゃんがトランプをしている。
真唯は涼しい顔でカードを切り、
紗月さんは明らかに真唯を意識して、
一手一手に無駄な気迫を込めている。
「……ふふ、君の考えは手を取るように分かる」
真唯の声が聞こえた次の瞬間。
「……っ!」
紗月さんの顔が、みるみる青くなった。
「やったー!サーちゃん、今日一番の顔してる!」
香穂ちゃんが腹を抱えて笑う。
紗月さんは悔しそうに唇を噛みつつ、
それでも本気で怒らないのが、なんだか可笑しい。
……平和だ。
胸の奥で、じんわりと幸せが広がる。
この時間が、ずっと続けばいいのに、なんて思ってしまう。
その時だった。
「お姉ちゃーん!」
聞き慣れた声。
嫌な予感しかしない。
視線を向けると、妹の遥奈が、友達を二人連れてこちらに走ってきていた。
湊さんと、星来さん。
「こんにちは」
湊さんはぺこりと礼儀正しく挨拶する。
「えっ、王塚真唯さん!?本物!?こんな近くに!?マジ!?」
星来さんは、もう完全にテンションが振り切れている。
真唯の大ファンである彼女にとって、これは事件レベルの遭遇らしい。
「落ち着いて。私は逃げないよ」
真唯は相変わらず落ち着いていて、
その対応が余計に星来ちゃんを沸騰させていた。
そして――
「……あれ?」
星来さんの視線が、香穂ちゃんに移る。
「……なぎぽじゃないですか」
「セララーラ・セーララ!」
「ボーボボみたいに言うな!」
空気が、一瞬で変わった。
コスプレ仲間。
つまり、ライバル。
火花が、見える。
幻覚じゃない。絶対。
「今日の服、守りに入ってません?」
「そっちこそ、安定狙いすぎじゃない?」
バチバチ。
完全にバチバチ。
「せっかくの平穏が……」
思わず、心の中で呟く。
でも――
周りを見渡すと、
紫陽花さんは困ったように微笑んでいて、真唯は面白そうに眺めていて、
紗月さんは「やれやれ」と肩をすくめていて、遥奈は楽しそうに笑っている。
……みんな、笑顔だ。
「……まぁ、いっか」
そう思えた。
騒がしくても、予想外でも、この空間が壊れるわけじゃない。
桜の花びらが、また一枚、頬に落ちた。
平和って、静かなことだけじゃなくて、
こうして笑い声が重なることなのかもしれない。
わたしは、紫陽花さんの膝の上で、もう一度、ゆっくりと幸せを噛みしめた。
◯
……おかしい。
さっきまで、確かにここは
「のんびり桜を眺めてお弁当を食べる平和な花見」だったはずだ。
それがどうして――
「用意、完了です」
花取さんのその一言で、世界は決定的に別の方向へ転がった。
いつの間にか桜の木の横に設営されていたのは、
簡易カーテン。
しかも三区画。
風でひらりと揺れる布の向こう側から、
ごそごそ、ばさばさ、
衣装を広げる音が聞こえてくる。
「ちょ、ちょっと待って!?なんでこうなるの!?」
わたしの悲鳴は、完全に桜に吸われて消えた。
発端は、香穂ちゃんと星来ちゃんの火花だった。
「花見でコスプレ?アリだニャ☆」
「はい?負ける気しませんけど?」
「あ~ん?」
「あ~ん?」
そんな軽口の応酬が、気づいたら「じゃあ見せ合おう」になり、
「どうせなら比べよう」になり、最終的に――
「三つ巴にしましょう」
と、花取さんが静かに宣言したのだ。
こうして即席で編成されたチームが、これである。
れな子&真唯&紫陽花チーム
香穂&紗月(なぎぽ&ムーン)チーム
遥奈&星来&湊チーム(後輩ズ)
……なにこの地獄みたいな構図。
「れなちゃん、大丈夫。私がいるよ」
「安心感の方向性が違う気がするんだけど……!」
「ほら、れな子。背中のチャックをしめるよ」
真唯はなぜかやる気満々だし、
紫陽花さんは「え、ええと……」と困りつつも、
衣装を渡されて断れない優しさを発揮している。
一方その頃――
「じゃーん!今回はユニット衣装だよ!」
「月と海の対比、完璧でしょ」
香穂ちゃんと紗月さん――
なぎぽ&ムーンは、息ぴったりでポーズ練習中。
紗月さん、あの対抗心が変な方向へ、
完全に「勝ちに行く目」をしている。
さらに向こうでは――
「なぎぽ!刮目してください!若い者の底力ってやつですよ!」
星来をリーダーとした後輩ズが元気いっぱい。
遥奈までノリノリなのが、地味に一番つらい。
「お姉ちゃん、ちゃんとやってよ?」
「やってるよ!やってるけど心が追いついてないだけ!」
そして――
「それでは、順番にどうぞ」
花取さんの進行で、桜の下は完全に即席コスプレ発表会と化した。
拍手。
歓声。
スマホを構える野次馬(※花見客)。
……花見って、こんなんだっけ?
3チームそれぞれが披露するたびに、盛り上がりは加速していく。
可愛い、かっこいい、完成度高い、いろんな声が飛び交って、
もはや桜は背景扱いだ。
「こんなお花見、ムリ~~~~!!」
紫陽花さんの衣装の裾を直しながら、心の底からしょんぼりしていた。
平和とは。
のんびりとは。
桜の下でうとうとする予定は、どこへ行った。
でも。
ちらりと周りを見ると、
みんな楽しそうで、
笑顔で、
真剣で、
ちょっとバカで。
……ああ、もう。
「……ま、いっか」
花見は壊れたけど、この時間は、ちゃんと楽しい。
花も恥じらう乙女とも言うしね……。
わたしは桜の下で、コスプレ衣装のまま、
深く、深く、ため息をついたのだった。
――こんな花見、ほんとに想定外だよ。
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